四日目の朝は雨だった。土砂降りで、景色がほとんど見えない。昨日服を洗っておいて正解だった。
食堂にはすでに朝食が準備されていた。紅茶とサラダとスコーンだ。蜂蜜の甘さが程よい。
「美味しかったわ。ありがとう」
彼の眼窩の炎が揺らぐ。
「いいんだよ」
心なしか、骸骨の顔が笑った気がした。
(そういえば、はっきりお礼を言うのは初めてね)
メアリはふと気づいた。
「メアリ、今日で四日目だけど。どう? 僕のこと、分かってきた?」
「う、うーん。まあ少しは。でも、子どもの頃の結婚の約束を本気にしなくても──」
「本気だよ、僕は。いつだって」
メアリは何度目になるか分からないため息をつく。
(もうなんか、駄目な気がしてきたわ)
自分の命がかかっているのに諦めるなんて馬鹿げている。しかし今だ有効な打開策は見つからず、刻々と時間だけが過ぎていく。むしろこの状況が滑稽で、笑いだしたい気分だ。
朝食を食べ終えた後、メアリは浴室で水浴びをし、それから別の服に着替えた。昨日よりも少し寒いので、いつもより厚手の生地のワンピースだ。赤色で、胸の部分に花の刺繍がしてある。
(少し派手かしら。まあいいわ)
パンパンと裾を引っ張りしわを伸ばすと、メアリは音楽室へ行った。適当に楽譜をめくり、目に留まったものを一曲弾く。
引き終わったところで、ハリーがドアをノックして入ってきた。
「どうしたの?」
「お茶を持ってきたんだ」
ハリーはお盆を差しだした。カップからうっすら湯気が立っている。
「昨日言ってた、サンドロップのお茶。再現してみたんだ。どうかな?」
「いただくわ」
小さな椅子に座り、お茶を飲む。鼻がすーっとする匂いがする。ちょっぴり舌がピリピリする。
「この味よ。懐かしい……」
母は食堂や寝室の肘掛椅子に座って、これをよく飲んでいた。母が飲んでいるのに憧れてメアリも飲ませてもらった。当時は苦いだけだったが、今は美味しく感じる。
(あの頃はまだ楽しかった……両親も元気で、使用人もたくさんいたもの)
かつての光景がカップの湯気の向こうに見える気がした。
「美味しかったわ。もう一杯もらえる?」
「いいよ」
ハリーは持ってきたヤカンからお湯を注ぐ。
しかし、角度が悪かった。勢いがつきすぎた湯は小さなカップから勢いよく溢れだし、横に置いていた楽譜にかかってしまった。
「ああ、ごめん!」
慌てて拭くがもう遅い。インクは滲み、もうほとんど読めない。
「別にいいわ。乾かして表面を削ればまた使えるもの」
「でも、それじゃあインクが消えて──」
「全部頭に入ってるわ。書き直せば済むことよ」
さすが、とハリーは驚く。眼窩の炎が大きくなった。
「これさ、確か『楽園』って名前の曲だよね」
「あら、題名を知ってるのね」
「昔君が教えてくれたんだよ」
こめかみに指を当てて記憶の糸を辿る。しかし絵本の時もそうだが、はっきりと思いだせない。
「ハリー、悪いけど、私と初めて会った日のこと、教えてくれない? よく覚えてないの」
「うん、いいよ。よく晴れた秋の日のことだったよ──」
ハリーは熱を帯びた口調で話し始めた。
あの時、僕は町を彷徨い歩いていた。
すると、綺麗なバイオリンの音が聞こえてきたんだ。
耳に入った瞬間、その音は頭から離れなくなった。家の中にずっといた僕にとって、それほど綺麗な音を聞いたのは初めてだったから……耳を限界まで澄ませ、聞こえてくる方へ歩いていった。何度も迷った末に辿り着いたのは、大きなお屋敷の塀だったよ。塀の向こうから、音が聞こえてくるんだ。
どうしても誰がバイオリンを弾いているのか知りたくて、入れる場所がないか探し回った。それで見つけたんだ。壊れた勝手口のドアをね。僕はそこから塀の中に入った。小道を歩いていくと、ようやくバイオリンの弾き手を見つけた。
それが君だよ、メアリ。
青い芝生の庭で、君は白いワンピースを着て、バイオリンを弾いてた。
『誰?』
そう言って、君は僕の元へ駆け寄ってきた。僕は何も言えなかった。見とれてたんだ。君があまりに綺麗だったから。天使なのかなって思ったくらい。
『私はメアリ。ここでバイオリンを弾いてるの。今は『楽園』って曲をやってるんだ。聞いてく?』
君は僕をベンチに案内してくれた。そこで演奏を聞かせてもらったんだ。
月並みな表現だけどさ、演奏を聞いた途端、頭のてっぺんからつま先までジーンと震えた。心臓を鷲掴みにされた気分に……いいや、違うな。心臓が、音楽に合わせて動き出したんだ。
大袈裟だって? そんなことないよ。その時初めて、僕は生きてて良かったって思ったんだ。
演奏が終わった時、僕はすでに恋に落ちていた。渾身の力で拍手したさ。
『お母様にはまだまだって言われるんだけど』
メアリは照れたように笑ってたな。
演奏の後は、二人でいっぱい遊んだよ。かけっこしたり、おままごとしたり。そして、絵本を読んだ。僕が今も持っている、あの絵本だよ。読んだ時のメアリは面白くない、意味が分からないって顔をしてた。でも、ドレスを着た花嫁と死神のシーンは素敵だって言ってくれた。
『ねえ、最後だけ僕らで遊んでみない?』
僕はガチガチに緊張しながら聞いた。
『うん、いいよ』
結婚の誓いの紙を書いて、それを読みあげて。あの瞬間、僕は決心したんだ。人生でこんな幸せなことがあるなんて知らなかった。こんな時間をずっと過ごしたいと思ったんだ。君と一緒にね。
「それで、僕は決心したんだ。いつかメアリを迎えに行こうと。どう? 少しは思いだせた?」
「ありがとう。少し思いだしてきた」
確かに幼い頃、メアリは見知らぬ男の子と遊んだことがある。後で使用人に見つかり、こっぴどく叱られたのだった。
「でも、あの時遊んだのは骸骨じゃなくて、普通の少年だったわよ」
「あれ、言ってなかったっけ? 僕、あの時はまだ人間だったよ」
「え、何ですって?」
メアリは眉を上げた。
「初めて聞いたわよ!」
「ありゃりゃ、そっか。僕は昔、人間だったんだ。死後、勧誘されて死神になったんだよ」
「へ、へえ。そうなの」
どう反応していいか分からず、メアリは曖昧な笑みを浮かべる。
「死神になるとね、いろんな魔法が使えるんだよ。変身はこの前見たよね? それじゃあ……ほら。これをよく見て」
ハリーはテーブルに先ほどのカップを置いた。飾り気のない木製のカップだ。
「見た?」
「ええ」
ハリーは骨の手をカップの上にかざす。数秒そうした後、再びメアリにカップを渡した。
「さっきと変わったところはどこでしょう?」
カップを受け取り、しげしげと見つめる。側面や中に変化はない。メアリはカップをひっくり返した。底面には鮮やかな赤いバラの模様が描かれている。
「こんな花、あったかしら」
「正解!」
カタカタとハリーが笑う。瞬間、バラは風に吹かれた霧のようにさっと消えた。
「どう? すごいでしょ!」
メアリは目を細めた。
「ええ、面白いわ。その力で間違い探しが出来るわね」
「もう一回やる?」
「やりましょうよ」
「よーし。じゃあ今度は部屋全体に魔法をかけるよ。目をつぶって」
言われた通り目を瞑る。窓は開いていないはずなのに、冷たい風が髪を揺らした。
「はい、もういいよ。間違いは三つ」
目を開き、部屋をゆっくりと見回す。文字通り目を燃えあがらせている死神を除けば、部屋には何も変わりがないように見える。メアリは注意深く歩き回り、戸棚や窓辺、カーペットをチェックする。
「あったわ。この段の引き出しの取っ手よ。他の段と形が違うわ」
ハリーは満足げに頷き、取っ手が元の形に戻る。
二つ目、三つ目の間違いはすぐに見つけた。窓枠の木目が消えていたり、ピアノの鍵盤が増えたりしていた。
「案外すぐに見つかっちゃったな。次は館全体でやる?」
「そうね。その力、間違いを作ること以外もできるの? 全く違う場所にすることは? お城の大広間とか」
「本当に変えるのは無理だけど、そういう風に見せるのはできるよ」
ハリーは指を鳴らした。強い風が吹いたかと思うと、メアリはいくつものシャンデリアが輝くきらびやかな広間に立っていた。メアリはテーブルのワイングラスを手に取った。確かな重みを感じる。
「よく出来てるだろ? でも幻なんだ」
またハリーが指を鳴らす。白い砂浜が足元に広がり、青い波が押し寄せては引いていく。日の光が眩しい。遠くに霞んだ水平線が見える。
「これはもしかして、海?」
「そうだよ。船乗りの魂を迎えに行った時に見た」
メアリは今まで海を見たことがなかった。砂浜は熱く、歩くたびに独特のキュッキュッという音がなる。押し寄せる波に足を晒すと、砂があっという間に流され、陽光が足をキラキラと照らす。海水は館の水よりも生温い。
「他には何か見たい景色はある?」
メアリは頷いた。ハリーが初めて指を鳴らした時から、メアリはずっとあることを考えていた。それが心から離れない。
(幻でもいい。お母様が生きていらした、あの幸せだったあの時を見られたら……)
だがメアリは唇を噛んで堪える。そんなものを見たら、ますます惨めになるからだ。
ハリーの顔を伺う。メアリが何かを頼むのを嬉々として待っているようだ。
「うーんとね、貴方が人間だった頃に住んでいた家が見たいわ」
咄嗟に思いついたことを口にする。言ってみてから、これは中々いい考えでは、とメアリは心の中で微笑んだ。彼のことをよく知るチャンスだ。
「え? 僕が人間だった頃の?」
期待に満ちた表情が一転、浮かない顔になるハリー。
「駄目かしら?」
「駄目じゃないけど、ほとんど覚えていないんだ。うまく出来るかどうか……まあ、やってみるよ」
ハリーは指を鳴らした。
靄が漂う、小さな部屋が現れる。
汚れた床。シミがついた壁。朽ちかけたテーブルと椅子。食器があるところを見ると、食事をしていたのだろうか。しかし皿の中は空っぽだ。
「何を食べていたの?」
そう尋ねると、消し炭の塊が皿に出現した。
「覚えてないから変なものが出てしまったよ」
苦笑いを浮かべるハリー。消し炭はすぐに消滅した。
靄の向こう側に隠れるようにして、粗末なドアがある。メアリはそこから廊下に出た。小さな窓から光が差しこみ、灰色の床をぼんやりと照らしている。
メアリは窓に近づいた。部屋の中が霧で見えないのに対し、外はよく見える。ごちゃごちゃと店が立ち並び、物売りが大声を上げている。
「ここは王都? どのあたりかしら」
「さあ……下町のどこかのはずだよ。少なくとも貴族は絶対に住んでないね」
メアリは眉をひそめる。
(家の中で唯一はっきりしているのが家の外の景色? どういうことなの? 町が好きって?)
瞬間、メアリの頭に天啓が降りる。
(そうよ。町へ連れて行ったら、もしかして)
この世の町並みを好きになってくれたら、あの世行きをもう少し先延ばしにしてくれるかもしれない。最後の可能性だ。
窓枠を握る手に力がこもる。その時、幻が消え、元の音楽室に戻った。
「ごめん、少し疲れちゃった」
ハリーの息が荒い。眼窩の炎も小さくなっている。
「構わないわ。ところで、明日町へ行かない?」
「え?」
焦りのあまり切り出し方が唐突すぎた。しかしメアリは喋り続ける。
「ノックベリーとかどう? この地方で一番大きな町よ。ハリーもきっと気にいるわ」
「え、えっと」
炎がパチパチと瞬く。
「ノックベリーは危ない町だよ。本当に行くのかい?」
メアリはフッと笑った。後三日で殺されること以上の危険があるだろうか。
「ええ、行くわ。ずっと森の中にいるのも退屈だもの」
「僕は全然退屈じゃないよ。行く必要ないよ」
渋い顔をするハリー。思っていたよりも反応が悪い。しかしメアリは引くつもりなどない。この可能性に賭けるしかないのだ。
「ノックベリーには楽譜屋もあるわよ。『楽園』も絶対売っているに違いないわ」
「そ、それは書き直せば済むんでしょう?」
「書き直すより買い直すほうが楽に決まってるわよ。ごちゃごちゃ言ってないで行きましょうよ!」
「……分かった」
ハリーはようやく首を縦に振った。
「行こうか。そこまで言うなら」
「ありがとう!」
満面の笑みでお礼を言う。
「馬車の手配をしなくちゃね」
「いらないよ。僕が連れていく」
「魔法の馬車でも出すの?」
「それはできないけど、まあ明日の楽しみにしておいてよ。夕食、今から作るね」
そう言うと、ハリーは部屋を出ていった。いつの間にか、窓の外では日が落ちかけている。
(町に出るのは久々ね。明日、何をしようかしら)
メアリの口元が緩む。早くも当初の目的を忘れかけていることに、彼女は気づいていない。