──魔界。千人もの召使いを抱える、ハギオン伯爵の城の中。
「リカ、これを二階へ持っていって」
トカゲ頭のメイド、エコが、木箱を少女に渡す。
「はい!」
少女は箱を受け取ろうとするが、重さを両手で受けとめきれず、床に落としてしまう。
それを見た他の召使いがクスクス笑う。
「全く、その右手は飾りなのかい?」
少女の右の肘からは、身体に不釣り合いなほど長い枝が伸びている。
「ご、ごめんなさい」
少女は俯く。エコはにかっと笑う。
「いいよいいよ、別に。じゃあそれは私が持っていこう。こっちは大丈夫かい?」
シーツのつまったカートを指差した。少女は少し押してみる。そんなに重くない。
「これは大丈夫」
「じゃあ洗濯室に持っていってくれる?」
「うん」
広い廊下の端を、少女はゴロゴロとカートを押して歩く。他の魔物の視線が、次々と少女に突き刺さる。
「見ろ、チビだ」
「腕はあんなにデカいのに弱っちいよな」
「まるで人間みたいだ。食材が間違ってこっちに来ちまったのか?」
少女は口をへの字に歪ませる。
(ええそうですよ! 人間ですよ私は!)
少女の名前は山田里香。どこにでもいる日本の女子高生だ。学校から帰る途中で、何故か魔物が住む城に迷いこんでしまったのである。
わけが分からず、物陰に隠れて震えているところを、エコに見つかった。彼女は見た目は怖いが心は優しい。帰り方が見つかるまでの間、屋敷でこっそり働けるよう、エプロンを貸してくれたのである。
しかももう一つ、不思議な宝石まで貸してくれた。この宝石を人間が身につけると、魔物はその人間が魔物に見えるようになるのだ。
『逆に魔物がこの宝石を持つと、人間に見えるようになるんだよ。面白いでしょ?』
エコは笑いながら、宝石を里香に貸してくれたのだ。
もっとも、見えるだけで中身は人間のままである。エコの助けなしでは全く仕事が出来ない。
「ほら、元気出しなよ」
いつの間にか、エコが隣にいた。
「できないものは仕方ない。あまりくよくよしなさんな」
「う、うん。ありがとう」
「私は屋根裏に食器を取りにいってくる。最近、食器がいくつか盗まれてね。ちょっと足りないんだよ。予備を出さなくちゃ」
「盗まれた?」
「食器以外にも、椅子だの何だの、色々となくなってる。他にも、突然誰かに殴られたって事件も起きていて、なんだか城の中が物騒なんだよ。リカも気をつけてね」
「うん、分かった」
途中の階段でエコと別れた。里香はゴカートを押し、洗濯室に入る。
普段は誰かいるはずだが、今は誰もいない。たくさんのシーツやタオルが散らばっている。
里香はカートから手を離し、適当な木箱の上に座った。ため息をつき、ぼうっと天井を見上げる。
(……お母さんとお父さん、どうしてるんだろう)
普段は考えないようにしていることが、ふと脳裏をよぎる。
魔界に来て早十日。エコと一緒に探しているが、人間界に戻る方法は全く見つからない。
(もしかすると、一生この世界に──いやいや、そんなこと考えちゃ駄目!)
パチパチとほっぺたを叩いた、その時。
目の前に、一人のメイドが立っていた。身体に不釣り合いなほど大きい右腕、植物の蔦のような左腕。口元に浮かんだ微笑み。
少し遅れて、里香は気づく。
「……私?」
そう呟いた瞬間、メイドの左手の蔦が、里香の首に巻きついた。そのままギリギリと里香の首を締めあげる。
息ができない。里香の意識が遠のいていく。
その時、洗濯室のドアが勢いよく開いた。
「見つけたぞ!」
黒いマントを羽織った山羊頭の魔物が、杖のようなものをメイドに向けた。その瞬間、目の前で眩い光が弾ける。里香の首から蔦が離れ、呼吸が楽になる。
「よーし、今度こそ……ってあれ?」
山羊頭は目をパチクリさせると、パッと飛び起きた。
「え、もしかして、人間ちゃん?」
里香は胸元に手をやる。宝石がない。今の騒動で、落ちてしまったらしい。
「あーでも、今は」
山羊頭は洗濯室を飛びだした。しかし、少しして、がっくりと肩を落として帰ってくる。
「はあ、また逃しちゃった」
そう言って、里香の隣に座る。
「あの……その、驚かないの?」
里香は恐る恐る尋ねる。
「え? 君が人間だってこと? 驚いてるよ。今すぐ研究したいもん。でもアレを退治する方が先だ」
「アレ?」
「さっき見たでしょ。ドッペルゲンガー」
名前くらいは里香も聞いたことがあった。
「えっと、もう一人の自分ってやつ? 見たら死ぬっていう……」
「全然違うよ。他人そっくりに化けて悪さをする魔物さ。実験中に間違えて召喚しちゃったんだよ」
「実験?」
「魔界と人間界をつなげる実験をしてたんだ。そしたら、世界の境界にいるアイツが出てきちゃった。十日前からずっと追っかけてるんだけど、捕まらないんだ」
「……え? て、ことは」
里香は山羊頭の肩を掴んだ。
「私が魔界に来たの、アンタの実験のせい?」
山羊頭はぽかんとする。
「そう……なのか。ということは、実験は成功したんだ! やったあ!」
「してないしてない! 私、帰りたいの! お願い、人間界へ帰してちょうだい!」
鬼の形相で山羊頭の肩を揺さぶる里香。
「わ、分かった! でもまずはドッペルゲンガーを捕まえてからだ。奴は日増しに性悪になっていく。最初は物を盗み、やがて魔物達を傷つけはじめ、最後は無差別に殺し始める。いつ死人が出てもおかしくない」
「どうやったら捕まえられるの?」
「それが難しいんだよ。何にでも変身できるからな、奴は。小さい虫や蜘蛛に化けて上手く逃げるんだ。上手く隙をつかないと──」
その時、外から悲鳴が聞こえた。
里香と山羊頭は、洗濯室の外へ飛びだした。悲鳴や怒声が上の階から聞こえてくる。
「──屋根裏部屋で──」
「トカゲのメイドが──」
逃げ惑う魔族の会話が、里香の耳に入ってくる。
(まさか、エコに何か起きたんじゃ……)
里香は駆けだした。山羊頭が後ろで何か叫んでいるが、耳に入ってこない。階段を数段飛ばしで駆けあがり、身体の大きい魔族達の隙間を掻いくぐって、屋根裏部屋に飛びこむ。
部屋はひどい有様だ。戸棚が倒れてものが散乱し、窓は割れている。
部屋のど真ん中に、二人のエコがいた。とっ組み合いになっている。片方は必死の形相で、もう片方は微笑んでいる。どちらも里香には気づいていない。
(ど、どうしよう)
里香は後悔した。自分が来ても、何の役にもたたない。下手すると死ぬだけだ。
笑顔の──偽物のエコが、本物のエコの顔面を殴る。呻き声があがる。
『何にでも変身できるからな、奴は。小さい虫や蜘蛛に化けて上手く逃げるんだ』
ふと、山羊頭の言葉がよぎった。
(そうだ)
里香の脳裏に名案……かもしれない案が思い浮かんだ。成功すれば生きて帰れるかもしれない。でも、失敗する可能性の方が高いし、何より怖い。
本物のエコが、里香に気づいた。目が合う。目で何か訴えている。
(今よ!)
エコの目がそう言った気がした。
里香は胸元のリボンから、宝石を外した。それを持って静かに歩く。ドッペルゲンガーの背後にまわり、近づく。ゆっくり、ゆっくり、ギリギリまで。
エコがドッペルゲンガーの顔を殴る。奴の上半身がふらつく。その瞬間、里香は手を伸ばし、奴のエプロンのポケットに、宝石を入れた。
その瞬間、ドッペルゲンガーの姿が、人間の、小さな子どもの姿に変わった。子どもは宙を泳ぐように飛び、部屋を出ていった。
「エコ、大丈夫?」
里香はエコに駆け寄る。
「あ、ああ。かすり傷さ。全く、逃げろと目で言ったのが分からなかったのかい?」
ドッペルゲンガーは屋根裏部屋から素早く逃げた。いつものように、虫や空気に変身して。だが、彼は気づいていない。どんなものに変身しても、周りからは人間の子どもの姿にしか見えないことに。
階段を登ってきた山羊頭が、杖の先を向ける。
「吹き飛べ!」
魔術の光がドッペルゲンガーに直撃する。一瞬で身体を焼き尽くし、轟音と共に爆発四散する。衝撃で空気がビリビリ震え、壁に大穴が空く。
山羊頭はパラパラと舞い散る木屑を払いながら、階段を登って屋根裏部屋を覗いた。二人とも生きている。
「ドッペルゲンガーは?」
「ようやく倒せた。お手柄だよ、人間ちゃん」
山羊頭は杖をふる。キラキラした光の粉がエコの身体に降りかかり、傷口が塞がっていく。
「どうやったか知らないけど、奴に宝石を渡したんでしょ? おかげで変身に惑わされずに攻撃できたよ! 本当にありがとう!」
「う……うん」
里香は笑みを浮かべた。
「さて、これで実験に戻れる。約束通り、人間ちゃんを元の世界に戻せるか、研究してみるよ」
「ほほう、実験か」
低い声が、山羊頭の背後からふってきた。彼は振り返った。
巨体の牛頭の魔物が、山羊頭を見下ろしている。
「執事から話は聞いている。城の食客が、夜な夜な部屋に閉じこもって怪しげなことをし、最近は魔術であちこちを破壊していると」
壁の大穴から、外の爽やかな風が吹き込んでくる。
「ああ、それはちょっと。悪さをする奴を退治しようとしていただけですよ」
「そうか、ご苦労。ところで、実験とは何だ?」
「いやあ、それはその」
「何故人間がここにいる? お前は何か知ってそうだが」
「そ、そのぅ」
「仕方ない。そこのメイドに聞こう。一体何があった?」
執務室でエコと里香の話を聞いた、牛頭の魔物──伯爵は、大きなため息をついた。
「リカ、といったな」
「は、はい」
「この馬鹿に人間界へ戻る方法を考えさせる。数日後には帰れるだろう」
「本当ですか?」
「ああ。すぐに帰れる。そうだろう?」
「ええ、もちろんです!」
隣に立つ山羊頭はガクガクと首を縦に振った。心なしか、冷や汗をかいているように見える。
(頑張って、山羊頭。貴方のせいでここに来ちゃったんだから、本当に頼んだわよ)
里香は心の中でエールを送った。
「エコ、お前は仕事をしなくていい。リカについてあげなさい」
「かしこまりました」
「一番良い客室を二部屋、用意させた。今日はそこで休みなさい」
二人は執務室を出た。廊下を歩いていても、今では誰も里香を馬鹿にしない。
「よかったね、里香。帰れるじゃん!」
「うん……まだ実感がわかないよ」
「いやあ、本当、すごいことだよ。人間界と魔界を繋ぐなんてさ。そうだ、もしこっちとあっちを行き来できるようになったら、リカの家に遊びに行きたいな」
「あ、いいね。でも、その時は宝石も持ってきてね。人間は魔物を見たらびっくりするから」
「分かったよ。楽しみだなあ」
二人分の笑い声が、廊下にこだました。
数日後。
里香は無事、家に帰ることができた。しかし、人間界と魔界が繋がったことによって、歴史に残る大騒動に巻きこまれてしまうのだが……それはまた別の話である。