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 遭難十五日目。

 食料は尽きた。水も尽きた。スマホの電池も尽きた。体力も尽きた。

 できることは、ただ死を待つことだけだ。この、深い深い森の中で。

 でも、これは全て自業自得だ。人生にヤケをおこし、貧弱な装備で山にやってきたから当然だ。

 ふと、何かの気配を感じた。

 重い瞼を開く。

 誰かが立っている。

 茶色いフードと裾の長いマント。手足は細く、靴は履いていない。フードの中は真っ暗で、顔は見えない。

 一瞬、救助が来たのかと思った。でもこれは違う。これは、人ではない。こんなところに素足でやってくる人間などいない。

「……誰だ?」

 乾いた唇を動かし、なんとか声を出す。

「梟だよ」

 男とも女ともつかない声で、それはそう言った。

 言われてみれば、マントの裾が鳥の羽を思わせるつくりになっている。

「こんなところに人間が来るなんて珍しいから、見にきたんだ」

 梟はそう言って、クスクス笑う。

「水か何か、分けてくれないか?」

「残念だけど、近くに水飲み場は無い。あったとしても、分けてあげない。何故なら君は私に食われるからね」

 何か言う気にもなれない。もう食べられるのならそれでも構わない気がする。できれば痛くない方法で食べてほしいのだが。

「おや?」

 梟は私の持ち物に手を伸ばす。

「本だ。久々に見た」

 ここ最近、カバンに忍ばせていた本だ。通勤時間や休憩時間に読んでいた。遭難し、救助を待つ間も、気を紛らわせるために読んだ。

 梟は私の隣に座ると、本を読み始めた。

「本ならやるから、救助を呼んでくれ……それか、苦痛無く殺してくれないか……」

「んー」

 生返事だ。さすが梟、人間とは感覚が違う。

 無限にも等しい時間が流れた後、梟はパタンと本を閉じた。

「面白かった」

 梟は私のそばにかがみ込む。不思議なことに、これだけ顔が近いのにも関わらず、フードの中は全く見えない。

「ねえ、続きは?」

「森の外に行けば、ある」

「本当に?」

「本当だ。たくさん読ませてやる」

 ふわり、と身体が浮き上がった。そして強い風がふき、私は何も分からなくなった。

 気がついた時、私は病院にいた。山の麓で倒れていたところを発見されたらしい。周りの人間はどうやって下山したのか色々尋ねてきたが、私はしらばっくれた。

 私を助けてくれた梟はというと、ベッドの横に居座り、本はまだかと催促してくる。他の人間にこの梟は見えないらしい。私はタブレットで電子書籍を購入した。梟にタブレットの操作方法を押して、本を読ませた。

「ふむ。面白かった」

 梟は満足げに頷いた。

「ところで、これは何? これも小説のようだけど」

 そう言って、梟が見せたのは、私が書いた小説だった。

「な──嘘だろ、どうやってこれを!」

「適当にこの板を叩いていたら見つかった。作者名は、君の名前だね。もしかして、あなたは自分で話を書いているの?」

 とっとと消去しておくべきだった。

「……ああ。作家になるのが夢で、賞に応募していたんだ。それはこの前応募して、落選した奴だ」

 数えきれないくらい小説を書き、応募し、落選してきた。今まで耐えに耐えていたが、この小説が落選した時、プツリと何かが切れた。それで死んでやる、と意気込んで山に登った。その時は、まさか本当に死にかけるとは思っていなかったが。

「それは放っておけ。他のを読めばいい」

「これが読みたい」

「勘弁してくれ」

 駄作を目の前で読まれるなど、何の罰だ。

「読ませないと、君の身体を乗っ取って、魂をバリバリ食ってやるぞ」

「……分かりました。どうぞ読んでくださいませ」

 梟は読み始めた。恥ずかしいしむず痒いし、とにかく不快だ。なのに身体がまともに動かないもんだから、こうしてベッドに横たわってることしかできない。何の拷問だ、これは。

 約一時間後。梟はタブレットから顔を上げた。

「面白かった」

 数年前なら喜んだであろう言葉だ。しかし今は聞いても、ただ虚しさを感じるだけだ。

「続きは?」

「無い」

「書け」

「嫌だ」

「読ませないと、君の身体を──」

「書きます」

 最悪だ。

 タブレットをキーボードに繋ぎ、執筆ソフトを開く。しかし、何も思いつかない。

「おい、どうした。手が全然動いていないぞ」

「考え中だ。気長に待っててくれ」

「時間を稼ぐ出まかせじゃないだろうな」

「違う」

「──分かった。待つとしよう。ただし、サボるなよ。読ませなければ……分かってるだろうね?」

 このクソ鳥、殺してやろうか。こいつを殺して私も死んでやる。何が悲しくて、小説を書かねばならないのだ……だが、実行に移す勇気は無い。私は梟の視線を感じながら、キーボードを叩いた。

 だが、何日かけても、小説は書けなかった。何かよく分からない文章の羅列ができただけだ。

 段々、全てがどうでも良くなってきた。別にいいんじゃないか、死んでも。今まで、己を削って小説を書いてきた。残っているのは、がらんどうの自分だけだ。

「もう書けない」

 私はベッドにバタンと倒れる。

「書かなければ、命はないぞ」

「別にいい。書けないものは書けない。殺すなら殺せばいいさ。ああ、それか、お前が自分で書けばいい」

 最後のは、適当な思いつきだ。

「私が? 書く?」

「ああ、そうさ。俺はもう書けない。お前が書けばいい」

 梟は無言だった。しばらくして、私に背を向け、机のキーボードを軽く叩く。

「ねえ、この機械、どうやって使うんだい?」

 私は渋々ベッドから起き上がった。

 

 

「すごい。これはすごいぞ、梟」

 タブレットを持つ手が震える。

「本当にちゃんと読んだか?」

「ああ。特に面白いのは──」

 私は早口で感想を喋る。梟はそれを聞き、満足げに頷く。

 梟は飲み込みが早かった。パソコンの使い方をすぐに覚え、小説を書き始めた。最初に書いた小説は、私が書いた小説の続編──と思いきや、全然関係ないショートショートだった。でもそれはとても面白かった。キャラクター、文体、ストーリー、どれをとっても私より、いやどんな文豪より遥かに優れていた。

 小説を書く楽しみに目覚めた梟は、次々と小説を書き始めた。人外の存在である梟は、人間には書けない小説を書く。巷に溢れている三文小説とは全く異なる物語を紡ぐのだ。

「梟が書く小説、好きだよ」

 私はため息をついて言った。今日も、梟は惚れ惚れとする小説を書いている。

「そうかい。そりゃ良かった。そうだ、君の名前でこれらの小説を出版したらどう?」

 は?

「小説家になれるよ。夢なんでしょう?」

「いやいや、何を言うんだ!」

 実際、考えたことがないわけではなかった。しかし、良心とプライドが許さない。それだけはやってはいけない。それだけは。

 なのに。よりにもよって梟がそんなことを言うなんて。

「何をそんなに怒ってるんだ?」

「そんなことしても、本当に小説家になれるわけではないだろ! お前が書いたんだから!」

「そうか?」

「そうだ! そんな盗み、俺はやりたくない」

 梟は少し考え、言った。

「じゃあ、君の好きなようにするといい」

 逡巡の末、応募することにした。

 これほど優れた小説を机の引き出しにしまっておくのは勿体無い。それに……少し、夢を見れるかもしれない。

 ただ、私の名前で出すのはどうしてもできなかった。だからペンネームは『梟』にした。

 結果は当然、大賞だった。小説は出版され、大ヒットした。幾度もの重版が行われ、アニメ化ドラマ化映画化を果たした。

 私はマネージャーとして、それらに対応した。作家先生は人嫌いだから私が対応します、と言って、鼻高々に交渉を行った。

 梟はというと、外の反応には一切頓着せずに、小説を書き続けていた。

「なあ君、また小説を書かないのかい?」

 時折、私にそう問いかけてきた。当然私は首を横に振った。何せもう書けないし、書けたとしても忙しすぎて時間がない。

「君に会えて良かったよ」

 ある夜。税金の計算をしている時、梟は言った。

「いきなりどうしたんだ?」

「今の生活は悪くないな、とふと思ってね。住む場所も食べるものにも困らない。物書きという趣味もできたし」

「それをいうなら俺もだ」

 いつぞやの遭難事故が思い出される。あの時梟に出会わなければ、今の生活はなかった。

「私は小説家になれなかった。才能もないし、それは仕方ない。だが、こんな私でも、君のおかげで小説家気分を味わえている。毎日夢を見れて、幸せだよ」

 そう言った時だった。

 キーボードを叩く梟の右腕が、肩からボトッと床に落ちた。

 梟は左手で腕を拾おうとする。すると、その指先がポキッと折れた。

「ああもう、限界だ」

「げん、かい?」

 何だ。何だこの状況は。梟、一体どうしたんだ。

「この身体さ。この身体は元々、ずっと前に、森に迷い込んだ人間だよ。随分古くてね、ガタが来てた。騙し騙しやってたけど、もう無理そうだね」

 梟の言葉の一つ一つが、私の脳を穿つ。

「じゃ、じゃ、じゃあ、どうなるんだ、君は。このまま死ぬのか?」

「このままだと、そうなるねえ」

 梟はあっさりそう言った。

 私は思わず梟の肩を揺さぶろうとし──寸前で手を止める。強い衝撃を与えてはいけない。

「何か、私にできることはないか?」

「新しい身体を用意してもらうことかね」

「私の身体は駄目なのか?」

「最初、森で出会った時はそのつもりだった。だけど、面白い趣味を見つけてしまったし、変に情も湧いてしまったし」

 梟は困ったように笑う。

「私の身体でいいならば、是非使ってくれ」

「いやいや、そう簡単に決めていいことじゃない。君の身体を使うには、君の魂を食べて、身体の中身を空っぽにした状態で中に入らなくちゃならない」

「なおさらいいじゃないか」

 想像する。私の姿をした梟が、私の目でディスプレイを見、指を動かし、物語が生まれる様を。

 それは私の悲願。最高に甘美な夢。

 満面の笑みが溢れるのが、自分でも分かる。

「私は小説家になれるじゃないか!」

 

 

「──どうかな?」

 某大手出版社の、高層ビル。

 小さな会議室で、編集者が原稿を読んでいた。

 その向かいには、一人の男が座っている。彼は、今まで小説家『梟』の、マネージャーを名乗っていた。

「これで終わりなんですか?」

「ああ。その方が想像の余地があるかと思って。それに、私の小説家としての特徴や経歴を考えると、より臨場感が出るんじゃないかな」

 梟は、顔も年齢も性別も不明、メディアに一切顔を出さないことで有名だ。それが突然、梟のマネージャーが、こうして小説を出してきたのだ。

「そうですね。面白いと思います」

 編集者は原稿をカバンにしまった。

「ところで……今まで、マネージャーのあなたが小説を書いていたんですか? 梟という人物は存在しなかったと?」

「まあ、そうだね。最初はちょっとした遊びのつもりだったんだが、あっという間に本が売れて、引っ込みがつかなくなってしまって。こういう形で種明かしをしようかと」

「なるほど。分かりました。では、この原稿を校正に渡します」

「ああ、よろしく頼むよ」

 そこで会議は終わった。編集者と別れ、ビルの外へ出る。

 外はすっかり夜。街灯やビルの明かりが眩しく輝く。

 懐から、分厚い紙束を取り出す。随分古く、ボロボロだ。

「続きを読みたかったんだがね」

 紙束をしまう。

 そして、音も無く、暗い空に飛び立った。

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