夜九時を告げるチャイムが鳴る。
「はい、今日はここまで。気をつけて帰りなさいね」
先生が黒板の数式を消しはじめる。生徒達は教室から出ていく。
小夜も、ノートと教科書、筆箱を学生カバンにしまう。
『塾終わったよ』
スマホで親に連絡する。すぐに既読がついた。
『分かった。九時に駅前で待ってる』
いつも通りの返事を確認すると、小夜はスマホをポケットにしまい、席を立つ。他の学生と一緒に階段を下り、玄関へ。『大学入学共通テストまであと三ヶ月!』と書かれたポスターの前を通り抜け、外へ出る。
街灯が輝く大通り。立ち並ぶ高層ビルは煌々と輝いている。
小夜は時間を確認する。余裕で電車に間に合いそうだ。
途中のコンビニで夜食の唐揚げを買い、食べながら歩く。十月半ばになると、夜も結構冷えてくる。寒い季節に食べる唐揚げは美味しい。
「あ、あの。大宮さん?」
ふと、小夜の苗字を呼ぶ声が聞こえた。
街灯の下に、誰かが立っている。小夜と同じ高校の制服を着た男子だ。
「えーっと……」
「光矢だよ。高橋光矢。その、塾で一緒の」
言われてみれば、見覚えがある顔だ。学校のクラスメイトだし、塾でも同じ教室だ。小夜の斜め前の席に座っている。ただ、今日は塾に来ていなかった。
「ああ、思いだした。どうしたの?」
「その、あの……ぼ、僕と、デートしてください! 今すぐ!」
光矢は深々と頭を下げた。
「え、ええ?」
「あの、お願いします。デートしてください!」
「いや、無理よ!」
「お願いします!」
周りの通行人がジロジロと小夜達を見る。
「え、えっと、顔をあげて」
「はい」
「人が多いし、あっちへ移動しようか」
大通りから横に入った細い道に、小夜と光矢は移動する。
「あのさ。私、高橋くんのこと何も知らないし、今は夜の九時だし、デートは無理だよ」
「でもお願いします。どうしても今じゃないと無理なんです」
「どうして?」
「僕、死んでしまったから」
小夜は聞き間違いだと思った。
「今、何て?」
「死んでしまったんです、僕」
「幽霊には見えないけど」
「その、グロいの平気ですか?」
小夜は曖昧に頷く。すると、彼はブレザーのボタンを外し、ひらりと中を見せた。
「見えますかね、これ」
小夜はスマホのライトをつけ、彼に向けた。そして慌てて引っこめる。
一瞬だがはっきりと見えた。光矢の腹部に、ガラスや金属の破片が深々と突き刺さっている。
「きゅ、救急車を」
「無駄です。死んでるから」
「じゃあ何で今喋ってるのよ!」
「ゾンビになったんです。ほら、たまにニュースでやるでしょ?」
ゾンビ。動く死体のことである。
生ける屍が人を襲う、というホラー映画はたくさん作られてきた。しかし数年前、死体が意志を持って動く、という現象が世界で初めて確認された。
その発見以降、半年に一回くらい、ゾンビが発見されている。人種も地域も性別もバラバラで、ゾンビ化の理由は分かっていない。
「本物、なの? 初めて見た」
「僕もびっくりです。ゾンビって血が出ないんだなって」
「いや、びっくりするのはそこじゃなくて……まあいいか。どこでそんな怪我を?」
「交通事故です。走ってたらトラックが突っ込んできて。死んだと思ったんですけど、ピンピンしてるんです」
その時、光矢の首が九十度右に倒れた。
「あ、倒れちゃった。まあそれで、これはゾンビだなって。僕はゾンビになっちゃったんだって、分かったんです。で、ゾンビってそのうち死体に戻るじゃないですか」
小夜は頷いた。ゾンビは日光を浴びるか、浴びなくても時間が経つと元の死体に戻ってしまう。
「それで、やり残したことって何だろうと思った時、大宮さんとのデートが思い浮かびまして。僕、ずっと前から大宮さんのことが好きです。一度でいいからデートがしたくて。お願いします! デートしてください!」
再び頭を下げる光矢。
(どうしよう。こんな夜にデートだなんて。でも、高橋くんは明日の朝には本当に死んでしまう。最後のお願いくらい、叶えたっていいよね……)
小夜はスマホを取り出す。『ごめん、急遽友達と勉強合宿することになったから、今日は帰らない』とメッセージを打ち、返事が来る前にスマホの電源を切る。
「分かった。じゃあ行きましょ、デート」
「い、いいんですか?」
「貴方が頼んだんじゃない。夜だからお店とか開いてないけど、どこへいく?」
光矢は目をキラキラと輝かせる。
「じゃ、じゃあ、早速行きましょう!」
ゲームセンターはまだ開いていた。
最新の景品が並んだUFOキャッチャー、みんなが知ってるリズムゲーム、アイスホッケー台。いつもは学生がたむろしているが、今は奥の格闘ゲーム機に二、三人の大人がいるだけだ。店員すらいない。
「何から遊びますか?」
「無難にUFOキャッチャーでいいんじゃない? あと同級生だし、敬語はいいよ。下の名前で呼んで」
「う、うん。僕のことも光矢って呼んでよ」
流行りのぬいぐるみ──風船犬のフワ太──があるマシンに、小夜は百円を入れた。慎重にレバーを動かす。しかし、マシンの腕はぬいぐるみをつかみ損ね、失敗する。
「僕がやるよ」
光矢が五百円玉を入れ、レバーを操作する。一度目、失敗。二度目、失敗。五度目も失敗し、またお金を入れる。
「そんなにお金を注ぎ込まなくても」
「いいよ。死んだらお金の使い道なんかないし」
光矢は楽しそうにUFOキャッチャーを動かす。
小夜はその横顔を眺めた。顔色が悪い気がしないでもないが、死んでいるようにはとても見えない。
(もしかして、ゾンビというのは嘘だったり?)
小夜の脳裏をそんな考えがよぎる。しかし、ボロボロの学生服が、そうではないと裏付けている。ズボン越しに分かる膝の位置や足の向きもおかしい。骨が折れているのだろう。本人は全く痛がっていないが。
ふと、背後から足音が聞こえてきた。振り返ると、エプロンをつけた店員が歩いてくる。
「光矢くん、店員さんが来た」
店員の表情は、明らかに友好的なそれではない。
「ヤバ、逃げよう」
二人はそそくさと出口へ向かう。店員に追いつかれる前にガラス戸を潜り、寒空の下へ出る。
二人は肩を並べて歩く。
「フワ太、取れなくてごめん」
「別に謝らなくていいよ。それより、次はどこへ行く?」
「そうだね……」
この時間に開いている店はコンビニかファミレスくらいだが、入店したら速攻で補導されるだろう。
「できるだけ遠くまで歩くとか?」
小夜は何となく言ってみた。それくらいしかすることが思いつかない。
「いいね。町から遠く離れて、星空でも見る?」
「そうしよっか」
輝くビル街に背を向ける。
冷たい風が、二人の周りを駆けぬける。
「そういえばさあ」
「はい」
「何で私のことを好きになったの? 特に接点とかなかったよね?」
小夜の覚えている限り、学校でも塾でも話したことは無かった。挨拶すら無い。
「その、小夜さんは環境係だよね。教室の花瓶の花や水を変えてたでしょ」
環境係は、四月の係決めの時、小夜が華道部だからという理由で押しつけられた係だ。しかし花を放置するわけにもいかず、小夜は水や萎れた花を替えている。
「その花を換えている姿が、その、すごく綺麗で、みとれちゃって……気がついたら好きになってたんだよ」
小夜はクスクス笑う。
「何それ」
「ほ、本当だよ!」
「嘘だなんて思ってないよ」
「塾に入ったのも、小夜さんと仲良くなりたかったからなんだよ」
「え? それってストーカー?」
「ち、違うよ!」
「冗談だよ」
光矢はほっと胸を撫でおろす。
「まあ、僕はもう死んじゃったから、お終いなんだけどね」
明るい声でそう言って、足元の石を蹴り飛ばす光矢。
小夜は笑わなかった。
道路を走る車は無い。信号は点滅している。何の音もしない静かな世界を、二人っきりで歩く。
時間の感覚がすっかり無くなった頃。ふと、濃い水の臭いが鼻をついた。
いつのまにか、川の前に来ていた。町外れを流れる、大きな川だ。
頭上に広がるのは、粉砂糖をこぼしたかのような、どこまでも広がる星空だ。
対する地上は真っ暗。光り輝く町は後ろに置き去りにしてきたし、川の向こう側も暗黒に包まれている。
小夜の口からあくびが出る。
「そこの河川敷で横になる?」
「んー、そうする」
堤防の階段を下り、河川敷にやって来る。芝生が敷きつめられた坂道に寝転がる。視界いっぱいに広がる星空。宇宙に吸い込まれる錯覚に陥る。
「正直さあ」
小夜は夜空を見あげながら呟く。
「もっと早く話しかけてくれたら良かったのに」
「それか、交差点を渡る時に左右を確認しとけば良かった」
光矢が言った。
「でも、最後にこうやってデートできて良かったよ。ありがとう」
「早いよ。夜明けまでまだ時間があるんだから、もっと遊ぼうよ」
そう言いつつ、小夜の瞼は重くなっていく。
「はは、そうだね」
光矢の笑い声が暗闇にこだました。
「……ん」
目を覚ます。青色の天井が見えた。ここはどこだっけ、と記憶をたどり、次の瞬間飛び起きる。
東の空が明るい。細長い月と金星が輝いている。
(光矢は──)
いた。
少し離れた所に倒れている。
小夜はスカートについた朝露を払って立ち上がると、光矢の元へ近づいた。
光矢は血溜まりの中に倒れていた。動く気配はない。
ただ、不思議とグロテスクだと感じない。それは彼が背中を向けて倒れており、腹部の酷い傷が見えないからだろう。きっと夜明けが来る前に、わざわざうつ伏せになったに違いない。
小夜は少しの間、黙祷する。
そして、学生カバンからスマホを取り出し、電源を入れた。