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 恭弥は目をパチクリとさせる。

 オフィスの一室。目の前に、スーツ姿の中年男が立っている。

(あれ? 家にいたはず──)

「おい、話を聞いているのか! 全く、お前は──」

 くどくどと続く説教に恭弥はペコペコと頭を下げつつ、心の中で舌打ちする。

(やってくれたな、響子)

 上司の説教から解放されると、自分のデスクに戻る。そしてメモアプリを開く。

 そこには、もう一つの人格──響子とのやりとりが載っている。

『今日の仕事内容はコレ。やっておくね!』

 ため息をつき、恭弥はキーボードを叩く。

『響子、お前またやってくれたな』

 恭弥はそう残すと、ミスの内容を素早く確認し、響子の尻拭いに取り掛かる。

 この肉体には、脳の先天的な異常により、生まれながらに二つの人格が存在している。一人は恭弥、もう一人は響子。

 親が言うには、響子は明るく楽しい性格らしい。しかし、恭弥には鈍臭い馬鹿としか思えない。幼い頃からいつも失敗し、恭弥の足を引っ張る。

「おい、加賀見、まだか? 真面目に仕事をしろ!」

 上司の言葉の棘が飛んでくる。恭弥はため息をつく。

 疎ましい。憎い。上司も、この状況も、厄介な人生そのものも。全てが、ただただ邪魔だ。

 画面の端で通知が光る。カレンダーアプリの通知で、明日は通院の日、とある。

(ダルいな……医者も医者らしい仕事しろよ。人格を消し去る方法を見つけるとかさ)

 

 

「人格を消滅させる方法が見つかりました」

 医者の言葉が、恭弥には、すぐに理解できなかった。

「あー、何かの冗談すか?」

「いえ、冗談ではありません」

 医者の表情は真剣そのものだ。

「脳の機能の一部を遮断する新薬、イドが開発されました」

 一枚のパンフレットが机に置かれる。イドという名前の新薬について書かれている。だが、中身は全く頭に入ってこない。

「カテーテルで薬を輸送し、脳の問題の部分に投与し、人格を消失させることができます。薬の副作用は小さく、リスクも低いです。そして、消失させる人格は選べます」

「選べる……?」

「はい。恭弥さんと響子さん、どちらを消すか選択できます。もちろん、この薬を飲まないという選択肢もあります……このお話は響子さんにもしておきます。お二人で話し合って、決めてください」

 待合室で、恭弥はメモアプリを開いた。

 

 

『医者から話は聞いたか?』

『うん、聞いたよ。でも私は嫌だ。まだまだ生きてたいよ』

『この状況は不便だろ。お前が消えてくれ』

『なんで私が消えなきゃいけないの? そういう君が消えたらいいじゃん』

『いつも俺の足を引っ張るじゃないか。お前のせいで仕事も何もかも上手くいかない。友達も恋人も作れない』

『それはアンタだって一緒じゃん。受験に落ちたのはアンタのせいでしょ。前の旅行の時だって、アンタは私を責めてたけど、私のせいじゃないよ』

『お前さえ消えれば、俺は自由だ。この身体は俺のものだ。だって戸籍や免許証は全部俺の名前だろ! お前はいないんだ。俺の頭の中から消えてくれ!』

『……あ、そう。じゃあいいよ』

 

 

 恭弥は医者に、響子が消えることを選んだと伝えた。何枚もの同意書を書き、医療面接や検査を繰り返し、入院期間と手術日を決めた。秋の中頃に手術し、そこから長く入院する。

 響子はいつも通りだ。ご飯を食べ、仕事をし、ネットサーフィンをしていた。彼女は星空が見えるスポットについて検索していた。旅行雑誌まで買っている。

『旅行に行きたいのか?』

 メモアプリで恭弥は尋ねた。

『別に。少し気になっただけだよ』

 一日一日が過ぎていき、手術日がやって来た。ストレッチャーの上で恭弥は眠らされ、何も分からなくなった……。

 

 

 恭弥は目が覚めた。部屋は個室で、テレビや小さな本棚がある。そばには医者がいて、あれこれと質問された。しかし、彼の感覚では特別何も変わったところはない。

 テレビをつける。なんてことのないニュース番組やドラマがやっている。それをぼんやり眺める。

(時間が飛ばないな)

 今までなら、ドラマの途中で響子と入れ替わってしまう、なんてことがあった。しかしこれからは好きなだけテレビが見れるのだ。

 恭弥はニヤニヤしながらテレビを楽しむ。テレビだけでなく、漫画も小説も読む。誰にも邪魔されず、ゆっくり読める。経過観察のために長く入院しなければならないのが面倒だが、それでも快適だ。

(これが、普通の人の暮らしなのか)

 退院したらあれしよう、これしよう、と指折り数える。まずは友達を作る。それから恋人も作る。今までは人格の入れ替わりに気づかれて人間関係が崩壊してばかりだったが、これからはそんなこともないのだ。

 恭弥はこれからの暮らしに胸を踊らせる。退院の日を、待ち続けた。

 

 

 その日やって来たのは、一人の女性だった。

「響子──じゃなかった、恭弥さんだね?」

 知らない女性だ。彼女はツカツカと歩いてくると、テーブルに果物セットを置いた。

「貴女は……?」

「響子の友達。これはお見舞い」

「ま、待ってください! きょ、響子の、友達? いつ? どこで?」

 響子に友達がいる、ということはメモアプリに書いてあったことがある。しかし、まさかお見舞いに来るほどの仲だとは、恭弥は思っていなかった。

「数年前にライブハウスで知り合って、それからよく会ってたんだ。恭弥さんのことも聞いてる。同じ身体を共有する同居人だって。最初は何を言ってるのかと思ったものだよ」

「……信じたんですか? それを?」

 恭弥の会社の人間に同じことを言っても信じやしないだろう。頭のおかしい奴だと思われる。いや、確かにおかしいのだが。

「実際入れ替わるところを見ちゃったからねえ。覚えてる? 私、恭弥さんと会ったことがあるんだよ」

「え?」

「君、私の顔を見るなりすぐに逃げ出したからねえ、覚えてないだろうね。いやあ、あの時の顔の変化を見たら、響子の言うことは本当だったんだって、納得するしかなかったよ」

 そう言われて記憶を探るが、どうしても目の前の女性のことを思い出せない。心当たりが多すぎる。意識が入れ替わると全然知らない場所にいて、慌てて離れることが、よくあるのだ。

「響子はもう表には出てこないんだろ? 寂しくなるねえ。それじゃあ、そろそろ帰るね。早く退院できることを願ってるよ」

 その後も、響子の友達を名乗る人物がやってくる。二日、三日に一人くらいに。年齢も性別も様々だ。

 彼らに会うたび、恭弥の胸によく分からない暗いもやが立ちこめてくる。

 そのもやを振り払おうと、仕事のパソコンを立ち上げる。会社にリモートワークを申請するメールを書く。

 書きながら、同僚の顔を思い浮かべる。それなりに仲が良かった。

(本当の事を知ったら、どう思うだろう? 受け入れてくれるだろうか?)

 想像し、首を横に振る。今までの経験が告げている。そんなの無理だ、と。

 リモートワークは許可されなかった。そして『来年度の業務について』、という題名のメールも来た。今の恭弥の仕事を、他の人に引き継がせるというのだ。

(職場に俺の居場所はないんだな)

 恭弥はドラマと小説にのめり込んだ。しかし中々集中できず、話の内容が入ってこない。

 結局、響子の友達の相手をするしかない。恭弥は聞きたくもないのに、つい訊いてしまう。響子はどんな人物なのかと。

「響子と話をしてた時から、一度君に挨拶をしておきたかったんですよ」

「響子とはこんな話を──」

 恭弥は鏡を見ている気分になった。響子という名の姿見は、恭弥がどんな人間で、どれほど孤独なのかを映しだす。

「もしかして、」

 はめ殺しの窓の外を見ながら、呟く。

「消えるべきは俺だったのか?」

 

 

 退院日がやって来た。

 病院の外は真冬だ。雪こそ降っていないが、気温は零度近い。吸い込む空気が冷たい刃のようだ。

 アパートに帰ると、中は入院前のままだった。二人分の食器、二人分の服。

 ふと、机に置かれた本に目をとめる。星空の観測スポットについてまとめられた本だ。そういえば、と恭弥は思い出す。響子は星空の観測スポットについて調べていた。

 恭弥はペラペラと本をめくる。しばらく吟味した末、キャンプ場にある一軒のログハウスを予約した。

(何でこんなことしてるんだろうな)

 クレジットカードの番号を入力しながら、恭弥は考える。響子のことを思うと、何かが、ジクジクと痛む。

(罪悪感? それとも──いや、やめとこう)

 首を横に振り、感情を追い出す。何か考えてはいけないことを考えそうになった。

(とにかく行けばいい。一人でのんびり旅することも、この人生で初めてだ)

 少ない荷物を持つ。厚手の白いセーターの上にダウンジャケットを着込み、恭弥は家を出た。電車とバスを乗り継いで行くつもりが、何度も寝過ごして時間を無駄にした。結局、高い金を払ってタクシーでキャンプ場まで行った。

 山を登り、キャンプ場に入る。予約していたコテージに着くと、ようやく一息ついた。柔らかいベッドに寝転がっていたら、いつの間にか窓の外は真っ暗になっていた。

(よし、星を見に行こう)

 コテージを出る。案内板に従って、星空スポットまでの小道を歩く。

 黒々とした木々が頭上を覆い、風に揺られてザワザワと音を立てる。道の端は崖になっていて、そこから先は真の闇が広がっている。

 恭弥は歩いた。次第に周りの景色が変わって来て、広々とした空間に出る。

 ここは高原だ。昼は見晴らしの良い丘、夜は国内有数の星空観測スポットである。

 恭弥は空を見上げる。やがて、地面に座り、ゆっくりと仰向けに寝転がる。視界いっぱいに星空が広がる。

(響子は空へ還ったんだから、俺は土に還ってもいいかもしれない)

 ガラにもないことを思う。でも、崖の下の闇が、森の木々の先が、手招きしている。この原っぱの冷たさも心地よい。

 目を閉じる。闇が身を包む。

 その瞬間、恭弥はログハウスの中にいた。

 目をパチクリとさせる。右手にはスマホが握られている。スマホの画面は光っていて、ビデオメッセージが届いている。恭弥は再生ボタンを押した。

『ドッキリだーいせーいこうー!』

 流れ出した音は自分と同じ、しかし全然違う声。

 映し出された姿は自分と同じ、しかし全然違う顔。

『ビックリした? あのさあ、私が素直に消滅するわけないじゃん。お医者さんと相談して、消えたふりをしてましたー!』

 消えたはずの人間が、満面の笑顔でピースサインをしている。

『大変だったよ? 入れ替わってる間に指一本動かさないでいるのは。でもアンタに一泡吹かせるためだもん、頑張ったよ。いーっぱい仕込みもしたんだ。録画したテレビを見るのは楽しかった?』

 恭弥は一時停止ボタンを押した。ベッドに座る。しばし頭を抱え、天井を見上げ、寝転がり、また起き上がって歩き回り、深呼吸し、そしてようやく再生する。

『様子を見にきた友達から、いっぱい聞いたよ。一人になったと信じる恭弥のことを! あーもうホントおっかしい。笑えるねぇ』

 口元に手を当てて笑う響子。

『でも、これもぜーんぶアンタが悪いんだよ? 私に消えろだなんて言うんだから! でも、こんな所に来るとは思わなかったな。電車やバスでどこに行くつもりだろうと思ってたら、まさかまさかの星空スポット。ビックリしたよ。どうして来たの? 星に興味なんかなかったよね? ねえねえ、どうして? 是非とも理由が知りたいな。後でメモアプリに理由書いといてね。

 あ、そうそう、麓の駅で星空まんじゅうを買って帰ってね。そんじゃあねー』

 画面が真っ暗になる。

 恭弥は星空まんじゅうを検索し、写真を保存した。

 それからメモアプリを開き、一言書く。

『覚えてろよ。いつか絶対ぶっ殺してやる!』

 そしてスマホをベッドに向かってぶん投げた。

 

 

 加賀見恭弥と加賀見響子は、イドによる人格消失治療を、生涯で合計十七回希望し、十七回キャンセルした。

 病院の記録には、そう記載されている。

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