朝日が眩しい。メアリは目を眇めてベッドから起きあがる。
(何か良い匂いがする。これは、パン?)
ワンピースに手早く着替え、階下に降りる。台所に行くと、かまどの前で奇妙な鼻声を歌っている骸骨がいた。
「おはよう」
背後から話しかけると、骸骨の肩がビクッと跳ねる。
「びっくりした! いつからそこにいたの?」
「ついさっきからよ。パンを焼いているの?」
返事を待たず、かまどへ近づく。橙色の火の中で、網に乗せられたパンが見えた。
「パンは昨日と違って美味しくできたと思うよ。食堂で待ってて」
言われた通り食堂で水を飲みながら待っていると、ハリーが藤かごと皿を持ってやってきた。
運ばれたばかりの白いテーブルに置かれた皿は二つ。サラダとまだ温もりのあるパンだ。まずサラダを食べてみる。この辺りで取れる野草を使ったもので、蜂蜜をベースにした甘酸っぱいソースがかかっている。パンの方は、ふわふわして、綿のように柔らかい。ほんのり甘みがある。
「どう?」
「パンは昨日より美味しくなっているけど、まあまあね」
冷淡な感想とは裏腹に、メアリは次々とパンを口に運ぶ。
実はとても喜んでいた。白いパンなど久しぶりだ。しかも実家のものより美味しい。ハリーが人間で、結婚しようなんて馬鹿げたことを言わなければ、キャンドル家専属の料理人にする所だ。
食事を済ませると、メアリは音楽室に行きバイオリンを持って食堂へ引き返した。ハリーはテーブルの片付けをしている。
「ねえ、ハリー。ちょっと曲を聞いて欲しいの」
音楽室から追い出した次の日に聞いてほしいというのは、いささか不自然だ。しかしハリーは、
「うん、いいよ!」
顔をカクカクと勢いよく縦に振り、嬉しそうにそう答えた。
メアリは窓の前に立つと、おもむろに弾き始める。
曲の名前はずばり『恋人』。甘く情熱的なメロディが男女の気分を大きく盛りあげる。舞踏会では定番の曲だ。
弾き始めた途端、ハリーの眼窩の炎が大きく燃えあがる。色は悪魔の目のような真紅色で、気味が悪い。しかしそれでも、メアリは内心の動揺を表に出さず、完璧に弾ききった。
「美しい曲だね」
ハリーは手を叩く。骨の手が叩く音は何とも虚ろで不気味だ。それでも勇気を出してメアリは準備していた言葉を言う。
「聞いてくれてありがとう。これはね、婚約者のために弾いたの」
「婚約者? 僕のこと?」
「違うわ。私には元々婚約者がいるの」
「へえ。誰だい?」
驚きも怒りもせずに、ハリーは尋ねた。興味のない噂話に適当に合わせるかのような、半ば無関心な雰囲気の尋ね方だ。
「ジャック・ブラウン。貿易商なの。今は海外にいるわ」
メアリは適当に婚約者をでっち上げる。
「ふーん、そうなのか」
「だからね、貴方のプロポーズには答えられないのよ」
「そうか」
「そう、分かってくれてよかった。それなら、ハリーは諦めて出ていってくれるのね」
「え、嫌だよ」
心の中で舌打ちを打つ。
「話、聞いてたの? 私はブラウンさんと結婚しなければならないの」
「その結婚は誰かが勝手に決めたものだろう? 僕らの約束の方がそんなものよりずっと大事だよ」
「ブラウンさんの結婚の方が大事よ」
「なら約束の方が大事だと思ってもらえるよう、もっと頑張るよ」
彼は台所からカゴを取ってきた。
「さっそく、外で何か美味しいものを取ってくるね!」
勝手口から風のように飛びだしていく。後ろ姿をメアリは呆然と見送った。
メアリは音楽室に引きこもり、気分を紛らわそうと色んな曲を弾いた。しかし、何の曲を弾いても忌々しいハリーの顔と言葉が頭の中から離れない。
はあ、とため息をついてメアリは楽器をカバンに戻し椅子に座った。
(ぜんっぜん話が通じないわ、あの骨。『そうか』と言ったかと思ったら、その次は『嫌だよ』と来るなんて)
ハリーを正面から説得するのは不可能だ。何か別の方法を──しかし、何にも思いつかない。メアリは神の僕ではない。化け物を退けるやり方など知るわけがない。
それでもあれこれ考えているうちに、気づけばメアリの思考はあの世での暮らしに向かう。
(あちら側の暮らしって一体どういうものなのかしら)
本物の楽園だとハリーは言っていた。しかし楽園を知らないメアリにはぼんやりした想像しかできない。
(楽園についてハリーに訊いてみようかしら。もしかすると思わぬ収穫があるかも。彼を退けるためのヒントになるものが……)
メアリは楽器を片付けて音楽室を出た。台所に行くがハリーはいない。まだ帰ってきていないようだ。
「あら?」
食器棚の横に一冊のノートが置かれている。何かしら、と呟いてメアリは手に取る。
羊皮紙を乱暴に束ねたそのノートの題名は『優しい死神とお姫様』。
タイトルの下にはフードをかぶった骸骨とピンクのドレスを着た女の子の絵が描かれている。これは絵本だ。
(ハリーのものかしら? 子どもっぽい趣味なのね)
メアリは丸椅子に腰掛け、絵本を開いた。
お城に住むお姫様は、ある日優しい王子様と出会う。二人は恋に落ちるが、王子様は病気で死んでしまう。
悲しむお姫様の前に、死神が現れる。その死神は、年に一度だけ彼に会わせてあげると約束する。もちろんお姫様は喜び、年に一度、二人は森で会う。
しかし歳をとるにつれ、お姫様は死んだ王子様のことを忘れていく。これに怒った王子様は、お姫様を冥界へ連れさらった。
お姫様は冥界の塔で泣き暮らす。哀れに思った死神は、お姫様を塔から連れ出し、王子様を地獄の大穴へ突き落とした後、お姫様を現世へ送り届ける。
だがお姫様は死神のことをすっかり好きになってしまっていた。また死神もお姫様のことが好きだった。けれど死神は長く現世にいられない。そこで、お姫様はお城には戻らないことにした。二人は、結婚の誓いを立てて一緒に天国に昇った。そうして末長く幸せに暮らしたのだった。めでたしめでたし。
パタンと本を閉じる。
(変な絵本。面白くないし、子どもに読ませるには問題があるストーリーね)
だけど……メアリはこめかみをおさえる。
(この話、知ってるわ)
おぼろげな記憶だが、確かにこんな感じの本を読んだことがある気がする。いつだっただろうか。メアリは頭の中で記憶の箱をひっくり返した。
「絵本、読んでたんだね!」
ヒィッと声をあげて隣を見る。カゴを背負ったハリーが耳元に立っていた。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」
「え、ええ。いいわよ、別に。いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだよ」
ハリーはカゴをテーブルに置いた。中から山菜の葉がはみだしている。
「この本、貴方のものなの?」
「そうだよ。大、大、大っ好きなんだ!」
「へえ、そうなの」
さすが死神、独特のセンスだ。メアリは理解できないと首を振りながら、本を元の場所に置く。
「昼食まだだったよね? 作るよ」
骨の手で包丁をちゃんと握り、規則正しい音を立てて山菜を刻む。実に奇怪な光景だ。
「ねえ、ハリー」
「うん?」
まな板から目を離さず返事をするハリー。
「私を連れていこうとしている場所だけど、具体的にどんな所なの?」
「素晴らしい所さ。老いも病気も飢えもない。現世の嫌なことを忘れて最高の幸せを味わせる」
「幸せって、例えば?」
「家は大きくて美しく、掃除しなくても綺麗なままなんだ。室内も外見に負けず劣らず素敵だよ。きっと気にいると思う。お腹が空いたら庭の木になっている実を食べれば良い。一つ食べるだけでお腹いっぱいになるんだ」
「他のものを食べたい時は? シチューとかステーキとか」
「もちろん食べられるよ。頭の中で食べたいものを思い浮かべながら台所の戸棚を開けるんだ。そしたらそれが出てくる。
出てくるのは食べ物だけじゃない。欲しいものは全て手に入るんだ。ドレスも宝石も、もちろん楽器も。この世のどの楽器よりも素晴らしい、最高の音色を奏でるんだ!」
ハリーの口ぶりからは、単なるメアリの気を惹くための方便ではなく、本当に心底素晴らしい、と思っていることが伝わって来る。
「住人はどうなの? 当然、その楽園には他にも人がいるのでしょう?」
「うん。皆、良い人たちばかりだよ。悪い人はいないんだ」
「悪意はなくても性格が合わないということもあるわよ」
「それはこの世の話さ。全員満ち足りているから、相手のことを嫌だとすら思わない。穏やかなもんだよ」
「なら、バイオリンで何か演奏したら、聞いてくれるのかしら?」
「うん。きっと褒めてくれるに違いないさ」
想像する。美しい家の中で、美味しい食事をとり、最高の楽器で曲を演奏する。周りの人達は笑顔で聞いてくれる──。
「最高だろう?」
「そうかもしれないわね。だけど」
メアリは思っていることを率直に口にする。
「私は、私を殺そうとする人と暮らしたくないわ。たとえ死後がどれほど楽しく幸せであろうと、それは嫌なの」
彼の眼窩の火が大きく揺らめく。包丁を置き、メアリに向き直る。
「死んだ方が、幸せになれるよ」
とても優しい声音だった。
「何ですって?」
「メアリが嫌なら、僕と離れて暮らしてもいい。僕はただ、メアリが幸せになってくれたら、それでいいんだ」
ハリーはくるりと背を向ける。
「お腹が空いているだろう。食堂で待っててよ。すぐに持っていくから」
コンコン、と冷たい包丁の音が二人の間で響く。
メアリは静かに台所を出た。廊下で頭を抱える。
(どういうこと? 『死んだ方が幸せ』? 何を言ってるの?)
死こそ幸福である──まるで狂った哲学者の考えのようだ。
でも、とメアリは呟き、窓の外を見る。背の高い木々の間に静かな夜の薄闇が広がりつつある。
ここは樹海の中。死神という侵入者を除けばメアリは一人ぽっちだ。
(こんな場所で生きていても、幸せにはなれないわね)
ひとりでに大きな溜息がでる。
(ハリーを追いだすなら、私が『現世で』幸せにならないと。でもどうやって?)
昼食の美味しいスープを飲んだ後、メアリが音楽室に引きこもってバイオリンを弾き続け、心を紛らわせた。そしていつもより早く眠りにつき、形のない夢の中に逃げた。