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 七夕。

 年に一度、織姫と彦星が天の川を渡って再会する日である。

 この日、人々は天の恋人達に思いを馳せ、笹に短冊を飾り、願い事をする。数多ある行事の中で、もっともロマンチックなものの一つである。

 

 

「うぃーっす」

 天の川。

 かささぎの橋の真ん中で、彦星は織姫に向かって片手を上げた。白い衣の下で、首から下げたチェーンがジャラリと音を立てる。

 織姫はタバコの煙をふーっと吐き出す。

「ん、どーも」

 吐き出した紫煙は彼女の肩にかけた羽衣にまとわりつき、やがて、ゆるゆると昇っていく。

 今日は七月七日。二人がこうして天の川で会うようになってから、何千回目かの七夕だ。

 一年に一度しか会えないとはいえ、それが何千年にもなると、昔の初々しい熱意もすっかり冷める。

「今年もこの日がやってきましたよー。七夕のイメージを守る日が」

と、織姫。

「苔の生えまくったイメージを守る日が」

と、彦星。

「苔が生えすぎて森と化したイメージを守る日が」

「森? 何を言ってるんだ?」

「んー、私もよく分かんない。どうでもいいや。とにかくこれを見てよ」

 織姫は懐からスマホを取り出す。そこにはマッチングアプリで知り合った今カレとのメッセージ画面が写っている。名前は『姫野オリ』。人間に変身する時の名前だ。

 二人の愛は破綻したが、お互いがなくてはならない存在であることに変わりはない。何故ならば、各々こっそり下界に降りて、人間に化けて恋人を作っている、という大きな大きな秘密を共有しているからだ。夫婦の契りを破ったという罪、下等な人類と恋仲になった罪。バレたらタダでは済まない。

「あれ、そいつ、去年と違う奴?」

「去年のあいつとは別れた。今はこの人間だよ。この前、居酒屋行ったんだ。焼き鳥がうまかった」

 織姫は写真をタップし、拡大した。人間の男が、ビールのジョッキ片手に笑っている。後ろのテーブルには、大量の焼き鳥が置いてある。

 織姫の足元にいるかささぎ達は、恐怖を必死に押し殺す。彼らは天の鳥なので、当然人の言葉も分かる。だから二人が罪を犯していることも知っているが、もし口外したら二人に何をされるか分からない。かささぎはかささぎらしく、嘴を開かずに足場になるしかない。

「ヒコはどう? アイツとはうまくやってる?」

 彦星は首を振った。

「別れたよ。もうしばらく女はいいや」

「またまた、そんなこと言って」

「いや、本当にもういいんだ」

 彦星は遠くへ目を向ける。輝く天の川と、頭上に広がる宇宙。何千年、何万年も変わらない光景だ。

「あーあ。なんだってこんな目に遭わなきゃならないんだよ」

「それな」

 今度は織姫が頷いた、その時。

 天の川の水面に、プカプカと何かが浮いている。目を凝らして、よくよく見る──あれは人間だ。

「かささぎ、今すぐあの人間を助けなさい!」

 織姫が命令する。橋の中から、数羽のかささぎが飛んでいき、漂流者の服を嘴でつまんで持ち上げ、橋まで運んでくる。

 漂流者は女性だった。髪型は一つ結びで、服装はスーツ。気を失っており、顔色は悪い。織姫はびしょ濡れのジャケットを脱がして、自分の着物を彼女にかけた。

「三途の川から流されてきたのか? ねえ、どうする?」

 そう言って彦星の方を見て、織姫は絶句した。

 彦星は目をかっと見開き、口をポカンと開けて、彼女を凝視している。

 この顔を織姫はよく知っている。これは、

「運命の人だ」

 一目惚れの顔だ。

「しばらく女はいいんじゃなかったの?」

「この人は特別だ」

「本当にもういいんじゃなかったの?」

 彦星は織姫を無視した。バッと彼女の横に跪き、肩を叩いて呼びかける。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 織姫を含む数多の女性を虜にしてきた渾身のイケメンボイスで話しかける。すると女性はモゾモゾと身体を動かした。

「う、うーん……あれ、ここは?」

 女性は頭を押さえながら起き上がる。

「ここは天の川。貴女はどういうわけか、ここに流されてきたんですよ。どうしてこんな所に?」

「私、今まで何を──」

 すると、女性の顔色がみるみるうちに悪くなる。表情が強張り、目の光が澱む。

「何か辛いことがあったんですね。ほら、これを」

 彦星は腰に刺している巾着から、小さな櫛を取り出した。天の川のほとりで取れた鉱石を加工したものだ。黒字に金色の星の模様が描かれていて、光にかざすと微妙に色合いが変わる。

「君に似合うと思いますよ」

 彼女の頭にそっと挿し、彦星は微笑みを浮かべた。女性は俯く。耳が真っ赤になっている。

「こ、こんなの貰えません……私なんかには似合いませんよ」

「いいんです。気にしないで。どうぞ貰ってください。この出会いの記念です」

 横では、織姫が白けた顔で立っている。彦星の微笑みは、どんな悩みや苦しみ、憎しみも一瞬で晴らす、最強の笑顔だ。この笑顔で一体何人の男女が絆されただろうか? 織姫もそのうちの一人である。最も、彼女の場合は何千年も見続けて流石に飽きてしまったが。

 あくびをする織姫に構わず、彦星は目の前の女性に話しかける。

「大丈夫ですか? 少しは落ち着きました?」

「はい。ありがとうございます」

 女性の頬は朱色に染まっている。

「さて。改めまして、私はヒコといいます」

「わ、私は日菜子です……」

「日菜子さん。おお、私と名前が似てますね。これも何かの縁。どうぞよろしく」

 彦星は日菜子とたわいもない話をする。天界と下界の違い、天界の美味しいものや下界の美味しいもの。景色、遊ぶ場所。日菜子も穏やかな表情で話を聞いている。

 やがて、日菜子はポツポツと今までの事を話し始める。就職したばかりの会社で上手くいっていない事、営業の外回りに出ていた事、その道中で大きな光と音に襲われ、それっきり何も分からなくなった事。

「私、死んでしまったんでしょうか?」

「ここに来たということは、残念ながら、そうでしょうね」

「ああ、最期まで上司に迷惑をかけっぱなしでした。きっと怒ってるに違いないです」

 日菜子は自嘲する。

「貴女の上司はそんなに恐ろしく、人の心が無い人間なのですか?」

「いえ! とても良い人です。私もああいう人になりたいです」

「そんな良い人が、はたして死んだ部下に対して怒るような、冷酷無慈悲な人なのでしょうか。貴女の尊敬する人は、そのような極悪非道な人間なのですか?」

「それは……でも……」

 言葉を詰まらせる日菜子。

「まあ、もう死んでしまったんですし、難しいことを考えるのはよしましょう気楽に行きましょう、気楽に。かささぎ、魚を獲って」

 気楽に考えすぎた結果、七夕というゴミ行事が生まれたんだろうが。織姫は心の中で毒づく。

 そんな彼女の冷たい視線には全く気付かず、彦星はかささぎが運んできた川魚を持って、天の川のほとりへ向かった。石の上に乗せ、懐から取り出した小刀で手際よく捌く。銀色の血が滴り落ちる。

「ねえ、あの子を本当に恋人にする気?」

 織姫は彦星の耳に顔を近づけ、囁いた。

「うん。日菜子は私の運命の人だ」

「何人目の運命の人だっけ?」

「日菜子こそ、最後の運命の人だ」

「バレたらどうするつもり? また天帝をブチ切れさせるの?」

「大丈夫だ。天界のほとんどの奴らは、人間と恋仲になるなんて概念が無い。俺と日菜子がどれだけイチャついていても、ペットと遊んでるとしか思われないだろう。つまり周りの目を欺きつつ、堂々と振る舞えるわけだ!」

 彦星は自身たっぷりにそう答える。

「いやいやいや、そんなに上手くいかないって。やめときなよ。せめて下界に行け」

「いいや。今度こそ俺は、念願の家デートをやるんだ!」

 彦星はその辺に落ちていた大きな笹の葉に川魚の刺身を乗せ、日菜子の元へ戻る。ちなみに笹の葉は天界の笹なので、汚れは全く気にしなくていい。

「さあ、どうぞ」

 世にも美しい銀色の魚の刺身を見た日菜子は、目を輝かせる。

「す、凄い……」

「どうぞ、召し上がれ」

 しかし、日菜子はブンブンと首を横に振る。

「そ、そんな。私なんかが食べられません、こんな凄いの」

「え?」

 彦星は目をぱちくりさせる。

「だってこんな素敵な櫛も貰ったのに、更に食べ物まで……きっとバチが当たります」

 日菜子は何度も自分を卑下する言葉を繰り返す。よっぽど自分に自信が無いらしい。

 黙っていられず、織姫は口を開く。

「アンタ、あのねえ」

「織姫さんと彦星さんに会えただけで、私は十分です」

 織姫の言葉が途切れる。

「……今なんて?」

「私なんかが──」

「その後!」

「織姫さんと彦星さんに会えただけで──」

「どうして私達の名前を知ってるの?」

 日菜子はキョトンとする。

「え? 服装からしてそうなのかなあ、と。それにここは天の川で、橋はかささぎの橋だし、それに私が死んだのは、確か七月七日でした」

 彦星と織姫は、無の表情で聞いている。

「七夕伝説って本当だったんですね。彦星さんは格好良くて優しいし、織姫さんはとても美しいです。とてもお似合いの夫婦です」

 キラキラした視線が、二人に突き刺さる。

 彦星は無言で日菜子に近づいた。彼女の身体を持ち上げる。何かを言わせる隙も暇も与えず、思いきり、天の川へ投げた。

 ぼちゃん! 天の川へ落ちた日菜子の魂は、その勢いを落とさずに沈んでいき、川底をぶち破って、天界から下界へ、流れ星のごとく落ちていく。落ちる先は、とある病院の霊安室だ。

 二人は、かささぎの橋から、彼女の魂の行く末を無表情で見つめていた。

「マジかよ」

 女性をぶん投げたことに対する非難とも、彼の剛腕に対する賞賛とも、死者を生き返らせる大罪を犯したことに対する驚愕とも取れる、何とも言えない呟きが、織姫の口から漏れる。

「さよなら。俺の運命の人」

 彦星の目から一筋の涙がこぼれる。

「しばらくあの子には、こっち側に来てもらっちゃ困るね。今日の事を吹聴されると非常にマズい」

「そうだね。長生きしてもらわなくちゃ」

 彦星はため息をつく。

「ああ……滅びよ七夕」

「マジそれな」

 織姫はタバコに火をつけた。

 

 

 その後、現世で奇跡的に息を吹き返した日菜子は、バリバリ出世街道を邁進し、世界を股にかける衣料品メーカーの社長になるのだが、それはまた別のお話。

 

(完)

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