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 いつもより早く目が覚めた。窓から見える空は、昨日と違い綺麗な青色である。絶好のお出かけ日和だ。
 ハリーは台所で朝食を作っていた。
「おはよう、メアリ。今日は早いね。もう少しでできるよ」
「おはよう。今日は先に身体を洗ってくるわ」
 水浴びをした後、メアリはお忍びの服──無地の白いワンピースに着替えた。髪を乱雑に後ろで束ね、汚れた木靴を履けば、どこにでもいる町女のできあがりだ。
 館に戻ると、お皿を持ったハリーに出くわした。
「普段と雰囲気が違うね」
「町歩き用の服よ。今日の朝食は何?」
 メアリは皿を覗き込んだ。目玉焼きが一つと付け合わせの野草がのっている。
「ごめんね。昨日は食材が手に入らなくて」
「構わないわ。町で食料の調達をしましょう」
 メアリは切りにくい木製のナイフを器用に使い、目玉焼きを切って口に運んだ。
 朝食の後ハリーがお皿を片付けている間に、メアリは自室で財布を取りだした。盗まれないよう鎖をつけて首にかける。
「ハリー、私はいつでも出られるわ」
「すぐ行くよ!」
 玄関でハリーを待つこと数分、人間に変身したハリーがやってきた。
「お待たせ。さあ行こう」
 ハリーは玄関の扉を開けた。
 錆びた鉄門と伸びた草ばかりで、馬車も何もない。メアリは当惑の表情でハリーを見た。すると、ハリーはメアリを両腕でひょいっと抱えた。そして、地を蹴った。
 次の瞬間、メアリは館の屋根よりも高い場所にいた。悲鳴をあげてハリーの腕にしがみつく。
「大丈夫だよ。落としたりしないから」
 メアリの耳元でそう囁くと、前へ向かって加速しはじめる。眼下の屋敷があっという間に後ろへ流れていく。風は冷たく、服の裾が王宮のてっぺんに飾られる旗のようにはためいている。
「あ、貴方はいつもこんな高い所を飛んでいるの? 怖くないの?」
「うん。全然怖くないよ。鳥になった気分さ」
 ハリーは少し飛ぶ速度を落とした。スカートのはためく音が少し弱くなる。メアリは呼吸を落ち着けて、眼下の景色を見る。
 地平線の果てまで樹海が広がっている。先の尖った木々が織りなす光と陰が、森の美しさと不気味さを引き立てる。メアリはグレイとアンの村を見つけた。空から見る村は緑色の海にポツンと浮かぶ孤島のようだ。
 近くをガンが飛んでいく。なるほどハリーの言った通り、鳥になった気分だ。
 しばらく飛び続けていると、緑の水平線が切れ、大きな町が見えてきた。ノックベリーだ。
 大河の両側に、木造の建物がたくさん建っている。規則正しく並んでいる様子は、モザイク画のようだ。
 彼は人気のない路地裏に音もなく着地した。誰にも見られていないことを確認した後、裏路地を通り抜けた。
 二人が出たのは、ノックベリーで最大規模の青空市場だった。馬車や荷車が辺りを行き交い、露店の前では売り子が声をあげて客の呼び込みをしている。
「これは、想像以上の人通りだわ」
 メアリ達の前を、貨物を乗せた馬車が走っていく。
 人々の服装も独特だ。メアリのように南部地方特有の、薄手でヒラヒラした服を着ている人はいない。ほとんどの人が袖や襟がぴっちりした服を着ている。特に女性のワンピースには、この地方独特の細かい刺繍が施されている。
「こんなに広かったら、きっと楽譜もあるだろうね」
「あるはずよ」
 二人は買い物を開始した。ハリーが欲しいと言った野菜や果物、干し肉や魚の干物などをメアリが次々買う。持ってきたカバンはたちまちパンパンに膨らみ、いっぱいになった。
 しばらく歩いていると、ふと香ばしい香りが漂ってきた。少し先にある屋台から匂ってくる。
 メアリは吸い寄せられるように屋台へ歩いていった。屋台では壮年の男が丸いパンを油で揚げている。
「やあお嬢さんいらっしゃい!」
 男がニカッと笑った。メアリも微笑んで、店主に尋ねる。
「その揚げたパンは何かしら?」
「え? お嬢さん、これを知らないのか?」
「ええ。まだこの町に来たばかりで」
「そうか。これはな、ニロケットというんだ。うまいぞ?」
「頂くわ」
 メアリは硬貨を店主の前に置いた。店主は慣れた手つきでニロケットを二つ、揚げ油の中に入れた。数分経ってからりと揚がったそれらに茶色い紙を巻きつける。ハリーも含めた二人分だと、勘違いしたらしい。今更一人分だと言うのも変なのでメアリは二倍のお金を払った。
「悪いね、僕の分まで」
「構わないわ。これ、とても美味しそうだもの」
 四辻にあるベンチに二人は腰掛けた。包みを開けると、香ばしい香りが立ちのぼるる。メアリは早速一口食べた。サクッとした衣の内側に、ひき肉やキノコ、芋にチーズが目一杯詰めこまれている。口の中でとろけるチーズが本当に美味しい。
(これが食べられないなんて、随分損しているわ)
 メアリはハリーの顔を横目で見た。すると、何故かハリーはメアリを見て笑顔を浮かべている。
「何をニヤニヤ笑っているの?」
「美味しそうに食べるなあって思ってさ」
「そんなに見られたら食べにくいわよ」
「ごめんごめん。はいこれ、もう一人分」
 笑いながらハリーは前を向く。メアリはむっとした顔で、ニロケットを食べた。
 食べた後、二人はまた市場を歩く。食べ物屋、金物屋、まじない屋等を経て、やがてその店を見つけた。
 五線譜を模した看板を掲げたその店は、他より一際大きく、中に入ることができる屋台だ。戸口の周りには楽譜が積み上げられている。吊り下げられているのは見慣れない笛や太鼓だ。
「ここよ」
「へえ、これが……」
 店番は初老の男だ。メアリ達を見ると人の良さそうな笑みを浮かべた。メアリ達も笑みを返し、商品を手に取る。
(この辺りは全部この地方の楽曲ね。バイオリンでうまく弾けないかしら。あ、これ、『楽園』の楽譜ね。それとこっちは──)
 じっくりと吟味していると、隣で珍妙な音が鳴った。隣を見ると、ハリーが商品のバイオリンに似た弦楽器で遊んでいる。
「駄目よ、勝手に音を出したら!」
 ハリーの手をひっつかみ、店主の顔を伺う。
「構わんよ。気が済むまで弾いたら良い」
 メアリはほっと胸をなでおろし、ハリーの手を離す。
「優しいのね。ありがとう」
 ハリーはメアリの耳元で囁く。
「ねえ、もしかして勝手に触ったら駄目なのかい?」
「ええ。ちょっと触っただけで、壊れただの何だのと難癖をつけて買わせようとする商人がいるのよ。この人は親切で助かったわ。音を出しても良いけど、ほどほどにね」
「分かったよ」
 再び遊びに夢中になるハリーを放っておき、楽譜を吟味する。
 しかし、ハリーが立てる音が気になって集中できない。うるさいとも耳障りとも思わないが、聞いていると心が浮ついて、どうしても意識が持っていかれる。まるでそういう音楽のようだ。
「ハリー、それは何の曲?」
「え? いや、曲でも何でもないよ。ただ面白いなあって思って弾いてただけ。もしかして、うるさかった?」
「別に。面白い曲だなって思っただけよ。もしかすると作曲の才能があるかもね」
「え、そうかなあ?」
 目を輝かせるハリーを横目に、メアリは楽譜を厳選する。長考の末、とうとう店主に金を払った。
「何を買ったの?」
「『楽園』と、この地域の曲をいくつか。勇壮なものが多いわね」
「また聴かせてよ」
 軽い足取りで店から出ようとした、その時。
 ちょうど入ってきた誰かとどん、とぶつかり、メアリは尻餅をついた。
「大丈夫?」
「平気よ」
 ハリーの手を取り起きあがり、相手に目を向ける。
「ああ、すみません」
 その顔を見た瞬間、メアリは凍りついた。
「おや」
 相手もメアリに気づいたらしい。
「ごきげんよう、ミス・キャンドル」
「……ごきげんよう。ミスター・アンダーラダー」
 男は目を三日月のように細めた。
 彼の年齢は三十中頃。毛皮のチュニックと白いタイツを履き、ごついブーツを履いている。一見人となりの良さそうな男だが、彼の後ろには武装した従者がぞろぞろついてくるせいで、その雰囲気も台無しだ。
 彼のことをメアリはよく知っている。アレン・アンダーラダー。王国の南部に住む王族だ。
「ミスターなんて堅苦しい。どうぞ昔のようにアレンと呼んでください」
「ミスター・アンダーラダー。まさか貴方がこちらにいらしてるとは思いませんでした」
「……まあいいでしょう。最近別荘を建てたのですよ。良かったらお茶でもどうです?」
「ありがとうございます。でも、今日は忙しいので、次の機会に」
「忙しい? まあそう言わずに。実は貴女に渡すものがあるのですよ」
 アレンの口角がニンマリとあがる。
「あなたの父君からの手紙ですよ」
「なんですって?」
 そんな馬鹿なことがあるはずはない。
「ですから、貴女の父君が、娘に届けてくれと私に託した手紙です。ただの伝使に渡すより、私の方がはるかに早く届けられますからねぇ。明日伺おうと思っていましたが、丁度良い。是非我が別荘へいらっしゃい」
 アレンは強引にメアリの腕を取ろうとする。しかし、そこにハリーが割って入る。
「あのう」
「何だね、君は」
 うって変わって横柄な態度になるアレン。
「僕は使用人のハリーです。メアリ様は少し体調がすぐれないようなので、お茶はまた今度にしてくれませんか?」
「体調がすぐれない? ならすぐに医者を呼ばなければ!」
 芝居ががった調子で大げさに騒ぐアレン。
「あんな森の中の家では医者を呼ぶのにも一苦労ですからね。我が屋敷で休まれてくださいな」
 声音は蜂蜜のように甘く優しい。しかし、目の中はギラギラと光っている。残忍な心の人間が持つ、針のような光である。
(ああもう、本当にツイてない。最悪)
 内心の悪態を表には出さず、メアリは笑顔のまま頷く。
「……では、喜んで」


 町を一望できる丘の上にアンダーラダー家の別荘はあった。
 高い尖塔が特徴的な、五階建ての建物だ。柱にはブドウの蔦と守護神のレリーフが彫られている。
「王都の大聖堂と同じ建築家に頼んだのです。いかがです、素晴らしいでしょう?」
「ええ」
「あの柱の装飾が私の一番のお気に入りなのですよ」
「そうですか」
「どうです、この薔薇の庭は? 希少な種を植えているのです」
 適当な相槌をうっているが、アレンは話すのをやめる気は無いらしい。
「綺麗ですね」
「あの黒い百合も庭の良いアクセントになっているでしょう。あの品種は手に入れるのに苦労しました。黒色は希少でね、遠い外国の崖にしか咲いていないのです」
 ようやく馬車が正門の前に止まった。使用人が玄関前でずらりと整列し、屋敷の主人と客人を出迎える。その間をゆっくり歩き、豪華な両開きの扉をくぐる。
 中は五階まで吹き抜けで、優雅な螺旋階段が上層へと続いている。壁には神話の絵が描かれている。螺旋階段の入り口は天地創造の場面が描かれ、少し階段を登れば神の戦いの絵がある。階段を上っていくにしたがって物語が進むのだろう。
「こちらへどうぞ。ああ、召使いの方はそこでお待ちください」
 アレンはメアリを重そうな扉の向こうへ案内した。そこは豪奢な応接間だった。宝石が埋め込まれた立派なソファと机が置かれ、壁際に置かれた花瓶の花から良い匂いがする。窓からは綺麗に手入れされた、アレンご自慢の中庭が見渡せる。
 メアリとアレンは、テーブルを挟んでソファに座った。別のドアからメイドが入ってきて、お茶とお菓子を用意して出ていった。
「もう一度お会いしてみたいと思っていたんですよ」
 アレンはおもむろに話し始める。
「あの事件は本当に酷いものでした。誰も彼もが貴女が犯人だと決めつけて……貴女のような気高くお美しい方が殺人など犯すはずないでしょうに。無事に牢から出られて、本当に良かった」
「お父様からの手紙を早く渡してくださいませんか?」
 メアリは苛立ちを隠さない。この男の芝居臭さにいちいち付き合っていられない。
「せっかちですね。せっかくの再会ですし、もう少しお話をしましょうよ。北の森に引っ越されたんでしたね。どうです、あの森の暮らしは?」
「話などありません。手紙をください」
「やれやれ。分かりましたよ」
 アレンはパンパンと手を叩いた。
「あの手紙を持ってきてくれ」
 扉が開き、金のお盆を持った執事が入ってくる。お盆には白い封筒が二つ、乗っている。
「お嬢さんに見せてやれ」
 執事は二つのうち一つを恭しくメアリに渡した。
 封筒には何も書かれていないが、家紋で封がされている。丁寧に封蝋を剥がし、便箋を取りだした。上等な羊皮紙だ。
 内容を見て、メアリは絶句した。ゆっくり、三度読み返す。
 それは、別荘とその周辺の森をアンダーラダー家に売却する旨を記した契約書だった。期日は明後日。明後日までにメアリは荷物をまとめて出ていかないといけない。
 偽物だと思いたい。しかし契約書に記されたメアリの父のサインはどう見ても本物だ。
「ああ、すみません。渡すものを間違えました。手紙はこちらです」
 アレンはわざとらしくそう言い、もう一枚の手紙をメアリの前に置く。今度は『メアリへ』と封筒に名前が書かれていた。
 中身を取りだす。そこには見慣れた父親の字が並んでいる。
『メアリへ。クロウ・アンダーラダーがお前を娶ってくれるらしい。森の別荘を離れてアンダーラダー邸に移るように』
 突然、ドアが開いた。
「メアリが来たんだって?」
 全身に鳥肌が立った。一番聞きたくない声だ。
 クロウ・アンダーラダー。アレンの弟だ。兄とは全然似ていない。背は兄より高いが、兄よりもガリガリに痩せている。
「どういうつもり?」
 メアリの唇が怒りで震える。
「うん?」
 メアリは手紙をテーブルに叩きつけた。
「よりにもよって貴方と結婚ですって? 私を王都から追い出した貴方と! 馬鹿げているわ。何を考えているの?」
 怒りに満ちた、低い声。悪魔と見紛う、憤怒の表情。
 しかし、対するクロウは全く恐れる様子も見せない。むしろ笑っている。
「王都から追いだす? 何のことだ?」
「春のコンサートで、舞台で演奏中のエドワード殿下の上にシャンデリアが落ちてきた事件。あれは私が仕組んだことだ。殿下と私は密かに愛し合っていたけど、殿下が色んな女性と付き合うから私は嫉妬して殿下を殺そうとしたのだ──こんな根も葉もない噂を流したのはクロウ、貴方でしょう!」
「何のことだか分かりませんな。証拠もなしにそんなこと言うなんて」
 どこ吹く風と知らん顔のクロウ。
「もう帰るわ。結婚なんかお断りよ!」
 メアリはソファを立ち、戸口へ向かう。だが、ドアの前にクロウが立ちはだかる。
「駄目だ。帰るんじゃない」
「もう夕方です。今夜は泊まっていかれたらどうです?」
 背後のアレンがメアリの腕を掴む。メアリは悲鳴をあげた。
「助けて!」
 すると突然、花瓶が粉々に割れた。兄弟が驚き、視線が壁に向く。その隙にメアリは応接間を抜けだした。
 玄関扉がひとりでに開く。外へ飛びだし、転がるように丘を下りる。物陰に隠れ、ハリーを呼ぶ。
 メアリの目の前に白い霧が渦巻き、瞬く間に灰色の骸骨となる。
「大丈夫?」
「ええ、ありがとう。周りはどう? 追っ手は来てる?」
「上から見てたけど、ここに来るまでは誰も追いかけてこなかったよ」
「ここから離れましょう。どこか見晴らしのいい所に」
「分かった」
 ハリーはメアリを抱え、空を飛んだ。


 今年の春、メアリは、まさか自分が王子暗殺の犯人にされるなど夢にも思わなかった。
 春の夜に開かれた、王宮の音楽会。メアリは王子と共に舞台に立っていた。王族と共に舞台に立つのは初めてだったが、最初から最後まで、いつも通り完璧な演奏を成し遂げた。
 だが、最後の曲が終わった直後。万雷の拍手が響く中。
 バイオリンを持って微笑む王子の頭上に、シャンデリアが落下した。骨と肉が潰れる音をメアリは聞いた。
 だが死体は見ずに済んだ。シャンデリアのろうそくの火が死体に燃え広がったからだ。
 火は瞬く間に舞台に移った。メアリも観客も、パニックになって逃げだした。
 大勢の人々と避難した先で、王国ご自慢の劇場が焼け落ちるのを、メアリは呆然と眺めていた。
 数日後、王子の葬式が執り行われた。そして王宮の兵士たちによる事件の調査が始まった。メアリも兵士から話を聞かれた。その頃のメアリは本邸で眠れぬ日々を過ごしていた。多くの友達が見舞いに来て、慰めの言葉をかけていった。
 しかし、ある日のこと。情報通の使用人がこう知らせてきた。
『メアリ様。クロウ・アンダーラダーをご存知ですよね』
『ええ。南部出身のバイオリン奏者よね。何度か顔を見たことがあるわ』
『その男、どうもメアリ様の悪い噂を流しているようです。王子を殺したのはメアリ様だと言いふらしているようで』
 すぐに使用人を使って噂を調べた。確かに噂は尾ひれをつけて急速に広まり、その中心にはクロウがいた。噂を訂正すべく、メアリは様々な人間に助けを求めた。
 しかし、噂が広まる方が早かった。
『メアリ、悪いけど、もう来ないでくれるかな?』
『あくまでも噂に過ぎないって知ってるよ。でも、君と一緒にいると立場が悪くなるんだ』
『王子の愛人だったんだって? ビックリだよ』
 一人、また一人と周りから人は消えていった。噂は益々広がり、そしてとうとうメアリは王宮の兵に捕まった。使用人達も共謀の疑いで一人残らず捕らえられた。
 埃まみれの独房の中でメアリは無実を訴えた。すると、調査官は一枚の紙を見せた。
『ここにサインし、贖罪金を払え。そうしたら出してやる』
 その額はキャンドル家の財産が丸ごと吹き飛ぶ値だった。メアリは使用人達も解放する条件で、紙にサインした。
 何とか無罪にはなったが、最早王都にメアリの居場所はなかった。メアリは遠い親戚に老いた父をどうにか預けた後、僅かな荷物──数日分の衣服、うまく隠したおかげで徴収を免れたバイオリンとお金──を持って北へ旅立った。


「着いたよ」
 メアリは我に返った。重苦しい過去を脇にどかし、周りを見回す。
「ここは?」
「堤防の見張り塔さ。今は使われてないみたいだ」
 四人立ったら窮屈になりそうな、狭い床。手すりは腰までの高さしかなく、ノックベリーの街並みが見渡せる。
 そろそろ夕方だが、まだまだ町は騒がしい。濃い水の匂いが漂う中、何百もの船が水面を動いている。王都へ向かう大きな貨物船から、向こう岸へ人を送る渡し船。船乗り向けの水上マーケット。商人のやかましい宣伝に、どこからか聞こえてくる船乗りの歌。
「あいつら、酷い奴らだな! メアリが殺人なんかするはずがないだろ! それに結婚だって? そんなの絶対許さない!」
 ぎゃあぎゃあと喚くハリー。
「メアリ、落ちこまないでね。僕があいつらを地獄に連れていく! あいつらは地獄の煮え立つ釜に放り込まれて、真っ赤に焼けた火かき棒で叩かれるんだ!」
「ねえ、ハリー。もしかして最初からこの展開を知っていたんじゃないの?」
 ハリーの悪態が止んだ。その顔を見て、メアリは吹きだす。
「あはは。その顔、図星ね」
「いつ、気づいたの?」
「たった今。貴方の怒り方、何か作り物っぽいのよ」
「……別に怒ってないわけじゃないんだ」
 ハリーは懐から、結婚の誓いの紙を取りだした。それを細かく破くと、手すりの向こうに落とす。紙くずは風に乗って運河へ消えていく。
「本当は、こんな約束なんかどうでもよかった。メアリが僕のことを覚えていなくてもよかった。僕はメアリが幸せなら、それでよかったんだ」
 色が変わりつつある空を見あげるハリー。もうすぐ夜だ。一番星が瞬いている。
「死神は、死期が迫った人間の未来をある程度知ることができる。その人がどんな死を迎えるのかを予め頭に入れて、仕事に取りかかるんだ」
「私はどうやって死ぬ予定なの?」
「自殺する。アンダーラダー家の地下室で。死の間際の君は心が壊れてしまって、自分が誰かも分からなくなってる。狂気の中、ひたすら苦しんで死ぬ」
 メアリは意外なほど冷静に、すんなりとその話を受け入れた。臨終の自分の姿がはっきり思い描けた。暗い部屋で、汚れたベッドの上に横たわっている、目が濁った自分自身が。
「それが分かったのが、君が牢獄に入れられた時だ。その時に君の結末は決定した。例え僕があいつらの魂を地獄に送ったとしても、結末は変わらない。そうしたら、また別の奴が君と君の土地を買うだけだから。この運命はもう変えられない。だからもう、辛い思いをさせないために、迎えに来た」
 ハリーはメアリに向き直る。
「決して君に不幸な思いはさせない。永遠に幸せにする」
 右手をすっと差し出すハリー。
「さあ、この手を取って」
 メアリは深呼吸して空を仰いだ。
 森も館もあと二日で売却され、メアリはクロウの妻になる。そして惨めな終わりを迎える。
(そんなの、嫌!)
 メアリはハリーの元へ一歩近づくと手を取った。
「私を連れていって。ハリー」
 ハリーはメアリを両腕で抱えると、星が瞬く空へ向かって飛び立った。地上からぐんぐん離れていく。
 メアリは急に眠気を覚えた。目を閉じると、全身から力が抜けていくのが分かる。
 肺に残っている空気を静かにはくと、メアリの意識は闇の中へ落ちていった。
 深い、深い闇の中へと……。

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