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 一月のある平日、朝。

 カラオケ店に、二人の若者がやってきた。片方は男。片方は女。二人とも地味な色のコートを着ている。

 男は大きく膨らんだカバンを肩に引っかけて歩いている。体格はよく、腕っ節が強そうだ。顔は丸く、頬もツヤツヤとしていて、表情も柔らかい。

 女は、男を見ると、その歩みを早くした。ゆるやかにカールした長い黒髪が風になびく。金色の髪飾りが、朝日を反射してキラリと光る。

 この二人、男の方はフジ、女の方はリナ、といった。

「よお」

「やあ」

 お互いに短い挨拶を交わす。

「学校はサボれたの?」

 リナの問いに、フジはああ、と答える。

「昨日、予防接種を打ったから、その副作用で熱が出たってことにした。親がスーパーに行ってるうちに家から出てきたぞ。そっちは?」

「最後に友達に会いたいからってお願いして、何とか出てこれた」

「そうか……じゃあ入ろう」

 重いガラス戸を引き、二人は中に入る。受付で手続きし、「八時間! 歌自慢コース」を選んだ。鍵を受け取り、カラオケルームに入る。

 薄暗い小部屋だ。L字型の赤い合皮のソファと、真四角のテーブルがあり、テーブルの上には灰皿と目次本が置いてある。奥の一番目立つ位置に、大きなテレビとカラオケ機器が鎮座している。

 フジはカバンを肩から下ろし、その中身をテーブルに置いていった。たくさんの缶ジュースと多種多様な種類のスナック菓子が、ガラスの天板の上を埋め尽くす。

「重かったでしょ。ありがとう」

「いや、そうでもない。これくらいなら別に」

 リナは目次本を開く。

「何歌う?」

「そうだね。ほら、この前部室で歌ったやつにしない?」

「あー、あれか。そうしよう」

 目次本をめくり、曲のタイトルを探す。百科事典のように分厚く、文字が細かいから探すのが大変だ。ようやく目当ての曲を探すと、その数字を機械に入力する。テレビに映像が映った。

 流れてきたイントロは、二人が幼稚園児の頃にやっていたアニメの主題歌だ。リナはマイクを握り、歌を歌いはじめた。

 

 

 リナがフジと出会ったのは幼稚園児の頃。音楽教室だった。教室で合唱しているうちに大の仲良しになったらしい。音楽教室の講師がそう教えてくれた

 リナ自身はもう、幼稚園児だった時のことをほとんど覚えていない。いつから藤本のことを「フジ」と呼ぶようになったかも分からない。

 しかし、たった一つだけ、リナもしっかり覚えていることがある。

 それは公園で遊んでいる光景だ。

 広い公園で、たくさんの遊具があった。一番の人気は、巨大な滑り台だ。螺旋階段にロープ、ロッククライミングを模したデコボコの壁、小さなトンネルなど様々な遊具が合体した遊具だった。様々な難関を超えて登ると、ツリーハウスに似せて作った小屋にたどり着く。その中に入ると、うねうねと曲がる滑り台の入り口があり、そこから勢いよく滑っていくのだ。

 リナとフジもこの遊具で遊んだ。ロッククライミングをして、トンネルを抜け、螺旋階段を駆け上がった。そしてツリーハウスには入らずに、柱をよじ登って屋根の上に立った。

 最高の眺めだった。地面は遥か下。親も子どもも、みんな下界にいた。遠くに視線をやると、公園の外側に立つ家や、遠くの山まで、全てが見えた。頭上には青空が広がっていて、心地よいそよ風がふいていた。

 二人は屋根の上で好きな歌を歌った。歌声は風に乗って、どこまでも飛んでいった。

 

 

「いやー、懐かしいな。昔よく歌ってた」

 そう言って、フジは天井を仰ぎ見る。

「今度また新シリーズをやるらしいよ」

「そういや、菓子を買いに行った時、アニメの人形が一緒に売ってた」

「そっか。じゃあまた人気がでるかもね」

 目次本をペラペラとめくる。

「次、何にする?」

「そうだ。あれにしよう、あれ。隣の学校の合唱会で歌った曲。名前忘れたけど。リナは覚えてる?」

「確か『天空の民』じゃなかったかな」

「ああ、あれかあ」

 目次本でようやく見つけると、フジはカラオケ機器を操作した。イントロが流れてくる。今度はフジがマイクを握った。

 

 

 二人は小学校も同じだった。入学してからも、しばらくは大親友であった。

 しかし成長するにつれ、男女の違いを意識するようになり、一緒にいることが難しくなってきた。お互いよそよそしくなり、話さなくなっていった。習い事の音楽教室でも会う頻度は減り、すれ違っても挨拶をするだけになってしまった。

 フジがリナと再び話すようになったのは、小学四年生の時、遠足の帰り道だった。小さな山の中で迷子になってしまったのだ。

 この時の遠足は、くじ引きで班分けがされていた。フジとリナ、三人のクラスメイトだ。三人のうちの一人で、快活な性格の男子が「山を探検しよう」と言いだし、遠足の班員は探検隊として頂上の広場から出発した。

 明るい広場を出発した探検隊は、木漏れ日が地面に落ちる小道へ、そして気がつくと、藪に囲まれた窪みの中にいた。

 最初は元気だった班員達も、だんだん口数が減り、足が遅くなり、やがて藪の中で進めなくなってしまった。疲れ果てて、一歩も動けなくなっていた。

 このまま誰にも見つからずに死ぬんじゃないか。フジは最悪の想像をしてしまった。泣きじゃくりたいのを、「泣くのは恥」というプライドだけで、何とか堪えていた。

 その時だった。リナが突然、歌いはじめたのは。

 当時、初めて聞く歌だった。歌詞は分からなかったが、リナは高らかに歌った。澄んだ声色が重い空気を吹き飛ばした。

 全員がリナを見た。フジもリナを見た。この状況でみんなを励ますためなのか。あるいは歌を歌って教師達に見つけてもらおうと考えたのか。その両方なのか。彼女の心のうちは分からないが、この状況をものともせずに歌うその姿を、フジは綺麗だと思った。幼稚園で一緒に歌っていた友達が、いつの間にか自分の遥か上をいく存在になっていた。

 リナに続き、全員が歌いはじめた。大声で歌えば誰かに気づいてもらえると信じて、歌い続けた。合唱曲に童謡など、たくさんの曲を叫ぶように歌っていたら、教師達に発見され、無事家に帰ることができた。

 遠足の騒ぎが笑い話になり、みんなが忘れた頃になっても、フジはあの時のリナの姿を忘れられなかった。授業中も休み時間も、気がつけばつい、リナの姿を目で追っていた。

 やがて、フジは、リナに恋したことに気がついた。

 

 

 歌い終わった後、フジは缶ジュースを開けた。飲みながら、遠足の時のエピソードを話した。

「あー、あったね、そんなこと」

「あの時リナが歌わなかったら、もう終わりだったよ。今にして思えば、あの山は小さいし、歌わなくても見つけてはもらえたと思うけど。歌がなかったらみんなの心がもたなかったよ。どうしてあの時に歌ったんだ?」

「遠足の少し前に、テレビで映画を見たんだよ。夜中にやってた、遭難の映画。映画の中で、主人公が歌を歌ってたんだよ。それを真似してみようって思ってさ。映画でやっていた曲を歌ってみたんだ」

「映画の真似? あの状況で?」

「うん。良いタイミングだと思って」

 暢気に言ってジュースを飲むリナ。フジは力なく笑った。

「なんというか、リナらしいな」

 しばらく休憩した後、リナは「さて」とマイクを握った。そして、スタンドからもう一本のマイクを取ると、フジに渡す。

「さて、そろそろ喉も温まってきたし。次はオリジナルを歌おう。君が作った最初の曲にしようよ」

「ギター、持ってきてないぞ」

「なくても歌える。じゃ、聞いてね」

 

 

 二人は地元の中学校に進学した。ジメジメと蒸し暑い梅雨の日の昼休み、リナはフジに、空き教室に呼び出された。何事かと思ったら、

「バンドを組もう」

 と、頼まれた。

「バンド? やだよ、メンドくさい」

 フジは先輩の影響をもろに受けていた。髪を伸ばし、明るい色に染めていた。朴訥としたフジの雰囲気と全くあっていなかった。

「そう言わずにやってみようって」

「やだよ。怖い人ばっかりでしょ」

「まだリナしか誘ってないんだ」

「え? 二人だけじゃバンドとはいえないでしょ」

「ボーカルはリナが良いんだ。だって歌が上手い! 合唱部にも入ってる」

 確かに、リナは合唱部に入っていた。

「えー、でもなあ」

「頼む! お試しでいいから! 一回だけでいいから! お願いしますリナ様!」

「分かった分かった、分かりましたよ、もう。合唱部の練習がない時だけね」

 フジは「ありがとうリナ様!」と喜んでいた。リナはため息をついた。

 その数日後、リナは楽器ケースを背負ったフジに連れられて、商店街にある小さな楽器店に足を踏み入れた。多種多様な楽器には目もくれず、フジは店の奥にある急な階段を登った。壁にミュージシャンのポスターがたくさん飾られていた。紙の向こうのミュージシャン達が、リナ達を見下ろしていた。

 階段を登った先には、左右に部屋があった。小窓から中を覗くことができるようになっている。フジは右側の部屋のドアを開けて、リナを中に入れた。

「こんなところ、どうやって見つけたの? お金は?」

「先輩に教えてもらったんだ。ここの店主、中学生は二時間まで無料で使わせてくれるんだよ。楽器の貸し出しもやってる」

 フジは楽器ケースを開けた。薄茶色のアコースティックギターが姿を現した。

「フジのそれも借りたの?」

「いや、これは貯めてたお年玉で買った中古のやつ。結構ボロボロだけど、音は出る」

 フジが準備をしている間、リナは室内をぶらぶらと歩いた。小さな部屋だ。今は二人だからいいが、四人や五人で練習することになったら窮屈だろう。壁や天井は学校の音楽室と同じように穴があいている。床には灰色の分厚いカーペットが敷かれている。奥には小さなピアノがある。

「はい、これ」

 フジがリナに紙を渡す。それは楽譜だった。

「俺らのバンドの記念すべき最初の曲だ! 作詞作曲は俺」

「フジの曲?」

 リナは楽譜を読んだ。誰かの頑張りを讃える曲だ。どこかで聞いたことがある歌詞が並んでいる。リナには、あまり良い曲には思えなかった。

(数回歌ったらそれで満足するよね。付き合ってあげましょう)

 フジはいつでもギターを弾ける姿勢でいた。

「早速聞いてくれ」

 フジが弾き語りを始めた。

 リナはその時まで、ギターという楽器は大きな音をたてるもの、危ない人がやる喧しい楽器、と何となく思っていた。しかしこうして聞いてみると、意外とそんなことはなかった。しっとりとした良い音だ。

 もっとも、良いのは楽器の音だけだ。歌声はまあまあで、歌詞は凡庸だ。歌詞のない方がマシでは、とリナは思った。

「どう?」

 リナは嘘をつかずに答えた。

「良い音だね」

 フジは得意げな、それでいて少しほっとしたような笑みを浮かべた。

「よし、じゃあもう一度弾くぞ。ちょっと歌ってみてくれよ」

 フジのメロディに合わせてリナは歌った。

 歌い終わると、パチパチと拍手が聞こえた。いつの間にか、男子中学生が三人、ドアの前に立っていた。目を丸くしてこちらを見ている。

「すごい。すごく上手い。歌が」

「おいフジ、どうやってそんな上手な人を呼んだんだ」

「いやあ、フジの曲も、上手な人が歌うとすごく良く聞こえるな。まるで名曲だ」

「おいちょっと待て、それはどういう意味だ!」

「大した意味はないぞ」

「いやあるだろ!」

「ないない」

 友人達はスタジオ内に入ると、二、三曲演奏した。その後はフジとリナを交えて雑談が始まり、二時間が経って楽器店のオーナーに追い出された。

(この調子なら、すぐ飽きるでしょ)

 帰り道、リナはそう予想していた。

 しかしフジはやめなかった。

 髪型は元に戻したものの、ギターは手放さなかった。

 作曲の勉強をしなければと図書館に行って音楽の本を読み、友人らが飽きてやめた後も毎日スタジオに通い、ギターを続けた。

「どうしてそんなに頑張れるの?」

 ある時、リナはフジに尋ねた。他に誰もいない、二人きりの学校の図書室で、彼は五線譜にガリガリと音符を書き連ねていた。

 フジはきょとんとした。

「そりゃ楽しいからだよ」

「楽しいだけ? 飽きないの?」

「全然。まさか、リナは楽しくないのか? 大丈夫か?」

「楽しいよ。楽しいけど、不思議なんだ。フジが音楽に夢中になれるのが」

 窓から風がふきこみ、机の紙を床に散らした。それは書き損じの五線譜だった。書いては消しを繰り返し、端が破れた五線譜だった。リナはそれらを拾い集め、彼に渡した。

「私が歌をやってるのは、音楽教室に通わされたからだし、合唱部に入ったのもなんとなく。フジと組んでるのもなんとなく。あ、嫌だって意味じゃないよ? もちろんフジの作った歌を歌うのは楽しいよ。合唱もね。歌は大好き。でも、私は何かに夢中になったことがないからさ」

「不思議、か。確かに、正直どうしてこんなに続いているのか、俺も分からん。でも、多分」

「多分?」

 フジは躊躇いがちに視線を泳がせた後、リナを真っすぐ見た。

「……多分、リナがボーカルを引き受けてくれなかったら続かなかったと思う」

「そうなの? 嬉しいね」

 フジはすぐに下を向き、背中を丸めると、またガリガリと鉛筆を動かしはじめた。

 リナは彼の手を見つめた。ゴツゴツとした大きな手だ。

 身長も体格も声も、あっという間に変わっていった。中学校に入学したての頃は、まだ身長もそこまで変わらなかったのが、今ではフジの方が二回り以上も大きくなった。だが、この情熱は変わらない。ずっと目を輝かせ、音楽を続けている。リナが持っていないものを持ち続けている。

(いいな。そういうところ、本当に好きだなあ)

 リナは目を細めた。

 

 

「それにしても、俺の作る曲、ダッセえよなあ」

「今頃気づいたの?」

「いや、結構前から気づいていた」

 フジは瓶の蓋を開け、コーラを煽った。

「歌うたびにちょっと後悔してる。もっとマシな曲は作れないのかって」

 そう言って、ゲップを一つする。

「大丈夫大丈夫。後悔しても無駄だよ。今後もそんなに変わらないから」

「おい、それはどういう意味だ」

「どれもフジらしい曲って意味だよ。色んなジャンルの音楽のちゃんぽんって感じで」

「褒めてるのか?」

「褒めてる褒めてる」

 リナはクスクスと笑う。

「全く。いつか大ヒット曲を作ってやるからな」

 フジはテーブルのお菓子の袋に手を伸ばす。白い衣がかけられた甘いせんべい、かりんとう、おかきなど、次々と袋を開く。

「ほら。好きなの食べなよ」

「ありがとう」

 リナは袋から白いせんべえを一枚取り、齧った。砂糖とクリームの甘さが口一杯に広がる。フジは醤油味のせんべいを取った。

 軽く腹ごしらえをし、缶ジュースで喉を潤した後、目次本を開く。

「次はどうする?」

「文化祭で歌った曲とか」

「いいな。もう一回やるか、文化祭」

 機械に番号を入力すると、激しいギターのイントロが流れだした。

 

 

 フジとリナは、地元の高校へ進学した。

 部活動はロック同好会に入った。リナは合唱部との掛け持ちを選んだ。

 ロック同好会は数年前にできた新しい同好会だ。たくさんのギターやベースなどの楽器が揃っていた。最新のシンセサイザーまであった。とはいえ、ロック一辺倒でもなく、色々な曲を各々が好きなようにやっていた。

 リナは、同好会の紅一点として歓迎された。

「リナさん、是非うちのバンドに来てください!」

 部員の熱烈な勧誘を、

「ごめんなさいね。私はフジと組むと決めてるから」

 リナは笑顔で断った。

 部員達はリナがいないところでフジを小突いた。

「おい、もっとギター頑張れ」

「あの歌姫にドブみてえな汚い音のギターは似合わねーよ」

「そんな下手くそじゃ愛想尽かされるぞ。ほら、顧問に教えてもらえ。顧問は滅茶苦茶上手いし、しっかり教えてくれるぞ」

 フジは顧問にギターを習った。顧問は生徒指導の先生で、ギターがべらぼうに上手かった。顧問は不良に対する指導と同様、ギターも熱血指導であった。フジが独学で何となくやっていたのを、徹底的に叩きなおされた。

 狭い部室で過ごす日々は、あっという間に過ぎていった。

「リナ、新曲できたぞ!」

 夏の暑い中、部室棟の裏の日陰で、フジはリナに楽譜を見せた。

「今度の曲はベースとドラムのパートもあるんだね」

「同級生に参加してもらおうと思って。参加を断られたら演奏だけ頼み込んで、録音を流す。ギターだけ先に聞いてよ」

 次の楽譜を渡し、フジはギターを弾いた。

「どう思う?」

「……フジはプロになりたいの?」

 曲を聞いたリナは、感想を言わずにそう尋ねた。彼女は手元の楽譜に視線を落としたままで、表情は見えなかった。

「え? そりゃまあ、なりたいさ。これで食べていけたらいいよな。音楽が学べる大学にも行こうと考えてる」

「そうかあ。音楽の大学なら、受験、頑張らないとだね」

「ああ。でもそれが、どうかしたんだ?」

「どうもしないよ。曲を聞いてて、ちょっと思っただけ。さ、練習しましょ」

 夏は過ぎ、秋の体育祭も終わり、冬の音楽祭が近づいてきた。この高校では文化祭が無く、代わりに音楽祭があった。

 音楽祭はとにかく忙しい。部活動のイベントだけではなくクラス対抗の合唱コンクールもある。リナはクラスの合唱に部活の合唱、そしてロック同好会の練習と、あちらこちらの教室を駆けまわっていた。

 フジも練習に打ち込んだ。

 ロック同好会が借りた空き教室の片隅で、フジがギターを弾き、合唱部の練習を終えてやってきたリナがそれに合わせて歌った。他の部員もそれぞれの楽器と曲に向き合い、汗を流していた。

「おい、二人とも」

 ある時、練習中の二人の前に部長がやって来た。

「ステージに出る時のバンド名って何にするんだ? パンフに書かないといけないんだけど」

「バンド名?」

「ああ。決めてないのか?」

 二人は顔を見合わせた。

「どうする?」

「どうしようか。そもそも二人なのにバンドって成立するの?」

 部長はパンフレット用カットの原稿用紙を二人に突きだした。

「パンフレットには何か書かないと。ほら、早く考えてくれ。締切が近いんだ」

 フジは今まで聞いたバンドの名前を思い浮かべた。

「……『ジャッジメントソウルズ』とかどう?」

「やだ。その名前でやるなら一人でやってね」

「え? これ結構良くないか?」

「全く良くない。『フジーナーズ』とかいいでしょ?」

「勘弁してくれ」

「そう? いい名前でしょ?」

 二人で言い合い、喧嘩になり、結局部長に考えてもらうことにした。部長は『F & R』と名づけた。原稿用紙にサインペンで『F & R』と演奏する曲名を書いた。

 秋は深まり、雪がちらつくようになり、十二月の最初の土曜日、音楽祭の日になった。

 ロック同好会の演奏時間は午後一時からだった。その少し前に、舞台袖に部員が集まった。全員、思い思いのステージ衣装を着ていた。ロックスターを真似た革ジャンや革ズボンを着た者、とにかく派手さを追求した者、どこからか借りてきたスーツを着た者。顧問も、この日のために妻に選んでもらったネクタイをつけていた。

 メンバーが演奏の最終確認をしていると、入り口から影が指した。

「ごめん、お待たせ」

 リナが入ってきた。彼女の衣装は、胸元に薔薇のコサージュがついた、真紅のドレス。ドレスの下は黒いタイツを吐き、ドレスと同じ真っ赤なヒールで足元を飾っていた。長い黒髪をアップにし、化粧をしている。目元や口元がいつもより華やかだ。

「演劇部の人に衣装を借りたんだけど、どうかな?」

 部員全員が、ぼうっと見惚れていた。顧問だけは即座に「おう、似合ってるぞ!」と白い歯を見せて言った。他の部員も我にかえり、口々にリナの美を讃えた。

「す、すごく綺麗だよ、リナ」

 月並みなことしか言えなかったが、リナは笑った。その瞬間、舞台袖で大輪の赤薔薇が咲いた。

「ありがとう」

「ほら、そろそろ時間だ。最初はお前達だぞ。行け」

 緊張で固まる足を叱咤し、フジはリナと共にステージに出た。

「こんにちは! 『F & R』です!」

 パイプ椅子に座る生徒達が拍手した。フジが歌う曲の説明をしている間に、助っ人のベース、ドラムとキーボードがステージにこっそり入った。準備が整うと、フジの合図でライブが始まった。

 有名な洋楽のカバーだ。激しいギターのイントロが特徴的である。フジは練習通りの成果を発揮した。ミスをせずにイントロを弾き、それが終わった瞬間、完璧なタイミングでリナが歌いだした。

 半分眠りかけていた観客の表情が変わる瞬間を、フジは見た。

 煮えたぎるマグマを連想させる、熱い熱い歌声が、ぼんやりと聞いていた観客の心に火をつけた。死んだ魚のような目に光が灯り、全員がステージ上の赤い歌姫に釘付けになった。

 一曲目が終わると大きな拍手が鳴った。聞いたことがない音量の拍手だった。その興奮が冷めないうちに、二曲目を始めた。これはフジが作ったオリジナルのロックで、リナが歌うと会場は更に盛りあがった。三曲目もフジの曲で、しっとりとしたバラードだ。リナは鍛え上げた七色の歌声で観客の涙を誘い、最後の四曲目では流行りのラブソングのロックアレンジを、力強く歌った。

 最後の歌を歌い終わった瞬間、拍手と歓声が爆発した。アンコールの声援まで届いた。しかしスケジュールがあるので、泣く泣く観客に手を振りながら、二人はステージを後にした。

 その後は、フジは先輩のライブにギターで参加し、リナは合唱部のステージで再び歌った。

 こうして、高校生最初の音楽祭は幕を閉じた。

 音楽祭が終わればすぐに期末テストが始まり、そして冬休みだ。

 期末テストを努力と根性で乗り越え、冬休みを迎えた後、フジはペンを回しながら考えていた。

(リナならどんな曲が合うだろう。どんな曲を歌いたいんだろう。スタジオで会ったら聞いてみないと)

 しかし、スタジオにリナは来なかった。すれ違っているだけかと思いきや、店主に尋ねてもリナは来ていないと言った。

(風邪? インフルエンザ? 大丈夫なのか?)

 フジはリナの家の電話番号を聞いていなかったことに、この時初めて気がついた。随分長くいたのに、リナについてほとんど何も知らない。兄弟姉妹がいるのか、親の仕事が何なのか、どこに住んでいるのかさえ、リナから聞いたことがない。

 不安な気持ちを抱えたまま正月を迎え、新学期が始まった。リナは学校に来なかった。リナの友達も、同好会の部員も、誰もリナの状況を知らなかった。むしろ、「フジも知らないのか?」と驚かれた。

 ある日の放課後。フジは診療所で予防接種を打った後、いつものようにスタジオで練習していた。新学期が始まってから、フジは毎日、学校ではなくスタジオで練習していた。スタジオならばリナが来るかもしれないと思ったからだ。

 その読みは当たった。

「やあ。あけましておめでとう」

 夕方、突然スタジオのドアが開き、リナが入ってきた。

「リナ! あけましておめでとう。元気にしてたのか?」

「もちろん。ところで、一つ言わなきゃいけないことがあってね──引っ越すことになったんだよ」

 言われたことを理解するのに、少し時間がかかった。

 同時に、最近スタジオに来なかった理由に気づいた。

(引っ越しの準備で忙しかったんだな。ちゃんと見送らないと)

 フジはそうか、と頷いた。

「寂しくなるな。どこへ引っ越すんだ?」

「言えない」

「は?」

「というか、私も知らない。教えてもらえなかった」

「はあ?」

「町を出ていくこと自体、本当は誰にも言ってはいけないんだけど、フジにだけは伝えておきたくて。決行するのは明日の夜」

 フジはたっぷり五秒は考えた後、ゆっくりと尋ねた。

「……つまり、夜逃げか?」

「そうとも言うね」

「……嘘だよな?」

「ドラマみたいな話だけど、本当なんだよ、これが。びっくりだよねぇ」

 リナはおどけていたが、すぐに真剣な表情になった。

「親に頼んで、自由時間を貰ったんだ。明日の朝から夜の六時までは、何をしてもいいんだよ。どうしようか? どうすればいいと思う?」

「そりゃあ、もう」

 フジはすぐに答えた。

「送別会をするしかないだろ。駅前に最近できたカラオケボックスに行こうぜ」

 

 

 文化祭で歌った曲を全制覇すると、部屋に沈黙が落ちた。

 別の部屋のカラオケが、微かに聞こえてくる。フジは缶ジュースを、リナはマイクを手元でいじっている。目次本は開きっぱなしだ。床には菓子の包装や空っぽの缶ジュースが転がっている。

「なあ。今から白状してくれたっていいんだぞ。全部嘘でしたって。俺を揶揄うための嘘だって。怒らないから」

「そう言いたいのはやまやまなんだけどね」

「そのわざとらしい喋り方をやめてくれ。本当のことを教えてくれよ。夜逃げなんて嘘だよな? だって今まで全然、そんな兆候なかったじゃないか。ずっとずっと元気に学校に来てたじゃないか。なあ、嘘だよな? 馬鹿らしい三文小説に出てくるようなこと、起きるわけないもんな?」

 リナは答えなかった。

 パチ、パチ、と音がする。リナが、マイクの電源のオンオフを繰り返しているのだ。

「二年になったら大会に出たりしたかった」

 フジはどうにか声を絞り出す。

「フジは出られるよ」

「俺だけじゃ駄目だ。リナと出たかった。リナと二人で。来年の文化祭も一緒に出て、次はアンコールに答えてさ。それでスカウトされて、メジャーデビューとかするんだろ? なあ?」

「……うん。そのはずだったね」

 リナの声が、震えている。

 フジは唇を噛み締め、目を固く閉じる。

 そして、立ち上がった。

「よし、歌おう!」

「え?」

「歌って歌って歌いまくるぞ! 大丈夫だ、まだ時間はあるんだから。湿っぽいのは良くない、そうだよな!」

 リナは目尻を拭った。

「そうだね」

 二人は歌いだす。

 目次本で見つけた、知っている題名の曲を片っ端から歌い続ける。

 ロック同好会で歌った曲はもちろん、合唱曲に歌謡曲やアニメソング、童謡、校歌、目次本でたまたま見つけた般若心経に、全然知らない曲も即興で歌った。マラカスやタンバリンを振り回し、喉と涙が枯れても歌い、店員に追い出されるまでマイクを握り続けた。

 カラオケ店の外に出ると、とっぷりと日が暮れていた。電燈が灯り、帰宅途中の車のラッシュが始まっている。

「リナ、まだ時間は大丈夫か? どこか別の店に行くか?」

「店に行く時間はないよ。ちょっと寒いけど、この辺を散歩したい」

「分かった」

 二人は駅前の広場を一周し、それから商店街に入った。楽器店の前を通り過ぎ、暗い住宅街に入る。無心で歩いていると、公園にやってきた。アスレチックがついた、大きな滑り台の遊具がある公園だ。

「あ、懐かしい。小さい頃、公園の滑り台の屋根に登ったの、覚えてる?」

「覚えてるよ。後で親に死ぬほど怒られた」

 二人は遊具に近づいた。

 ロッククライミングのカラフルな岩の塗装は剥げ、ロープは黒ずんでいる。見上げると、ツリーハウスの屋根が、点滅する電灯に照らされて、ぼんやりと白く光っている。

「よくあんなところ登れたよな」

「だねぇ。今じゃ絶対無理だよ」

 吐き出した白い息が屋根に向かって上り、冷たい風がふき消す。

「リナ」

 フジはリナに向き直る。背筋を真っ直ぐ伸ばし、息を一つ吸う。

「俺はリナが好きだ」

 リナは遊具からフジの方へ顔を向けた。潤んだ黒い目の中に、フジの姿がうつる。

「それで、これ」

 フジはカバンから、ハガキを出してリナに渡す。

「俺の住所が書いてある。向こうで落ち着いたら、出してほしい」

 リナはハガキの表を見つめて、その表面を撫でる。

「うん」

「あと、できればでいいんだけど、歌をやめないでほしい。リナには才能があるよ。文化祭の観客のわきっぷり、見ただろう? だから歌い続けてほしい」

「うん、分かったよ」

 リナはコートのポケットにハガキをしまう。

「私も、フジのことが好き。だからさ、私からも、お願いがあるんだけど」

「何だ?」

「楽器をやめないでほしい」

「分かった」

「メジャーデビューして、大ヒット曲を連発して、日本中、いや世界中でフジの曲がかかるようになってほしい。私がどこにいても、フジの曲が聞けるように」

「……努力する」

 リナは口角を上げる。

「嘘だよ」

「嘘なのか」

「うん」

「本当は?」

「何にもないよ」

 リナは、公園の端に立つ時計を見た。

「もう時間だ、帰らなきゃ。ここでお別れだよ。いつになるか分からないけど、ハガキはちゃんと出すよ」

 フジに背を向け、公園の出口へ歩きだすリナ。

「フジの家はこの近くでしょ? 真っすぐ帰るんだよ。絶対に。いいね?」

 遠ざかっていくリナの背中を、フジは見送る。

「リナ! 俺は音楽を続けるよ。また会えたら、一緒にやろうな!」

 リナは振り返らずに、右手を上げて手を振る。

「うん。またね」

 その姿が闇に溶けて見えなくなるまで、フジはリナを見送った。

 

(完)

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