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  十年ぶりに、あの人に会った。

 何年経っても忘れられない、初恋の人。

「あの、何か?」

 じっと顔を見つめすぎてしまった。先生は困惑の眼差しでこちらを見ている。

 しまった。引くに引けない状況になってしまった。

「先生! お、お久しぶりです!」

 声がうわずってしまった。

 先生は、ポンと手を打った。

「鈴木さん。お久しぶりですね」

 覚えてくれてたんだ。

「まさかこんな所で会えるなんて」

「全くです!」

 ここはバス停。今日はたまたま、このバスに乗って公園に行く。その公園は紅葉が有名で、今の季節がちょうど見頃だ。

「先生はどちらへ行かれるんですか?」

「紅葉狩りに行くんです」

 そんなまさか。そんな!

「わ、私もです。私も次のバスで、紅葉を見に公園へ行きます!」

「そうなんですか? いやはや、奇遇ですね。私、本当はもっと早く出発する予定だったのですが、急な仕事が入ってしまって。だからこの時間のバスになったんです」

 先生はビジネスバッグをポンポンと叩いた。先生には悪いけど、その急な仕事に感謝だ。

 バスがやってきた。公園行きのバスだ。プシュウ、と音がしてドアが開く。

「お先にどうぞ」

「ありがとうございます……」

 高鳴る心臓を抑えながらバスに乗り込む。中は混んでいて、空いている席が横並びの椅子しかない。私と先生は並んで座った。

 そっと先生の横顔を伺う。きちんと整えられた髪。襟の綺麗なスーツ。十年前と何も変わらない──と思いきや、そうでもない。頬の皺や少し混じった白髪に、十年分の年月を感じさせる。

「先生は今も第一高校にいらっしゃるんですか?」

「いえ、異動しまして、今は第五高校にいます。この辺りにくるのは久しぶりですね」

「そうなんですか。第五高校でも、きっと生徒に大人気でしょうね」

「いやいや。生徒が仲良くしてくれているんです。もっと精進せねば、と思いますよ」

 そう言って笑う先生は、十年前と変わらない。

 あの頃、私は十八で先生は二十六歳だった。背筋をすっと伸ばして教壇に立ち、朗々と教科書の問題を解く姿が、乙女だった私の心を射抜いたのだった。

 聞き取りやすく、分かりやすい説明。輝く笑顔。いつどこを切り取っても絵になる佇まい。

 もうほとんど一目惚れだった。先生に会いたくて職員室に毎日のように行って、先生の授業の成績はいつも一番。周りの友達には先生の良さを布教して回った。友達は引き気味で話を聞いてくれた。今にして思えば……うん、ちょっと、いやだいぶ恥ずかしい。

 でも今、私は高校生に戻ってしまった。

「今でも覚えてますよ。先生のテストの解説です。間違えて来週の小テストを解説してましたよね」

「まだ覚えていたんですか? 忘れてください……」

 先生は顔を背ける。私の鼓動が高鳴る。

「皆さんは笑い話にしていますが、教師としては全く洒落になりません。今思い出しても冷や汗が出ます」

 そうかな。私は慌てる先生が見れてとても嬉しかったんだけど。

「先生の授業は分かりやすくて楽しかったです。今でも色々と覚えてます」

「鈴木さんはとても熱心に授業を受けていましたね」

 話が弾む。窓から入ってくる日光が、先生の顔と肩を照らす。整えられた髪の毛、ほんのり香水が漂う、ダークグレーのスーツ。

 ああ、この瞬間を絵に描けたらいいのに。

「卒業してからはどうですか? 元気にやってますか?」

「ええ。なんとか就職して──」

 卒業。

 友達に告らないのか、と再三再四せっつかれた。でも私は思いを告げることはなかった。そんな勇気はないし、それに、先生には恋人がいると、もっぱらの噂だった。ほぼ真実の噂だった。だって先生の机には、先生と女の人とのツーショットがあった。バレンタインの時、他の女子が先生の恋人について冗談混じりで聞いたら、ものすごく照れていた。見たことがないくらい顔がふにゃふにゃになっていた。

 先生が選んだ人なら、それはもうさぞかし素敵な人だろうし、先生の幸せを壊すようなことはしたくない。だから、挨拶だけして、私は高校を卒業した。

 先生の左手につい、視線が吸い寄せられる。薬指に、指輪は無い。

「それで、運動会の時──」

「──京都で──」

 口は動いて会話しているけど、何にも内容が入ってこない。

 私が言う。駄目だ。そんなこと考えちゃ。だって相手は先生だよ? それに指輪がないからって、誰とも付き合ってないという意味にはならない。

 もう一人の私が言う。あれから十年経った。私も大人だ。それに初恋の人と恋人になって、何が悪いの?

 ちょうど高架下に入った所で、窓ガラスに私の顔が映る。

「紅葉、どんな感じなんでしょうね?」

 先生が尋ねた。

「楽しみですよね」

 そう答える私の頬は、紅葉のように真っ赤になっていた。

 

 

 公園に着いた。中に入る前から、紅葉が見える。人の出入りはそこそこ。秋の柔らかい風がふいている。絶好の紅葉狩り日和だ。

 門で入園料を払い、中へ入る。落ち葉で彩られた小道と、そして真っ赤な紅葉の木。

「綺麗ですね」

「ええ!」

 先生はとても楽しそう。浮足立っている。よほど紅葉を見たかったのか、それとも私と会えて──いや、ないない。先生はただ、ここに来るのが楽しみだっただけだ。

 目の前が開けてくる。日本庭園の広場だ。大きな池と、そこにかかる石橋。池にひらひらと落ちる、真っ赤な紅葉。

「あ、鈴木さん。待ち合わせてた人がいるので、すみませんが、ここで」

 先生はパッと手を振ると、駆け出していった。

「え?」

 何て? どうしたの、先生?

 先生が向かう先には、一人の女性が立っている。先生に向かって手を振っている。

「お待たせ! ごめんね、仕事が長引いちゃって」

 先生の声が、私の耳に届いた。

 先生とその女性は、楽しそうに庭園へ歩いていく。

……ああ、うん。そうだよね。先生ほどの人に、恋人がいないわけないよね。いい歳して浮かれちゃって、恥ずかしい。

 そうそう、今日は紅葉を見に来たんだった。この公園には何千本もの紅葉がある。早く行こう。馬鹿みたいに突っ立ってないでさ。もっと向こうの、人気が無いところへ行けばいい。

 日本庭園の周囲に延びる、石畳の道を歩く。まっすぐ前へ、前へ。

 でも目は、庭園の方を見てしまう。

 石橋の真ん中。先生とあの女性が向かい合って立っている。

 先生が大きく頭を下げ、彼女に何かを差し出した。彼女はそれを受け取る。遠くて何を受け取っているのかは見えないけど、すごく喜ばれているのがよく分かる。

 庭園の真ん中、石橋の上。笑い合う二人。風がふき、紅葉が二人の周りを舞い落ちる。

 綺麗だ。やっぱり先生は、どんな時でも絵になる。

 後にも先にも、こんな美しい光景を見ることは無いだろう。絵にもスマホにも残せない、幸せそのものの世界。

 でも、ごめんなさい先生。おめでとうございます、とは言えません。まだ時間がかかりそうです。

 庭園の横を通り過ぎる。落ち葉を踏む音が、心地よく聞こえる。

 

(完)

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