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 気がつくと、すでに太陽は高いところまで登っていた。
 昨日は変な夢を見た……と思いながら、メアリは服を着替えて部屋を出る。
 部屋を出た途端、メアリは強烈な違和感を覚えた。すこし考え、ようやく気づいた。気づいた途端、背筋が凍りついた。
 埃がない。
 床を灰色に覆っていたあの埃が一つも見つからないのだ。
 メアリは震える足で階段を降りた。ゆっくりと東棟のドアを開ける。ここも綺麗に掃除されている。そして、良い匂いがする。匂いを辿った先は、台所だった。
 台所では、フードを被った骸骨が台所のかまどの前に立ち、湯気が立つ鍋をかき混ぜていた。
「おはよう、メアリ」
 メアリはがっくりと肩を落とした。夢ではなかったのだ。
「もうすぐ朝食が出来上がるからね」
 死神の作ったものなんか食べたくない。しかし、匂いだけはとても良く、メアリの腹の虫がぐうと鳴る。メアリは恐る恐る鍋の中を覗いた。透明な湯の中に、キノコと山菜、干し肉がごろごろ入っている。見た目は至って普通のスープだ。
「お腹が空いているなら、先にパンでも食べたらどうかな?」
 ハリーが指差した先にはカゴに入った山積みのパンがあった。触ってみると、まだ温かい。
「こんなにたくさんのパン、どこで買ってきたの? そのスープの具材も。あと、調理器具も」
「スープの中身は森で、人間が好んで食べるものを採ってきた。パンと調理器具は村まで行って買ってきた」
「村まで行った? そんな訳ないわ。ここから一番近い村まで、馬車で三時間はかかるのに。それに貴方の姿を見たら、村人は卒倒するわよ」
 ハリーはゆっくりと鍋の中身をかき混ぜながら、歯を鳴らして笑った。
「死神は人間よりずっと速く移動できるんだよ。人間に変身できるからバレないし──よし、できた! 今よそうから、先に食堂に行っててね」
「食欲がないから、いらないわ」
「さっきお腹が鳴ってたのに?」
 メアリは渋々頷いた。
「……いただくわ」
 食堂は鎧戸が開け放され、光が燦々と降り注いでいる。何年も無人だったとは思えないほど綺麗だ。
 メアリは椅子に座った。綺麗に磨かれて、埃一つない。
「助かるわね」
 素直な思いが口からこぼれる。その瞬間、ぞっとした。
(バカなの? あいつは私を殺しにきたのよ!)
 心を少しでも許したら、すぐに向こうへ連れていかれるかもしれない。警戒を緩めてはならない。メアリは頬をピシャッと叩き、気合を入れる。
 呑気な口笛を吹きながらハリーがやってきた。
「はい、召し上がれ」
 机にスープとパンが置かれる。食器は木製だ。これでは毒が入っているかどうか分からない。
(いいえ、多分大丈夫。まだ一日目の朝だもの。ここで私を殺す理由がないわ)
 そう自分に言い聞かせ、スープを一口すくって飲む。
「美味しい!」
 言ってしまってから慌ててメアリは口に手を当てた。こんなことを言ったら、ますますハリーをつけあがらせてしまう。
 でも、思わず口に出してしまうくらい、ハリーの作ったスープは本当に美味しい。王都の本邸で出てくるようなスープとは違い、野菜の風味を全面に押しだした素朴なものだ。でもそれがメアリには新鮮だった。ごてごてした味付けがされていないので、かえって美味しいのである。
「そう、良かった。練習した甲斐があったよ」
 ハリーは向かいの椅子に座って、メアリを見ている。目の中の炎がチロチロと揺れる。
 メアリはパンにも手を伸ばした。先をちぎって食べる。このパンはパサパサして不味い。一口だけでもう十分だ。
「ごちそうさま、スープは悪くなかったわ。でも、パンは最悪だわ。よくこんなもの出せるわね」
 わざときつい口調で言う。しかしハリーは、
「そうか、ごめん。次はもっとおいしいパンを用意するね!」
 怯んだ様子は全然ない。むしろ元気になっている。やはり調子に乗らせてしまったようだ。
 メアリは椅子から立ち上がり、ドアへ向かう。
「これからどうするの?」
「私がどうしようと勝手でしょう」
 大きな音を立ててドアを閉める。
 メアリは一度自分の部屋に戻り、かばんから必要なものを取り出す。大きさの違う二枚のタオル、手鏡、オイルに香水、そして清潔で新しい服を引っ張り出した。それを抱えて下に降りる。ハリーに見つからないよう、東棟の勝手口から外に出て館の裏側に回る。
 背丈の高い草に埋もれるようにして、白い小屋があった。壁に不恰好なかまどがひっついている。これは浴室だ。
 元々館には浴室などなかった。しかし風呂が健康に良いと聞いた父が、病弱な母のために増築した。近くの泉から直接水を引き、かまどでその水を温めて浴槽に湯をためるという仕組みである。しかし今は風呂用の薪がないので湯を沸かせない。
 引き戸を開き、中に入る。天窓から差しこむ光が、綺麗に磨きあげられた艶やかな石の床に反射して部屋を明るく照らす。試しに蛇口をひねると、澄んだ水がチョロチョロと流れだす。もっと汚れているものかと思っていたが、ハリーはここも掃除してくれたようだ。
 メアリは服を脱ぎ、畳んで棚に置いた。蛇口をひねって水を出し、髪と身体を洗う。水の冷たさが骨まで染みる。
(さて、どうしたらいいかしら)
 冷水でさえた頭でこれからのことを考える。まず、ハリーを追い出す方法だ。
 わざと嫌われる、婚約者がいると嘘をつく、館から逃げだす。すぐに思いつくのはこれくらいだ。だがこれらはまともな感性を持つ人間相手ならまだしも、果たして死神に効き目があるだろうか。
(でも他に良い方法は思いつかないわ。仕方ない。この三つの作戦を試してみましょう)
 メアリは水を止めた。身体をタオルで拭き、白いワンピースに着替え、髪にオイルを塗る。いつもより念入りに。
 しかし、こういう時に限ってハリーは館にいなかった。台所に『パンを買ってくるね!』と書き置きが残されていた。
 出鼻を挫かれたメアリは、自分の部屋に戻った。むすっとした顔で部屋の壁を睨みつけていると、すみに置いていた楽器かばんが目に入った。
(あの劇場以来、全然弾いていなかったわね)
 久しぶりにバイオリンを弾くのもいい。気分が紛れるだろう。
 自室に放置していた楽器かばんと楽譜入れを持ち、音楽室へ向かう。
 音楽室は館で一番広い部屋だ。しかし今は楽器どころか椅子一つない。メアリは食堂から椅子を持ってくると、そこにかばんを置いた。
 まず、楽器かばんを開ける。明るい茶色のバイオリン、弦、顎当て、松脂がクッションに収まっている。
 しばらく使っていなかったので、弾く前に色々と準備をしなければならない。
 メアリはバイオリン本体を出すと、まず顎当てをつけた。それから緩んでいる弓の毛を張り、毛に松脂を塗る。
 バイオリンの準備が終わると、続いて楽譜入れを開く。分厚い楽譜の束と、折りたたまれた楽譜立てが姿を表した。楽譜立てを組みたて、そこに適当に選んだ楽譜を置く。
 バイオリンの顎当てに顎が当たるように、楽器を肩と顎で挟む。左手でネックを軽く持つ。右手に持つのはもちろん弓だ。
 弓を弦に当てる。そして、メアリは弾き始めた。腕と指を動かすにつれ、苛立ちが少しつおさまっていく。
 だが、ドアがそっと開いてハリーが入ってきた。静かに扉を閉めると、部屋のすみに立ってメアリをじっと見つめる。メアリは弓を下ろした。
「何かしら」
 冷たくしようとするまでもなく、自然と刺々しい声が口から出る。
「演奏を聞きに来たんだ」
 メアリは氷よりも冷たい目でハリーを見た。
「出ていってもらえないかしら」
「そんなあ。もう少し聞かせてよ」
「いいえ、駄目よ」
「じゃあバイオリンをちょっと貸してよ。僕も弾いてみたい」
「駄目」
 きっぱりと言うと、ハリーは肩を落とす。
「分かった。じゃあ、昼ごはんができたら呼ぶから」
「昼食はいいわ。自分で作るから。貴方は森でも散策されたらいかが?」
 言い換えれば「出て行け」ということだ。ハリーは「分かった。何かあったら呼んでね」と言うとようやく出ていった。メアリはため息をつくと演奏を再開する。
 様々な楽譜を取っ替え引っ替えし、ひたすらバイオリンを奏でる。集中力が切れて窓の外を見た時、すでに日は空の最も高いところにあった。もうお腹がぺこぺこだ。バイオリンをかばんにしまい、台所に向かった。
 かまどの鍋には朝のスープが残っていた。でも、これだけでは少し足りない。外でキノコを取り、それをスープに入れたらちょうど良さそうだ。
 メアリはバスケットを持って勝手口から外に出た。
 森はひんやりした空気が流れ、陰鬱だ。頭上に張り巡らされた木の枝が日光を遮り、薄暗い。
 しかし、それでも探してみると結構見つかるものである。
「あ、あったわ!」
 メアリはねじれた木の根元からにょきっと生えている白いキノコを摘み取った。食べられるキノコだ。顔を上げた先にもキノコが生えている。メアリはそれも摘み取る。
 こういう、貴族の生活からは程遠いことを教えてもらったのも、昔この館にいた時だ。近くの村の人々と仲良くなり、彼から山菜やキノコのことを教わったものだ。
 楽しい記憶を思い出しながら進むうちに、メアリはふと、道を外れていることに気がついた。迷子になったかと焦ったが、振り返れば別荘の屋根が木々の上に少し見える。あれが見えるうちは帰れるだろう。
 だがその時、メアリの耳に、唸り声が聞こえた。首をゆっくり動かして振り返ると、灰色の狼が牙をむいて唸っている。
(うそ……)
 メアリは足を動かそうとするが、二本の足は地面に固定されたかのように動かない。
狼は一歩一歩、近づいてくる。目は貪欲にギラギラ輝いている。
(どうしよう、助けを。でも、誰もいない!)
 メアリの思考は恐怖でぐちゃぐちゃになっていく。悲鳴すら出ない。
「メアリ!」
 その時、近くで誰かが叫んだ。同時に、強い冷気を感じる。メアリはそうっと目を開けた。
 ハリーがメアリの前に立っていた。相手が人外であることを本能で感じとったのか、狼は尻尾を巻いて逃げていった。
 ハリーは振り返り、そっと手を差し出した。
「大丈夫? 怪我はない?」
「え、ええ。大丈夫。どうしてここが分かったの?」
 差し出された手を握る。ひんやりと冷たく、気持ちがいい。
「帰ってきたら勝手口が開いていたから、心配になって探してたんだ。さあ、戻ろう」
 ハリーに手を引かれ、メアリは屋敷に戻った。その後、台所でキノコと干し肉の炒め物を作った。
「メアリは貴族だよね? どこで料理を覚えたの?」
「使用人に」
 山で採ってきたものは使用人が調理してくれた。その様子をメアリはそばで見ていた。そしてある時、使用人に我儘を言って調理を教えてもらったのだ。
(あの時はただの遊びのつもりだったけど、今になって役に立つとはねえ)
 メアリは唇を歪めて、苦笑する。
「……はい、できたわよ。貴方はどれくらい食べる?」
「ごめんね。僕はこの世のものを食べられないんだ」
 ハリーは目を背けた。
「先に言いなさいよ」
 仕方ないので自分の分だけを用意し、食堂に持っていくメアリ。椅子に座り、肉を口に運ぶ。
「それ、美味しい?」
「まあまあね」
 実のところ、不味い。ただのキノコと干し肉の味しかしない。これならハリーが作ったスープの方がずっと美味しい。この違いは一体何だろう。
 食べ終わった後、メアリはまた音楽室にこもってバイオリンを弾いた。ハリーは部屋に入ってこなかった。しかしドアのすぐ向こうで聞いているに違いない。ドアから隠しようのない冷気が漂ってきていた。
 日が傾き、屋敷が暗くなる。ハリーはランプを持ってきて、火を灯した。
 火の色は不気味な青色だ。
「貴方、ランプに何したの?」
「ただの火だよ。僕は火を出せるんだ」
 そう言うと、ハリーの周りにボ、ボ、ボ、と次々と火の玉が現れた。部屋が一気に寒々しく不気味になる。細長い二人の影が壁にかかる。
「よく分かったわ。消してくれないかしら?」
 全ての火が消えた。ほっと息をつく。
「そろそろ夕食の時間ね。早く作りましょう」
 メアリは楽器を片付けると、台所へ向かった。昼と同じものを手早く用意し、黙々食べる。
「これからどうする?」
「寝るわ」
 少し早いが、もうやることもない。メアリは食べた食器を洗うと、さっさと階段を上る。
「お休み、メアリ」
「お休みなさい、ハリー」
 自室の床で毛布にくるまると、メアリはランプの火を消した。目を閉じ、今日一日のことを振り返った。
 ハリーに対して冷たくしたが、逆に助けられてしまった。冷たくしても無意味な気がする。それに元々、メアリは悪さができない性格なのだ。
(この作戦は諦めよう。じゃあ次は、館から逃げる? いえ無理ね。どう猛な狼がいるもの)
 ならば残された作戦は後一つ。
(婚約者、ね)
 人の悪口を言うのは苦手だが、嘘をつくのは得意だ。貴族は嘘をつかないとやっていけないからである。
(何か適当なものを弾いて、『これは婚約者に送る曲よ』とでも言えばいいわね)
 メアリはよし、と呟くと、明日に備えて眠りについた。

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