————姉ちゃんの部屋は、思い出がいっぱいだ。
それが、優子が、先週死んだ姉の遺品を整理していて最初に思った事だ。
姉は生まれつき心臓が弱く、学校にも満足に通えなかった。両親は姉がほしがるものを何でも与え、姉が元気な時は色んな場所に行き、行った先々で石ころや葉っぱや花びらを持って帰って来たのだった。
(段ボール足りるかな)
優子は額の汗を拭った。棚には所狭しと瓶が並んでいる。中身は姉が拾って来た物が入っている。瓶の蓋に、拾った日付と場所が書いてある。これらを病室で姉はよく眺めていたものだ。
瓶を全てダンボールに詰めると、優子は机の上の整理に取り掛かった。
机の上にはたくさんの写真がある。優子と姉と、お父さんお母さんが笑ったり泣いたりしている。
夏祭りに行った時の写真には優子が膨れっ面で映っていた。確か、この時、姉とお面で喧嘩した。
残りたった一個の可愛いお面を姉と優子が取り合いっこしたのだ。当時大人気だったキャラクターのお面で、二人で大げんかしたものだ。
あの時、珍しく姉は怒っていた。大きな手術の後でもたくさんの種類の薬を飲んだ後でも、笑っていた姉があんなに顔を真っ赤にしたのはその時が初めてだった。今思えば、その日は病院から一時帰宅したばかりで、初めてのお祭りの思い出を取っておこうと必死だったのだろう。
とにかく、その事に小さかった優子はびっくりし怖くなったが、それでもお面を取られまいと必死になった。腕力で姉に対抗し結局喧嘩には勝ったが、両親にコテンパンに怒られた。『螢は病気なんだから、蹴ったり叩いたりしたら駄目! お面は譲ってやりなさい!』と言われ、地団駄を踏んだことを覚えている。まあ、次の日、好物のパフェを食べさせてくれたが。
夏祭りの横には、運動会の二人三脚の写真が飾られている。
両親が事故に遭って、二人とも足を折ってしまい、優子の二人三脚に出場出来なくなってしまった。代わりに参加したのがたまたま病院から許可が出て家にいた姉だった。結果はビリだったが、最高の運動会になった。走ってる最中、姉は苦しそうに息をしながらも、笑いながら優子と一緒に『いっちに、いっちに』とリズムを言って走った。これが、姉が参加した最初で最後の運動会だった。
優子の心の中で暖かいものがわき上った。
涙をこらえながら、運動会の写真をダンボールに入れる。
次は、一年前の夏に祖母の家へ遊びに行った時の写真。昔は、家の裏に流れる川に、螢がいたらしいが、その年は一匹もいなくて、悲しい思いをしたものだ。
『いつか、一緒に螢を見ようね』
そう言って、姉が笑ったのを覚えている。
八日前のことだった。優子は学校、両親は仕事に行っている時に、突然発作が起こったのだ。病院は色々手を尽くしたが駄目だったそうだ。その二週間後が優子の誕生日で、そのために螢が帰宅準備をしていた矢先だった。
『姉ちゃんと一緒に誕生日パーティーやれるなんて何年ぶりだっけ』
『そうね、盛大にパーティーをしましょうね』
そう言って微笑む姉。
その後、姉は『とっておきのプレゼント』があると言った。
『なになに? なんなの?』
『さあねー。ヒミツだよ。お誕生日が来たら、宝の地図をあげるから』
『宝の地図?』
『うん。地図にプレゼントのありかが書いてあるから』
姉がいなくなった時、優子が真っ先に思い浮かべたのは誕生日プレゼントの話だった。
だから、ショックで体調を崩した両親をお祖母ちゃんに無理矢理面倒を見てもらい、優子は遺品整理をしている。
どこかに、隠しているに違いない。『とっておきのプレゼント』が。
優子は思い出にひたりつつ、そのプレゼントらしきものを探す。
それは、引き出しから全ての写真を出した後に見つかった。
小さな封筒だ。表には、『優子へ』とだけ書かれている。封筒の口はのり付けされていなかった。中を出すと、地図が出てきた。
等高線がうねりまくった、山の地図だ。右上に山の名前が書いてあるが、聞いたことがない名前だ。
しかし、一番優子の目を引いたのは、地図の真ん中あたりにある、赤いばつ印だ。
左隅には、『プレゼント ここに行ってね!』という文字。
優子はすぐにパソコンで。道なき道を歩いて、頂上まで登ると、そこに宝物がある——そうだ。
そういえば。優子は思い出した。一年前だったか、姉が家出をした事があった。
丸一日帰ってこなくて警察に連絡した次の日、夜遅くに服を泥まみれにして帰って来た。どこへ行ったか、どれだけ問いただしても頑として口を割らなかったのだ。
あれは、まさか。
この地図の場所に『宝物』を隠しに行ったに違いない。
しかし、一年前から準備をするとは、どれだけすごい『宝物』なのだろか。
優子は地図を封筒に戻し、立ち上がった。そして、山へ登る準備を始めた。
電車に乗って、およそ二時間。
優子は、地図に乗っている駅に着いた。山の中にある駅だ。
人工物は、道路と線路と電信柱と電線と、駅だけ。山と青い空が広がっていて、ひとっこひとりいない。
優子は、汚れてもいい服を着て丈夫な靴を履いてきた。背中に背負った青いリュックサックの中には、弁当やばんそうこう等、必要な物が入っている。
地図には、駅の前に、山へ入って行く道が描いてある。地図に描かれている場所を、目を凝らして見ると、確かに道があった。しかし、獣道と読んでも差し支えない程、草ぼうぼうの小道だ。しばらく人が通った事がないのは確実である。しかし、見たところ、ここ以外に山へ入る道は無さそうだ。
全く気が進まないが、優子はその道へ足を踏み出した。
途端、ムッとした空気が、優子の肺を満たす。
生い茂る草は、全て優子より背が高い。お化けみたいに葉を揺らす木々が太陽の光を遮っている。地面は、木の根がいくつものこぶを作っている。こんなところを歩くのは、都会っ子の優子にはなかなかきついものがある。
(本当に、姉ちゃんはここに来たの? 身体が弱い姉ちゃんが、こんな所来れるのかな)
そんなことを考えた途端、優子は根っこに躓いてこけた。服に黒い土がつく。
「もうやだ……少し休む」
一番大きな根に腰を下ろす。タオルで顔や腕の汗を拭い、水筒に口を付ける。冷たいお茶が喉を通り、暑さでぼんやりしていた意識がパッと覚めた。気力が回復し、再び歩きだした。
風がふき、山の枝を揺らす。その瞬間だけ、湿気で重くなっている空気が軽くなる。だが、そう感じた瞬間には元の蒸し暑い空気に戻っている。
いろんな音が聞こえる。虫の音、鳥の鳴き声。木の根が網のように土を走る地面は、とても固く、暖かい。
優子は黙々と地図とコンパスを頼りに登り続けた。
やがて、遠くに、眩しい白い光が見えた。優子の表情が晴れ、駆け出す。
そこは、崖だった。
連なる山々と青い空を一望出来る、切り立った崖だ。身を乗り出して下を見ると、糸のように細い道路と線路が見える。
しばらくの間、優子はその景色を見ていた。涼しい風が、彼女の頭を通り過ぎていく。何となく、優子の頭を撫でてくれた蛍の手を思い出した。
地図だと、この崖の細い道を進んでいくことになっている。転んで崖の下に落ちたら間違いなくあの世行きだ。しかも発見されるかどうか怪しい。地図だと、この辺りに川があるようだ。
崖の方を見ないように、ゆっくりゆっくり歩を進める。それでも膝は震えるし、冷や汗が全身からにじみ出る。
そうやって、どれくらい経っただろうか。風に揺られている吊り橋が見えた。
吊り橋の横に立ち、下を見る。五メートルほどの崖になっていて、下にチョロチョロと流れる川が見える。
次に、吊り橋を観察する。何十枚の黒い板が茶色いロープに吊られている。
しかし、板のほとんどが欠けていて穴だらけだ。ロープも、あちこちが切れかかっていて、いつ落ちてもおかしくない。優子は恐る恐る、足を板に置いてみた。ミシミシッと大きな音がして、慌てて飛びのいた。
もう一度下を見る。かなり急斜面だが、頑張れば降りられないこともなさそうだ。
優子は岩の出っ張りに足をかけ、そろそろと降りる。パラパラと小石が顔の横を落ちていき、心臓が止まりそうになった。
地面に着くと、靴を脱いで川の中に足を入れた。
清らかな水が、熱を持った足を冷やして行く。思わず手で水をすくい、顔にかける。火照った顔が一瞬でスッキリした。
優子はズボンの裾をまくって、川の中にザブザブと入った。小魚が数匹逃げていく。
優子は幼稚園の時を思い出した。みんなでキャンプに行って、姉と二人で、川で魚を捕まえようとしたことがある。結局一匹も捕まえられなくて、服をビショビショにしただけで終わった。
『ねえ、こっちだよ!』
優子は、声が聞こえた方————対岸の崖の上を見た。誰もいない。
(空耳か……)
そろそろ行こう。優子は歩き始めた。
濡れた足をタオルで拭いて、靴を履く。それからしんどい崖を登りきり、地図のばつ印へ向かってひたすら歩く。
辺りはだんだん暗くなってくる。夏といえど、山の中の日暮れは早い。下山する頃には真っ暗かもしれない。
優子は姉との思い出をまた一つ、思い出した。
優子が小学六年の頃、二人でサイクリングに行った。どんどんこいで、河川敷を走るだけじゃ物足りなくなり、隣町まで行ったのだ。しかし、タイヤがパンクして帰れなくなってしまった。優子はパニックで泣きわめき、姉は優子を必死でなだめた。結局、警察に保護され、両親に大目玉をくらった。
思い返していると、足が窪みに引っかかった。盛大に転ぶ。懐中電灯が右手から離れ、道の先を照らし出す。
瞬間、優子は固まった。
人が入らない山だ。気づかれなかったのだろう。気がついたとしても、誰も迷惑しないから、放っておかれたのかもしれない。
大量の土。そこから突き出した、何本かの木。
土砂崩れだ。
「どうしよう」
この大きな土の塊を乗り越えようなんて絶対に無理だ。迂回しようにも、地図に乗っている道以外に通れそうな所は無い。
————ううん、まだ行ける。
地図を見る。赤いバツ印があるのは、川の上流。つまり、昼間通ったあの川をさかのぼれば良い。
空は茜色。だけど、行けるはずだ。
懐中電灯を頭にタオルで括り付け、優子は進む。上流の岩はかなり大きく、進むのがつらくなって来た。
全身に無数の擦り傷。そして、汚れ。
優子の頭の中は空っぽだ。ただ、目の前の岩を越えて進む事しか無い。
また一つ、岩を越える。川底へ足を伸ばす。
「!」
思っていたより、川底は深かった。優子の足がガクンと沈み、それにつられて手が岩から離れる。
大きな水音がした。
「ウゥ……」
ゆっくりと優子は起き上がる。しかし、さっき川底に伸ばした足が動かない。そして、痛い。
そばの手頃な岩に上がり、懐中電灯の光を足に向ける。見た目は何ともないが、ズキズキ痛む。触るとものすごく熱い。
とてもじゃないが、この足では先に進むことが出来ない。
優子の中で、何かがパキンと割れた。
目から大粒の涙がこぼれ、汗と泥で汚れた顔に筋を付けていく。
「姉ちゃん、ごめん。宝物、見つけられそうにないや」
嗚咽にまみれた独り言が暗闇にこだまする。
——いや、違う。
優子は首を振った。
「姉ちゃんに、会いたかったんだ……」
霊安室で横たわっている姉。通夜そして葬儀、火葬場での出来事は、優子にとってどこか他人事のように思っていた。姉が死んだという気が全くしなかったのだ。両親が号泣しているのを、ドラマを見ている気持ちで見ていた。
——姉ちゃんは死んでいない。ちょっとどこか遠くにいっちゃっただけで。また戻ってくる。だってほら、まだ誕生日パーティーをやってない!
優子はしばらくの間、泣き続けた。泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いた。
「帰ろう」
足をかばいながら、岩から降りたその時。
目の前を黄色い光が横切った。
(ん?)
思わず、それを目で追う。
上流から、黄色い光の粒がこっちへ向かってきている。川の上で、何か光るものがある。
何もかも忘れて、優子は光の方へ走った。
そこは、泉だった。地下から水が沸いている。ここが川の始まりだ。
そして、泉の上をたくさんの小さな光の粒が待っている。
螢だ。
『いつか、一緒に螢を見ようね』
頬を涙が伝う。景色がにじまないよう、涙を拭うが止まらない。
光の舞は、この秘境でかけがえの無い世界を作る。
ここに、姉がいる。果たされなかった約束を果たしに、姉がいる。
「姉ちゃん——」
優子はゆっくりと手を伸ばす。
(完)