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 ハリーは眼窩の炎をパチパチとさせた。
「弾く? 僕が? どうやって?」
「弾き方は私が教えるわ。ほら、どうぞ」
 差し出されたカバンを彼は受け取った。重みで、彼の手の骨がかすかに軋む。
「意外と簡単なのよ、バイオリンって。ほら、行きましょう」
 二人並んで砂漠を歩く。ハリーはカバンを、赤子を抱くように胸元に抱えた。
 メアリはハリーを音楽室に連れていった。ハリーにカバンを開かせる。いつ見ても完璧な楽器が横たわっている。
「バイオリンの、この木でできた部分──洋梨のような形をしたところをボディ、そこから伸びる細長いところをネックというの。ネックの黒い板を指板、その上にかかる四本の紐が弦ね」
 一つずつ指で示しながら、名前を挙げる。
「ネックの両端にあるのは、こっちがペグ。こっちはアジャスタ。調弦に使うわ。でもこの世界のバイオリンは調弦する必要はないから使わないわね。さあハリー、左手でネックを、右手でボディの側面を持って。そっとね」
 ハリーはゆっくりとバイオリンを持ちあげる。
「まずは構え方から。背筋を伸ばして。それから顎と肩でこう挟んで……弓を持つ場所はここよ、フロッグというの」
 ハリーの姿勢を細かくチェックし、修正する。やがて完璧な立ち姿ができると、メアリは鏡を持ってきてハリーの前に立てた。
「格好いいわよ、ハリー」
 素直な感想を言うと、ハリーは照れ臭そうに笑った。
「じゃあ、音を出してみましょう」
 メアリはハリーの両手に自分の手を被せた。左手で弦を押さえ、右手で弓を動かす。綺麗な「ラ」が流れる。
「はい、やってみて」
 手を離す。ハリーはゆっくり弓を引く。ギィー、と金属が擦れるような音がした。もう一度手の位置を調整をすると、今度は幾分マシになる。幾度もの調整と練習の末、どうにか綺麗な「ラ」の音が出るようになった。
「難しいね」
 苦笑いを浮かべるハリー。
「最初は皆そうよ。やってたら上手になるわ。もう少しだけ弾きましょうよ」
 メアリは隣の弦の弾き方を教えた。これまた酷い音が出るが、「ラ」でコツを掴んだのか、数回で上手になった。ハリーの目の炎は大きく燃えたち、やる気が俄然高まっているのが分かる。メアリは他の音も次々と教えた。
「さて、今まで教えた音を順番に弾いて」
 言われた通りにハリーは弾いた。ぎこちないメロディが流れる。
「メアリ、この曲、聞いたことがあるよ」
「よく覚えていたわね。今のは『夕暮れの城』という曲よ。初心者がよく弾く曲なの。さあ、もう一度弾いて」
 固いメロディは次第に滑らかになる。やがて、ハリーは『夕暮れの城』を完璧に弾けるようになった。
「どう? 初めて曲を弾いてみた気持ちは?」
「疲れた」
 バイオリンをテーブルに起き、椅子に座るハリー。
「でも、楽しかった! 他にも色々弾きたいな」
 ハリーは満面の笑みを浮かべた。メアリもつられて微笑む。
「それは良かったわ。なら、どんどん次へ行くわよ」
 楽器の弾き方のテクニックだけでなく手入れの方法、そして楽譜の読み方。レッスンの時間はどんどん長引く。
「ハリー、何か弾きたい曲はある?」
 ハリーはしばらくの間考え、言った。
「じゃあ『楽園』を弾きたい」
「あれは今のハリーには少し難しいわよ」
「でも弾きたい。僕が初めて聞いた音楽だから」
 メアリは棚から、『楽園』の、簡単に弾きやすくされているアレンジ楽譜を出して譜面台に置いた。
「まずお手本を見せるわね」
 もう一つのバイオリンで、最初の四小節をゆっくり弾く。ハリーは見よう見まねで演奏する。楽園とは程遠い音が流れた。テンポも音程も、とにかく酷い。
「アレンジされているとはいえ、難しいことには変わりないわ。まあでも気長にやりましょう。時間はたっぷりあるもの。ちゃんとやれば弾けるようになるわ」
 メアリは演奏の悪いところを指摘する。ハリーは悪いところを直そうとするが、良くなるどころか返って酷くなる。
「僕には向いてない気がしてきた」
「そんなことを言うのはまだ早いわよ。私を十年も待った諦めの悪さはどこへやったの? ほら、右腕が下がってきてる」
 メアリに励まされながら、ハリーは練習を続けた。
 やがて、短くも美しい旋律がハリーの手元から流れた。
 一瞬、部屋が静まりかえる。
「やった……!」
 パチパチと眼窩の炎を輝かせ、自分の手を見つめるハリー。メアリもつられて微笑んだ。
「良くできたわ。コツはつかめたかしら?」
「うん」
「随分疲れてるわね。少し休憩する?」
「いや、コツを忘れないうちに次をやるよ」
「分かったわ」
 メアリは次の四小節を弾いた。それを見てハリーが真似をするが、音はかけ離れている。
「まだまだ先は長そうね。さあ、頑張りましょう。姿勢が崩れてきているわよ」
 しばらくの間、不協和音が屋敷中に鳴り響いた。


 粘り強い練習により、演奏は随分良くなった。小さなミスはあるものの、もう耳を塞ぎたくなるような音ではない。
「ここの弾き方が良く分からないんだけど」
「もう少し出だしを滑らかに弾くと良いわ」
 メアリはアドバイスをしながらお手本を見せる。
「僕もメアリみたいなバイオリン奏者になりたいな」
 突然、ハリーはそう言った。
「メアリのように弾けるようになりたい」
「なら、もっと練習が必要ね」
「それはしんどいなあ」
 しかし、口では文句を言いながらもハリーは練習をやめない。愚直に、繰り返し練習し続ける。メアリはいつしか、目を閉じて演奏に聞き入っていた。
 特別な技巧はない。まだまだ拙い。しかしそれでも、聞いていると胸がだんだん熱くなってくる。
 演奏が終わると、彼は歓声をあげる。
「やった! 初めて間違いなしで弾けたよ!」
 メアリは拍手する。
「すごく良かったわ」
 ハリーは照れたように頭をかいた。
 そして、メアリの手元に目を向ける。
「弾きたいのかい?」
「え?」
「ほら、バイオリンを持ってる」
 いつの間にか、メアリは右手で弓を、左手でネックを持っていた。弓や弦に触れないようにしながら、強く握りしめている。
 メアリは、その楽器を見つめた。物心ついた時には、バイオリンはすでにそばにあった。成長するにつれて品やサイズが変わりつつも、メアリは親の声より長くその音色を聞いてきた。苦しい時も辛い時も、叩き割りたくなるほど憎らしく思った時も、いつだって。
 しかし、今、メアリの中には、それらの感情はなかった。あるのは、
「弾くわ」
 衝動のみだ。
 窓から差し込む月光を受けて、バイオリンのボディが白く輝く。メアリは静かに立ちあがる。バイオリンを構える。
 演奏が始まった。


 月光を背にバイオリンを爪弾く一人の奏者。その姿はぞっとするほど美しく、演奏が始まると、ハリーは身じろぎひとつできずに、その音に聞き入った。その音を表現できる言葉をハリーは知らない。
 やがて、ハリーは初めて出会った時のことを、思いだしていた。今の演奏は、あの時聞かせてくれたものとよく似ている。ハリーの白黒の世界に色をつけた、あの音に。今もまた、あるはずのない心臓が揺さぶられ、血肉が熱くなる。
 突然、ハリーの目に激痛が走り、視界が歪みだした。メアリの姿がぼやけ、はっきり見えなくなる。目にゴミが入ったのかと思い、手で拭った。そして、指についたそれに、驚愕する。
 透明な液体。つまり涙。
 死神が、ひいては死者が、涙を流すことなどありえないし、あってはならない。涙は生者だけのものだ。しかし、ハリーの眼窩からはとめどなく涙が流れでる。目の炎に涙が流れ、ジュッと音を立てる。それが酷く熱く、痛い。このままだと炎は消えてしまうだろう。
 歪んだ視界の向こうに、メアリの姿がおぼろげながら見える。死神の泣き顔を見てどう思っているのだろうか。しかしどう思っていようとも、彼女は完璧に弾き続けるだろう。
 演奏から受ける熱と涙による熱のせいか、様々な記憶や感情がごうごうと渦を巻く。ハリーはバイオリンの音色を聴きながら、それらを見つめる。
 やがて、演奏が終わった。もうほとんど何も見えない。
「どうしたの? そんなに泣くなんて」
 メアリの足音が近づいてくる。
「すごいよ……今までとは別格だ」
「ありがとう。だけど、その目、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 ハリーは袖で頬骨を伝う涙を拭った。
「現世の大きな劇場で聞いてみたくなった」
「え?」
「無茶苦茶なことを言ってるのは分かってるよ。でも、もし僕が長生きしたとして、君の演奏を劇場で聞けたなら、本当に最高だろうなって。それに、この世界に、君が奏でる音は存在しちゃいけない。ここでは誰も泣いたり、泣かせてはいけないから……以前、君は言ったよね。バイオリンを弾いているときは幸せだって。僕は間違っていた。ここには君を悪く言う人間はいないけれど、君は演奏できない。幸せになれない」
 あの絵本のようにはうまくいかなかった。ハリーは奥歯をギリ、と鳴らしてその事実を噛みしめる。
「貴方は一つ勘違いをしているわ」
 ハリーは首を傾げる。
「何を?」
「ここへ来るのを決めたのは私よ。貴方が私を不幸にしたのではないわ。幸福にしたわけでもない。そして、貴方が私を幸せにする権利はないの。私の幸福は私が決めるわ」
「私の幸福は私が決める……」
 メアリの言葉を繰り返すハリー。
「でもここにいると、メアリはバイオリンを弾けないよ。それは不幸だろう?」
「まあ、仕方ないわ」
 ハリーの予想に反し、メアリは穏やかだった。
「いいのかい?」
「弾けないのは残念だけど、ジタバタしたってどうしようもないでしょう」
 今、メアリは微笑んでいるだろう。でも、それは自然に出た微笑みじゃない。綺麗に作った笑顔だ……ハリーはそう感じた。感じた途端、彼の口は自然と開いた。
「あのさ。言わなくていいかと思って、ずっと黙っていたんだけど。実を言うとね、まだ君は向こう側に帰れるんだ」
「──何ですって?」
「命の糸をもう一度つなぎ直せば生き返れる。間違って連れてきた人にしか普通はやらないけれど、君が望むなら糸を結ぶ。現世に戻った後は……君は凄く凄く、不幸になるだろう。でもできる限り僕がどうにかする。君が気持ちよく演奏できるように」
 一息で言い切り、メアリの様子を伺う。
「それなら帰るわ」
「うん。分かった」
 ハリーは力強く頷いた。そして「あーあ」と言いながら天井を仰ぐ。
「僕、フラれたんだなあ」
 メアリはクスリと笑う。
「そうねえ。そうなるわね」
「これからどうしよっかな」
「貴方が決めたらいいわ」
 ハリーはちょっとの間考え、
「バイオリンを弾きたいな。もっと上手くなりたい」
「それはいいわね」
「何の曲を弾こう」
「練習をもっと頑張らないとね。教えがいがあるわ」
 ハリーはキョトンとした。
「いいのかい? これからも教えてもらって」
「結婚は無理だけど教えることは別に良いわ。他に誰に教えてもらうの?」
「うーん、独学で。それでメアリが次にこちら側へ来たら、聞いてもらおうかなって」
「バイオリンは独学では出来ないわ。仕事のついででいいから、来なさい」
「仕事のついで?」
「そう、ついでで構わないわ。バイオリンを持って私の所へ来なさい。それで、上手になったら大きな舞台で弾きましょうよ。自分が弾きたい曲、誰かに聞かせたい曲、それら全部を最高の演奏で、たくさんの人に聞かせるの。良い案でしょう?」
 ハリーは少しの間何かを考えていたが、やがてメアリの手を強く握る。
「うん。それがいい。またメアリのところへ行くよ」
 二人は屋敷を出た。外は、見たことのない花畑が広がっていたが、全て無視して森の中に入る。森の中は非常に静かで、二人の足音が大きく響く。
「メアリ、弾きたい曲を考えてたけどさ」
「ええ」
「自分で作ってみるのもありだと思うんだ」
 メアリはノックベリーの楽譜屋でのことを思いだした。
「良いわね。死神が作る曲ってどんなものかしら。できたら聞かせてね」
「うん。出来たら一緒に弾きたいな」
「楽しみにしてるわ」
 やがて、周りに霧が出始めた。どんどん濃くなり、隣にいるはずのハリーの姿も見えにくくなる。迷子にならないよう、メアリはハリーの服の裾を掴んだ。
 背中も見えなくなってきた頃、ハリーは足を止めた。
「ここで待ってて。絶対に動かないでね」
 ハリーは霧の中に入っていった。メアリは一歩たりとも動かず、ハリーの消えた方を目を凝らして見つめた。不安がむくむくと膨れ上がる。待つ時間が非常に長く感じられる。彼がどうか道に迷いませんようにと、ひたすら祈っていると、彼はひょこっと霧の中から姿を現した。
「はい、これがメアリの糸だよ」
 細い銀色の糸が一本、ハリーの右手に握られていた。メアリは顔を近づけ、しげしげと見つめた。淡く光っている。
 ハリーはメアリの胸の前に左手を突き出した。すると、胸の中心が淡く光り、一本の糸がするすると出てくる。ハリーは二本の糸を手早く結んだ。
「この糸を辿れば、君は帰れるから」
 そう言って、ハリーは一歩後ろへ下がった。
「ありがとう。練習に来るの、待ってるわ」
「うん、またね」
 ハリーの気配が消える。メアリは再び不安に駆られた。相変わらず霧は濃く、太陽も月もなく、まるで真っ白な闇のようだ。しかし、今度は道しるべとなる糸がある。メアリは糸の伸びる方向へ歩きだした。
 時間感覚がすっかり麻痺した頃。メアリは遠くに人影を見つけた。影は何やら叫びながら、どんどん近づいてくる。
「姉ちゃん!」
 いつの間にか霧が薄くなっていたようだ。メアリの目は彼らの姿をはっきり捉えた。
「貴方達、グレイくんとアンちゃん? どうやってここに?」
 二人の子どもは驚いているメアリのスカートに飛びついた。
「良かった! ずっと探してたの!」
「早く帰ろう、姉ちゃん!」
 泣きじゃくる兄妹の頭を、メアリはそっとなでる。
「そうね。探しに来てくれてありがとう。早く帰りましょう」
「うん! こっちだよ」
 幼い子ども達には霧の中の道が見えているようだ。メアリの手をぐいぐい引っ張る。メアリは笑いながら二人と歩きだした。


 気がつくと、メアリは埃っぽい暗闇の中にいた。身体を起こそうとした途端、ゴツンと鈍い音がし、頭が何か硬いものにぶつける。呻き声を上げると、ドタドタと近くで音がした。
「お姉さん、今すぐ開けるから、ちょっと待ってて!」
 ガタン、と音ともに何かが外れ、グレイとアンの顔が見えた。メアリは頭をさすりながら起きあがる。
「大丈夫?」
「ええ、平気よ。何なの、これ? 棺? もう少し綺麗なものを用意する余裕はなかったのかしら……それにしても、ここはどこ?」
「ノックベリーの森の小屋だよ。変なおっさんから逃げてたらここに着いたんだ。おっさん、メアリとけっこんしたとか何とか言ってた」
 子ども達は今まであったことを手身近に話す。メアリは二人の勇気に脱帽した。
「貴方達、すごい冒険をしてきたのね。でも、一歩間違えたら死んでいたわよ。早くここを離れましょう」
 三人は小屋から出た。外は明るく、太陽が輝いている。
「良かった、まだ日が暮れてないよ」
 アンが胸をなでおろす。
「そういえば、私が死んでどれくらい経ったのかしら」
「姉ちゃんを見つけたのは今朝だったよ」
 今朝。メアリが指先がぼやけるような感覚に陥った。身を投げたのは夕方だったから、一晩向こうの世界に言っていた事になる。だけども、メアリはあの屋敷には何日も何ヶ月もいた気がしてならない。たった一晩であるはずがないのだ。
「あっちから逃げてきたから、帰り道はこっちだよ。行こう」
 ぼうっとするメアリの手を引く二人。メアリは我にかえる。
「え、ええ。行きましょう」
 追っ手を警戒しながら木立を進む。
「あ、そうそう、お姉ちゃん。これ、あの怖いおじさんの家で拾ったの。なんて書いてあるの?」
 ふとアンは立ち止まり、ポケットからくしゃくしゃになった羊皮紙を取りだしてメアリに渡した。
「何かしら。読んでみるわ」
 文章を読んだ途端、メアリは呼吸を忘れた。そこに書かれていることがすぐには信じられず、三回読み直した。
「すごい、すごいわ。アンちゃん。よりにもよってこの紙を取ってくるなんて!」
 メアリの手が興奮で震えだす。
「え? 何が書いてあるの?」
「暗殺の指示書の断片よ! シャンデリアを落とすようにって書いてある……これがあれば、私の無実を証明できるわ」
 メアリは兄妹を強く強く抱きしめる。
「あんさつ? むじつ? それってなに?」
「町へ行きましょう。すぐに!」
「じゃあこっちへ行きましょう」
 木立の中を走りだす。メアリは頭の中で、この証拠を使ってどうあの二人の罪を暴くか、その計画を立て始める。
 先ほどはああ言ったが、この紙切れ一枚で彼らの罪を暴くことは難しい。あれこれ言い逃れするだろう。しかし、メアリは諦めるつもりなど毛頭ない。
──首を洗って待っていなさい。貴方達を舞台から引きずりおろしてやるわ。

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