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 星空の下、無限に広がる砂漠を、メアリは歩いていた。
 勝手口を出た後にあった小道はいつしか消え、気づけば障害物も何もない場所を歩いている。振り返っても、あの屋敷はもうどこにも見えない。
(ハリーに何も言ってこなかったわ)
 母に会えると喜ぶあまり、書き置きを残すことすら忘れていた。しかし今更引き返すこともできない。帰ったら謝らないと、とメアリは心のメモに予定を追加した。
 耳元で風がうなる。砂が舞いあがり、視界が一瞬銀に染まる。
 手で顔を覆いつつ、そっと上空を伺う。光る鳥は強風などものともせず飛んでいる。
(もう何時間も歩いているけど、まだ着かないのかしら。まさか迷子になったりしてないわよね?)
 風がおさまると、メアリは鳥に呼びかける。
「ねえ、どこに向かってるの?」
 すると、鳥は一気にメアリを引き離し、砂の丘の向こうへ消える。
「ちょっと!」
 すぐに丘を駆けあがる。その頂上で、メアリははっと息を飲んだ。
 丘のふもとは砂ではなかった。濁った白色の、平らな地面だ。
(これは一体……)
 そろそろと丘を下り、地面を踏む。想像よりも固い。今まで柔らかい砂を歩いてきたせいか、歩きにくい。
 ピイ、と鳴き声が響く。あの鳥が大きな岩に留まっている。その岩の周辺だけ、微妙に地面の色が違う。
 メアリは岩に近づき、色の違う地面に足を下ろした。
 その瞬間。地面に亀裂が走り、粉々に割れた。
 一瞬の浮遊感に包まれた後、メアリは真下に落ちる。大地の破片が頭上に降り注ぐ。
 その欠片一枚一枚に、無数の光景が映っていることに、メアリは気づいた。
 葬式の場面だ。見知らぬ黒服の一団が、墓地で墓石の前に花を添えている。彼らは皆で鎮魂歌を静かに歌っている。また別の欠片には、家族が森を散歩している様子が写っている。他の欠片では教会の司祭が説教をしている。
 それらの情景に目を奪われているうちに、底に着地した。
 周りは一面白い岩だ。しかし、顔を近づけてよく観察すると、ただの白ではなく、微妙に色が異なる縞模様であることに気づく。
 メアリは足元に散っている欠片を手に取った。透明だ。何も映らない。少し指に力を加えると、破片ははらはらと、砕け散ってしまった。もう一度同じ幻を見ることはできないようだ。
(多分、この辺りの地面は欠片一枚一枚が積み重なってできているのね。すごく脆くて、ちょっとした振動で壊れるみたい)
 メアリは、壁に向き直った。
(お母様の考えは分からないけど、きっとこの幻が関係しているわ)
 右手を振り上げる。背一杯の力で、勢いよく壁を叩いた。壁に亀裂が走り、無数の欠片がメアリに向かって飛び、突き刺さる。
──助けて! 誰か!
──まだ子どもが家に!
 カンカン、と遠くで鐘が鳴っている。焦げ臭い空気が鼻を突く。
 そこは、あたり一面炎に包まれていた。
 炎の間を人々が泣き叫びながら走っている。逃げろと叫ぶ男の怒号、子どもの名を呼ぶ母親の金切り声、言葉にならない子どもの悲鳴。数多の痛哭が大気を震わせる。
 長い時間をかけて、少しずつ火の勢いは弱まっていった。完全に火が消えた時、町があったはずの場所は焼け野原になっていた。新しい朝日がとても眩しい。
 避難した村人がポツポツと戻ってくる。地面に膝をつき、途方に暮れる者。誰かの名前を呼んでは涙を流す者。
 どこからかメロディが聞こえてきた。
 生き残った住人のが音楽を口ずさみながら、遺体を埋めている。墓石に名前を掘ると、その前に花を添える。参列者の輪唱が真新しい墓地を厳かに包む。
(この歌、知ってる。鎮魂歌ね。昔、演奏会で私が弾いたわ)
 墓地の光景が薄れていく。
 そして、また別の景色が現れた。
 眩しい海辺の街だった。壁や道は全て白い石でできている……。
 町の通りを、メアリは記憶の主人となって歩いていた。
 重い荷物を持ち、ふうふう息を切らしながら坂道を上っている。
 上りきった先には、小さな広場に出た。そこには子どもが数人いて、ボールを蹴って遊んでいる。
──あ、お兄ちゃん!
 一人がこちらを指差す。すると、子ども達は次々と歓声をあげて青年の周りに群がる。
──お兄ちゃん、今日も絵を描いて!
──今日は俺の顔を描くんだよな!
──花の絵描いて!
 微笑みを浮かべながら、荷物を下ろし、広場に自分の作品を並べる。そして、持ってきた箱に腰かける。
──やあ、皆。いつも来てくれてありがとう。ほら、並んで。
 子ども達は二列に並ぶ。笑顔の子どもの顔を見ながら、羊皮紙にどんどん顔を描いていく。似ているけど似過ぎず、ユーモアたっぷりに。
 似顔絵以外にも、頼まれたものは何でも描く。犬も猫も、花も木も、天使もドラゴンも、全てサラサラと描ける。
 絵を渡すと、子どもは皆飛び跳ねて喜ぶ。その様子を見て、大人達がやってくる。
──私の似顔絵も描いて欲しいのだが。
──大人は銅貨三枚です。
 大抵の大人はこれを聞くなり足早に帰っていく。しかし、中には本当に金を払うものもいる。
──はい、どうぞ。
──良い絵だな。こんな田舎町にいるのはもったいないぞ。
──そう、かもしれませんね。
 夕方になると、絵を片付けて広場を出る。楽な下り坂を歩き、今にも壊れそうなアパートの階段を上る。三階の隅の部屋に入るなり、ベッドに倒れこむ。
──ちくしょう……。
 涙が止まらない。
──俺だって、好きでこんなところにいるわけじゃないんだ。
 壁一面に絵やチラシが貼られている。チラシの多くは、王都で開かれるコンクールの募集だ。日付は全て過去のものである。
──ちくしょう、ちくしょう……。
 絵の才能など無い。ただ単に絵が上手いだけ。
 だがそれでも、描き続けなければならない。他にできることがないからだ。
──どうしてこんなことになったんだ……。
 来る日も来る日も、絵を描く。家でも広場でも。それで得た僅かな金で酒を飲み、博打を打つ。
 冬至の祭りの日。祭囃子への苛立ちを笑顔の下に隠し、ボロボロの羊皮紙に民衆の絵を描いた。
──ああ、皆笑ってる。心の底から、笑ってる。俺は……。
 その日の稼ぎはいつもより少しばかり多かった。いつも通り酒を飲んだが、飲んだ量が多過ぎた。道端で寝てしまい、翌朝には冷たくなっていた。
 しかし、青年が最後に描いた祭りの絵は、何人もの人々の手を経て、偶然王都にたどり着く。
 そこでとんでもない高値がつくことを、青年は知らない。
 足が地面に着く。途端、メアリは激しい疲労感に襲われた。
 肌に突き刺さったはずの欠片は消えていた。血も流れていない。しかし、身体が鉛のように重い。玉のような汗が頬を伝って落ちていく。メアリはバイオリンを横に置き、壁に手をついて、肩で息をする。
(今見たものは……)
 欠片の中の、鮮烈な幻。メアリの魂は誰かと一体化し、その人生を歩む。
「メアリ」
 ふと、懐かしい声で名を呼ばれた。弾かれたようにメアリは顔をあげる。
 暗闇から、人が現れる。
 メアリと同じ色の目。百合の花をあしらったドレス。
 もう一度、たった一度でいいから、会いたいと願った人。
「お母様!」
 メアリは母の胸に飛びこんだ。母はしっかりと娘を抱きしめる。
「久しぶりね」
「うん、うん! ずっとずっと、会いたかった!」
 母の体温は生きていた頃と同じように温かい。
 メアリの目から大粒の涙がこぼれ出す。赤ん坊に戻ったかのように、しゃくりあげる。
「まさかこんなに早く会えるとは思っていなかったわ」
 母はメアリの背をゆっくりとさする。メアリが泣き止むまで、母はずっとそうしていた。
「この白い岩は、記憶の結晶よ」
「きおくの、けっしょう?」
 メアリの声は泣きすぎてガラガラだ。
「時に流された記憶が分厚く積もったものよ。悲しかったこと、楽しかったこと。かつて生きた人間全ての人生がここにあるの」
 メアリは周りの破片を見回した。
「こんなにたくさん、壊しちゃった……」
「気にしなくていいわ。また積もるから。古い記憶も新しい記憶も。繰り返し、繰り返し、ここに集まってくるの。私はね、時々ここで弾いているのよ」
「弾く? 何故?」
「まだ忘れたくないからよ。メアリや皆のことを」
 母はメアリの頭を撫でる。
「楽園では、生きていた頃の記憶が少しずつ少しずつ、曖昧になるの。そしてやがて全てを忘れる。そうして、住人は魂の安穏を得られるのよ。だけど私はまだ、忘れたくないことがたくさんあるわ」
 忘却。ハリーは一度もそんなことを言っていなかった。しかしメアリはむしろ喜びを覚えた。
「私は忘れてしまいたいことばかりよ」
 そう、一人呟く。
 母との死別の時。それから変わってしまった父のこと。王子の死、付きまとった醜聞。とどめと言わんばかりに領地売却の契約書と、結婚を迫られたあの日。
「全て忘れられたら、どんなに楽かしら」
「そうね」
 空から風が吹きこみ、キラキラと光る欠片を運んでくる。メアリは手を伸ばし、ひらひらと舞うそれを受けとめた。一瞬幸せそうな誰かの光景を写し、雪のように溶けて消えていく。
「忘れたくなるくらい、向こうの生活は酷かったの?」
 ためらいがちに、メアリは頷く。
「だからこちら側へ逃げてきた?」
 もう一度頷く。
「そう。確かに、この世界にいれば、貴女は怯え傷つくことなく、永遠に過ごせるでしょう。でもメアリ、貴女はそれで本当に良かったの?」
「良かったのって……」
「この場所に来る選択をしたことを、貴女は後悔していないの?」
「後悔なんか……」
 メアリは答えられない。
 後悔なんかしていない、はずだ。だってやれることはやり尽くした。居場所のない王都から逃げだした。それでも悪の手からは逃れられず、残されたのは光なき未来。そこから逃れるため、死神の手を取った。これで良かったのだ。
(うん、後悔なんかないわ)
 微笑みながらもう一度口を開く。しかし、口から出たのはメアリの意志とは違う言葉だった。
「分からない」
「分からない?」
 勝手に開く口に、内心戸惑うメアリ。
 だが、口は喋るのを止めない。
「今更そんなこと言われても分からないわ。だって、ああするしかなかったもの……」
「貴方にはまだ時間が残っている。諦めないで。貴方の幸福を、貴方が決めるのよ」
 もう一度母はメアリの頭を撫でる。そして、背を向けて歩きだす。
「どこへ行くの?」
「私はいつも見守っているわ、可愛いメアリ」
「待って!」
 メアリは母の背に向かって走りだす。しかし、すぐに岩の壁にぶつかった。左右を見てもどこにもいない。壁に横穴がないかくまなく調べるが、穴どころか隙間すら全くない。
(どうしてまた置いていってしまうの、お母様……)
 疲れきったメアリは、ぺたんと地面に座る。その時、ふとバイオリンが目に入った。それを手に取る。手に取れば、自然と身体が動いてバイオリンを構える。
(先ほどお母様は言っていたわ──ここで弾いているのよって)
 心の赴くままに、メアリはバイオリンを弾き始める。そして、多くの記憶を見る。
 収穫祭を祝う農民。愛しき人を思いながら死んでいく戦士。信仰に迷いを覚えつつ宗教歌を歌う神官。かつて慕われた王の首を刎ねる処刑人。
収穫祭を祝う農民。愛しき人を思いながら死んでいく戦士。信仰に迷いを覚えつつ宗教歌を歌う神官。かつて慕われた王の首を刎ねる処刑人。時の流れに沈んでいった、数多の光景と心の声。泡のように儚くも、荒々しく鮮烈な世界だ。
 幻が終わるたび、メアリは空を見あげる。底から見あげる星空がどんどん小さくなっていく。
 対するこちらは忘却の美しさに包まれた、静寂の世界だ。痛みも悲しみもないが、楽しみも喜びもない。
 そのことに、メアリは一抹の寂しさを覚える。今更そんなことを言ってももう遅い。しかしその時、先ほどの母の言葉を思いだした。
(少しだけ時間が残されている……どういうことかしら。もう一度選ぶことができる、ということは現世に帰ることもできるの?)
 しかし現実的には不可能だろう。川に飛びこんだのだ。身体はとっくにどこかに流されているだろう。余計なことは考えないほうが良い。
「おーい! メアリ!」
 上から一対の赤い光がぐんぐん近づいてくる。
「ハリー!」
「びっくりしたよ。どこにもいないし、裏口のドアは開いているし。足跡を辿ってきてみたら、こんな辺鄙な所にいるし」
 落下速度に反してふわりと着地するハリー。
「何でこんな所にいるんだ? 古ぼけた記憶しかない所だよ」
「お母様に会っていたの。部屋に手紙が届いて、それでいても立ってもいられなくて。勝手に出てきてごめんなさい」
「君のお母さん? こんな所にいたんだ。でも会えて良かったね」
「うん。このバイオリンを貰ったの。ここで弾くと、色んな人の記憶が見れるのよ」
「そうか。それは知らなかったな」
 意外なことに、ハリーはこの場所のことをよく知らないらしい。白い岩をふーんと言いながら見回す。
「それで、ずっと見ていたわけか」
「うん。ちっとも飽きないわ。貴方も見てみる?」
「じゃあちょっとだけ」
 バイオリンを奏でる。二人揃って様々な記憶を巡る。次々と変化する幻は、まるで忙しい舞台のようだ。
 そうやっていくつもの演目を見た後、メアリはある記憶にたどり着いた。
 それは今までとは一転、音や色のない世界だった。


 寒い部屋。積み木を組み立てて遊んでいる。
 しかし、誰かが走ってきて、積み木の城を蹴り崩した。
 組み立てていた僕は当然泣きだす。しかし、近くにいた女は走ってきた方を抱きあげた。
──あらあら、どうしたの? おやつの時間はまだよ。
 ますます泣く。鳴き声にヒュー、ヒューという変な音が混じり始める。胸が苦しくなり、視界がぼやける。
 すると、お母さんが突然彼の手を掴んだ。
──全く、手のかかる子だねぇ。
 お母さんは彼を引きずって部屋から出す。連れていかれた先は寒い屋根裏部屋だ。
──発作がおさまるまでここにいなさい。出歩くんじゃないよ。
 何とか呼吸が元に戻る頃には、ぐったりと疲れきっていた。そのまま、小さなベッドで眠った。
 次の日の朝、物と物の隙間から差し込む光で彼は目を覚ました。まず感じたのは空腹だった。だから部屋を後にし、一階の台所へ行く。
──お母さん、おなかすいた。
 お母さんは無言でパン切れを差し出した。それを噛んで飲みこむ。味はよく分からない。
 ちらりと横を見る。テーブルで積み木を崩したあの子どもが、お父さんと一緒にスープを飲んでいる。
──僕、あれ食べたい。
──贅沢言うんじゃない。あっちいってな。
 言われた通り、廊下へ行く。廊下の突き当たりには窓があって、ここから外がよく見える。道端では子どもが遊んでいる。
 一緒に遊びたい。でも、そんなの絶対に無理だ。また息ができなくなって倒れて、お母さんに怒られるに違いない。怒られるのは嫌だ。怖い。
 窓辺から外を眺めるだけの日々は続く。背は伸びず、どんどん痩せていく。発作の回数も増えていく。
 ある夜のこと。
 どうしても喉が乾き、屋根裏部屋を抜けだした。一階に降りると、ドアの向こうでランプの光が揺れていた。
──どうしたらいいのかな、あの子。病気は悪化する一方だ。
──どうしたらもこうしたらもないよ。すぐに死ぬだろ、あんなの。
 死ぬ。死ぬって、何だろう。彼は首をかしげる。
──だけど食事もかかるし、服もいるよ。
──じゃあもっと売れる本を作ってくれよ。お前の書く絵本は捻くれていて面白くないんだよ。
──俺のせいだっていうのか? お前が大体無駄遣いしなければ……。
──はあ? アンタこそ高い本をバンバン買ってるじゃないか!
 言い合う声はどんどん大きくなる。喉の渇きも忘れ、ベッドに戻る。
 次の日。仕事部屋のドアを開ける。お父さんが椅子に座って、羊皮紙に何かを書いている。
──おや、どうした? まだ仕事中だ。入ってきちゃ駄目だぞ。
──お父さん、『死ぬ』って何?
 お父さんの表情が固まった。
──どこでそんなこと、聞いたんだ?
──昨日、お父さんが言ってた。
 お父さんの表情が変わる。今にも泣きたそうな、怒りだしそうな……。
 やがて、今までにないほど、優しい笑みをお父さんは浮かべた。
──死ぬのはね、つまりその、天国に行くことなんだよ。
──天国?
──そうそう。とても良いところなんだ。暖かいし、美味しいものがたくさん食べられるし、発作も起きないんだ。お嫁さんだって見つかるよ。ほら、これを見て。
 お父さんはそばに置いてあった絵本を広げ、読み聞かせた。
 どこかの国のお姫様と王子様。そして死神。最初はお姫様と王子様が恋人だったが、最後は死神がお姫様と結ばれる。
──ほら、最後、死神とお姫様は天国に昇って幸せそうだろう? お前も幸せになれるよ、きっと。
──しあわせって、なに?
──素敵な人と結ばれることさ!
──ふーん。
 お父さんは何度も何度も絵本を読み直した。死神とお姫様が天国へ行く絵を見て、彼は想像する。
──死んだら、死神になるんだ。それで、お姫様を連れていくんだ。そうすれば『しあわせ』になれるんだ。
 しかし、どうしても分からないことがあった。
──いつになったら死ぬんだろう? お母さんははすぐに死ぬって言ってた。けど今日もこう、死ぬって感じはしない。
 お母さんに尋ねた。
──お母さん、いつになったらぼくは死ぬの?
 台所で皿を拭いていたお母さんは化物を見るような目で彼を見た。
──うるさいね! そのうちだよ、そのうち! あっち行ってな!
──ご、ごめんなさい。
 慌てて台所から逃げだす。その時、床に置いてた箱につまづいて転んでしまう。箱の中のパンが床に転がった。
──何してんだ! 外に出てろ!
 お母さんに引きずられ、裏口から外へ放りだされる。泣いて謝っても、ドアは開かない。
 やがて疲れて、ドアの前に座りこむ。
 目の前には、いつも窓から見ていた石畳の道。たくさんの子どもが遊んでいる。大人は何か売っている。
 いつもの光景だ。でも、その時はなぜかとても眩しく見える。
──一度くらい良いよね。
 ドアの前から立ちあがる。誰にも見つからないよう気をつけながら、通りを歩く。積み木みたいな家が並ぶ通り街中を、どこへともなくフラフラ進む。
 気がつけば、長い塀で挟まれた場所にいた。
 ここはどこだろう。だんだん怖くなってくる。
 目にうっすらと涙の幕が張った時、今まで聞いたことのない、美しい音が、塀の向こうから聞こえてきた。


 辺りに、静寂が訪れた。
 メアリは膝をついた。
 足にも腕にも力が入らない。バイオリンをゆっくり置き、荒い息をする。
 記憶に出てきたあの絵本と全く同じものを、最近メアリは読んだことがある。そして、最後に見た壁も知っている。あれは本邸の外壁だ。
(あの記憶は、ハリーの記憶だわ)
 横目でちらりとハリーを見る。ハリーは宙をぼんやりと見ていた。どう声をかけて良いか分からないでいると、ハリーの方から話しかけてくる。
「最後に見たのは、きっと僕の記憶だね。あの絵本があるんだから」
 いたって冷静なハリー。
「ええ、そうでしょうね」
 メアリは平静を装う。しかし、すぐに耐えきれなくなった。
「ハリー、その、ごめんなさい。その、勝手に貴方の過去を見てしまって」
「別に良いよ。あんなの」
 他人事のようにそう言って、ハリーは微笑む。
「でも人間だった時の記憶よ? ずっと忘れていたのでしょう?」
「うん。でも不思議と、こんなことがあったな、くらいにしか思わないよ」
「そう……」
 メアリは空を見上げる。
「どうしたの? ああ、地上に出たいんだね」
「いいえ、もう少しここから星を見ていたいの」
 もちろん、大嘘である。
(駄目よ、泣くなんて)
 メアリは自分自身にそう言い聞かせるが、どうしても視界が涙でにじむ。
(泣いては駄目。他人の人生を上から目線に哀れむなんて、ハリーに失礼よ)
 だがどうしても、メアリはハリーを可哀想だと思わずにはいられない。病気のために家族に冷遇された上、罪悪感を紛らわせるための幸福論を押しつけられたとは。
 彼は子どもっぽく、幸せにするためという名目でメアリを殺そうとする。人外ゆえの性格と行動かと思っていたが、そうではなかった。あんな環境で生前を過ごしたからだ。生きていた頃の記憶はなくとも、歪んだ魂は変わらない。
 違う、とメアリは否定したい。それは幸せではなく、死をごまかすための方言だと。だがそれもまたエゴだ。ハリーの幸せはハリーのもので、彼の親もメアリも決められない。何より、メアリは生に絶望して死神の手を取ったのだ。
(でも、やっぱりおかしいわよ!)
 弓を持つ手に力がこもる。同時に、ハリーがバイオリンを弾きたいと言っていたことを思いだす。
(せめてこれで、幸せになってくれるなら……)
 もちろんこれもメアリの自己満足、幸福の押し付けになる。
 しかし、やりたいと思ったことをやる、誰もが抱くこの願いを叶える手伝いをするくらいは良いのではないか?
「ハリー」
 ようやくメアリはハリーに向かって笑いかける。
「前にバイオリンを弾きたいと言っていたわね。弾いてみましょうよ」

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