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  深夜一時。某繁華街。

 すでに日付が変わっているにも関わらず、人は多い。

 居酒屋や風俗店の看板がライトアップされ、広告の音声を大音響で流している。赤ら顔の人々が、陽気に笑いながら通りを歩いている。

 煌びやかで騒がしく、平和な繁華街の通り。そこから一本横に入った路地裏に、人間がいた。

 黒いシャツに黒いズボン、黒い靴と全身黒尽くめの格好だ。腰まで伸びた髪をゆるく三つ編みにし、背中に垂らしている。手や顔には、いくつもの太い傷跡がある。

 耳にはイヤホンが装着されている。そのイヤホンから、ノイズと共に声が流れる。

「こちら本部。庭取(にわとり)、聞こえるか」

 黒尽くめの人間──庭取はイヤホンに手を当てて、返答する。

「はい。こちら庭取、ポイントAで待機中です」

「間もなく、支援部隊の準備が完了する。ビルの中に侵入し、ターゲットを確保せよ」

「了解です」

「周辺の環境や人物に必要以上の損害を与えた場合、また我々の指示を無視した場合、終了処分を実行する」

「了解です。大丈夫です」

 短いノイズと共に、通信が切れる。

 庭取は、自分の首にかっちりと嵌められた、黒い首輪に手を当てた。自然とため息が出る。

(こいつのせいで、全然力が使えねぇ。生きて帰れるだろうか……)

 路地裏から一歩出ると広がる、大通りの光景。ピカピカと眩しいライトに、能天気な人々の声。壁に貼られたポスターには、『創力犯罪に注意 怪しい人物を見かけたら、セフィラにご連絡を!』と書かれている。

 庭取は死んだ魚の目で、それらを眺める。

(もしコレを外せたら、何もかも全部、ぶっ壊してやる。まずは偉そうに命令して来るアイツら、次に脳天気なこの町を……)

 楽しい空想をしていると、耳元でノイズが走る。再び通信が入った。

「こちら本部。準備が完了した。庭取、突入しろ。ターゲットを捕縛せよ」

「了解」

 庭取は深呼吸し、頭から空想を追い払った。

 そして、創力を全身の筋肉に巡らせ、地を蹴る。

 弧を描くかのように、庭取の身体が車道の上を飛ぶ。長髪が宙をふわりと舞う。

 反対側の歩道に着地する。ちょうど、ビルの正面玄関の前だ。

 もう一度地を蹴る。今度は真っ直ぐ上へ──ビルの屋上まで飛んだ。

 何も無い屋上。その中央に、男が一人、立っている。

「こんばんは。お待ちしておりましたよ」

 服装は黒いスーツに黒い靴。顔には白い仮面をつけている。闇の中で、仮面がぼうっと浮いて見える。

「投降しろ、枯骨(ここつ)。お前はここで終わりだ」

 庭取は全身に創力をまとい、ゆっくりと一歩ずつ近づく。

「おお、怖い怖い。ひとまず落ち着きましょう」

 男──枯骨は余裕たっぷりにそう言う。

「もう逃げ場はない。大人しくしろ」

「はあ、もう。せっかちですねえ」

 空気の流れが変わった。

 ほぼ無風だった屋上に、突如、暴風が吹き荒れる。空気を圧縮した刃が、庭取の方へ飛んでくる。庭取は、創力の盾で刃を防ぐが、いくつかが貫通し、服と皮膚を切り裂く。

「私は、常々、心を痛めているのです」

 痛みに顔を歪める庭取に、枯骨は優しい声で話しかける。

「あなた方の境遇にね。制御装置を首に嵌められて、無理矢理働かされて。少しでも意に沿わないことをしたら、殺されてしまう。可哀想に」

「黙れ」

「自由になりたいと思いませんか? この世界から」

 枯骨は一歩、横に動いた。

 空いた場所に、何かある。

(箱? いや、鏡?)

 どこにでもありそうな、普通の姿見だ。しかし何故だろうか、悪寒がする。

(ものすごく嫌な予感がする。壊さないと)

 創力を練って弾丸を作り、鏡へ向かって飛ばす。だが、枯骨の創力の壁が、それを阻んだ。

「ふふ、素敵でしょう? これは特別な鏡なんです」

 枯骨は手袋をはめた手で、鏡の縁を撫でた。

 その瞬間、鏡面が発光した。雷のような強烈な光線が、庭取へ向かって放たれる。庭取は咄嗟に顔を覆うが、遅かった。網膜が焼け、目の前が真っ白になったかと思うと、急に暗くなる。身体から力が抜けていく。

 意識が暗闇に沈む中、最後に、枯骨の笑い声が聞こえた気がした。

 

 

「はい、カット!」

 庭取はハッと目を覚ました。

 夜の屋上。そよ風がふいている。周囲に、数台の大型ライトとカメラ、マイクがある。

「よし、次のシーンへ行こう。さあ、片付けて」

 ポロシャツ姿の男が、パンパンと手を叩く。カメラやマイクを持った人達が動きまわる。

「いつまでボーッと立ってるんだ。邪魔だ。お前の出番はまた後だ」

 そう言う男の後ろを、二人の男女がついていく。顔に見覚えがある。組織の同僚と上司だ。手に冊子を持ち、何か話している。

「ほら、庭取。あっちへ行け」

「は、はあ……」

 庭取は戸惑いながら、言われるがまま、屋上の入り口へ向かった。パイプ椅子が並んでいて、そこに冊子が置いてある。冊子の表紙には、

『異能取締機関セフィラの事件簿・鏡事変 台本 役者・庭取』

 と、書かれている。

 庭取は振り返った。同僚と上官──の顔をした人間が、何か喋っている。その様子を、カメラが撮影している。

(撮影、か? ドラマか何かの……何がどうなっている? 今まで、枯骨と戦っていたはずだ)

 台本の表紙をめくる。そこに書かれている物語は、全て庭取が、今まで経験してきたものだ。

(これは夢か? すごくリアルな夢? 何がどうなっているんだ?)

 庭取はフラフラとその場にしゃがみ込んだ。

「ねえ、庭取。大丈夫?」

 近くの女が話しかけてくる。その顔にも見覚えがある。食堂の調理員だ。

(枯骨の野郎、俺に何をしたんだ? 幻を見せてるのか?)

 背後で、「カット!」という声が聞こえた。

「おい、庭取。休憩できたか? 次のシーンの撮影を──どうした?」

 男が近づいてくる。

「……ああ、その。気分が悪くて。その、トイレに」

 その場を離れる口実を、どうにか捻り出す。

「何? はやく行ってこい」

 言われるや否や、庭取は屋上のドアを開け、階段を駆け降りた。目についたトイレマークのドアを開け、中に入る。

「どうです? この世界は」

 鏡から声がした。

 そこには庭取ではなく、白い仮面の男が映っている。

「どういうことだ、枯骨。一体これは何だ?」

「そこは、我々の世界とよく似た異世界です」

「は? 異世界?」

「ええ。しかも、セフィラが存在しない世界です。素晴らしいでしょう?」

 意味が分からない。異世界? アニメや漫画でしか聞かない言葉だ。

「そんな嘘、信じられるか。はやくこの幻を解け」

「幻ではありませんよ。SFを現実にできる道具を手に入れたのです。あの鏡ですよ。特殊なルートで手に入れました。苦労しましたよ、本当に」

「ホラ吹きも大概にしろ!」

「信じられないのも無理はありません。ですが、すぐ分かるでしょう。それでは、第二の人生をお楽しみください」

 男の顔が揺らぎ、消えた。庭取の顔が映る。

 右目にかかる前髪、左の目尻のほくろ。確かに自分だが、頬や額の傷が無い。綺麗な顔だ。

 自分の両手を見る。傷ひとつない、すべすべした手だ。

(これは幻だ。きっとそうに違いない。どこかに枯骨が隠れているはずだ。奴を倒さなければ)

 創力の気配を探るが、何も感じない。全然何も。枯骨の気配はもちろん、一般人の微弱な創力すらも、一切感じられない。

(……もし、本当に違う世界に来たんだとして……一体、これからどうすればいいんだ……とりあえず、目立たないようにするか)

 屋上に戻ると、知り合いと同じ顔の女に話しかけられた。

「大丈夫?」

 他の撮影スタッフも、知っている顔が多い。上から目線で仕事を押し付けて来る役人達と同じ顔の人達が、テレビクルーの服を着て立っている。

「はい、何とか」

「そう。じゃあ早速撮影しよう」

 庭取は固まった。

(撮影? はあ? 何?)

 全員の視線が庭取に突き刺さる。よく知ってるけど知らない顔が、こちらを向いている。

 庭取は、ひっそりと創力を放出した。カメラとライトを破壊する。

「あ、監督! カメラのレンズが割れました!」

「ライトもです!」

 スタッフ達が右往左往する様子を見て、庭取は胸を撫で下ろす。

「よし、予備の機材を出せ。続きを撮影するぞ!」

 監督の一声で、周りが動き出す。

 庭取は屋上の空気に干渉し、強風を発生させる。

「風が強いな。よし、屋上の撮影は中止だ。階下へ降りて、室内の撮影をするぞ!」

 テキパキと片付けを終え、一斉に移動するスタッフ達。その後ろを、出演者らが歩いていく。

 通路で、庭取は給湯室を発見した。そこに、創力で火を放つ。創力の火は瞬く間に広がり、火災報知器が鳴り始めた。当然撮影どころではなくなる。全員、我先にと外へ出る。

「何で火が出たんだ?」

「分からん。とりあえず全員外に出れたし、よしとするか……」

「次の撮影、どうするんです?」

 消防車が火を消す様子を眺めながら、撮影スタッフらが話し合う。その結果、庭取達のドラマの撮影は後日決める、ということになった。

 庭取は、混雑する火事現場から、そっと抜け出した。

 夜の繁華街をあてどなく歩き、チェーン店のカフェに入る。奥まった席に座ると、ポケットからスマートフォンと財布を取り出した。

 財布には、数千円の現金と、保険証、電車のICカード、数枚のポイントカード。保険証には、もう久しく呼ばれてない本名が書いてある。

(ここでは、本名を使っても大丈夫なのか……そうか……)

 次に、スマートフォンを手に取る。嘘か幻かも分からない、この世界の情報を調べる。

 文明のレベルや社会の構造は概ね同じだ。存在する国も、その領土も、言語も、庭取がよく知っているものだ。

 しかし、創力は存在しない。

 色々な言葉を入れて検索したが、創力に関する話は出てこない。フィクション作品の名前ばかり出てくる。

(まさか、この世界には創力が無いのか? 創力無しで、ここまでの文明を築いたのか? すげえな)

 セフィラについても調べてみる。創力を用いた犯罪を取り締まる国家機関、セフィラは存在しない。代わりにあるのはフィクション作品だ。その名も、ドラマ『異能取締機関セフィラの事件簿』シリーズ。

(善良な『異能者』側のセフィラが、悪の『異能者』集団と戦う感じの話か。あっちのセフィラと全然違うな)

 ドラマのホームページを眺める。創力が異能と呼ばれていて、セフィラが公明正大な組織で、構成員が正義に燃えていて、人手不足ではなく、死んだ人間が生きていること以外は、大体同じだ。キャスト一覧には、見知った名前と顔が並ぶ。

 そこに、庭取の顔写真もある。キャラクター名も庭取。役者の名前も庭取。説明文には、主人公の同僚役であり、芸名とキャラクター名が偶然一致していることからキャスティングされた、と書かれている。

(この『イケてるでしょ?』って感じの顔写真が嫌だな。自分の顔だから余計に頭にくる)

 続いて、役者としての庭取の情報を調べる。

 十九歳。性別不詳。中性的な容姿が売りで、若者の間で人気が出つつあるらしい。今回初めてドラマに出演する。

(今、コイツは向こうの世界の身体にいるのか? 大丈夫だろうか)

 向こうで何とか生きていることを願いつつ、撮影現場から持ってきた台本を開く。先ほど台本を読んだ時は驚かされたが、よく読むと違う点も多い。特に登場人物の性格が違う。この『庭取』は正義に燃えた良い子ちゃんだ。上官は部下思いだし、同僚達は心が死んでいない。

(何だろう。こう……読んでると変な気分になってくるな)

 枯骨もいる。彼はドラマの中でも悪党だ。密輸にテロ、詐欺や違法薬物の売買と、やりたい放題である。仮面をつけている所も、慇懃無礼な喋り方も同じだ。

『これがあの遺跡から発掘された鏡ですか』

 庭取はページをめくる手を止めた。

 枯骨が、応接室で商人と話しているシーンだ。

『あらゆる空間を繋ぐ、という伝説の鏡。本当にそのような力があるのですか?』

 商人は無言で頷く。すると、鏡が妖しく光った。枯骨は鏡を覗き込む。

『おお……確かに、見える、見える! 伝説は誠であったか! 素晴らしい!』

 枯骨は手を叩いて喜ぶ。その間に、商人はフッと消している。

 その後、彼はこの鏡を使って新たな犯罪に手を染める。セフィラは追い詰められ、『庭取』をはじめとした多くの構成員が、異世界に飛ばされてしまう。

 パタン、と台本を閉じる。すっかり冷めたコーヒーを啜り、天井を見上げる。

(あー……つまり、どういうことだ?)

 今まであったことや、手に入れた情報を、一つずつ整理していく。

(謎の鏡の力で、住んでた世界から、『住んでた世界がドラマとして作られている世界』へ転移してしまった、ということか?)

 全部枯骨が作り出した幻で、本当はあの屋上で眠りこけている、という可能性もあるが、幻だったところで庭取にはどうしようもない。考えてもあまり意味はなさそうだ。

(とりあえず、これからどうしよう。保険証の住所に行ってみるか?)

 その時、スマートフォンが鳴った。

『庭取さん、火事があったとニュースになっていますが、無事ですか?』

 M.Kという人物からのショートメッセージだ。無事だ、と返事すると、すぐに次のメッセージが送られてくる。

『大変でしたね。晩ごはんの準備はできてますから、家の近くまで来たら、また連絡ください』

 庭取は、目を見開いた。

 この世界の自分には、晩ごはんを用意してくれるほど、仲の良い人間がいるらしい。

 体調が良くないからと適当な理由をつけて、迎えに来てほしいとメッセージを送る。すぐにOKのスタンプが送られてきた。

(一体誰なんだ? 元の世界じゃ寮暮らしだったし、全く想像がつかんぞ)

 そわそわしながら待つこと数十分。

「庭取さん、お待たせしました。火事にあうなんて、災難でしたね」

 席にやってきたその女を見た瞬間、庭取は一瞬、息をするのを忘れた。

「……百香(ももか)、なのか?」

「え? はい、私ですよ」

 表情、声、仕草、全てが溌剌としていて、とても眩しい。

(生きているのか、この世界では)

 驚きのあまり言葉を失う。何と声をかけて良いかすら、分からない。

「体調はいかがですか? 火事があったんですから、有毒なガスを吸ってしまったかもしれません。今から一緒に病院に行きますか?」

「いや、大丈夫! その、ちょっとホッとしただけだ。早く帰ろう」

「でも、検査を受けた方が」

「いいからいいから!」

 彼女の背中を押しながら、カフェを出る。

「えーと、駅はどっちだ?」

「こっちですよ。忘れちゃったんですか?」

「あ、ああ、そっちだったな。うっかりしてた。さあ、行こう!」

「やっぱり病院に──」

「大丈夫! とっても元気だよ!」

 庭取はそれとなく、百香を先に歩かせた。無事、駅のホームから電車に乗ることに成功する。

 二人並んで席に座る。電車が動き出した。

 スマートフォンを触る彼女の横顔を、庭取はそっと眺める。

 黒森百香(くろもりももか)。セフィラの構成員だった。

 大体死んだ顔をしている構成員が多い中、彼女は違った。夢を抱き、前を向いて生きていた。

 普通の女の子になりたいと常々言っていた。血生臭い仕事の中でも、常に普通の女の子らしい振る舞いをしていた。『いつか自由になった時の予行演習』とか言っていた。

「な、なあ。今、何歳だったっけ?」

「へえ? 何ですか、いきなり」

「いや、急にちょっと気になって」

「二十一ですよ。次の誕生日で二十二になります」

 元いた世界では、百香は十八の時、作戦中に死亡した。

(これが三年後の百香か……)

 言われてみれば、記憶の中よりも少し大人びている。

「今日の晩ご飯はナポリタンですよ。昨日のリクエスト通り、ソーセージを多めに入れておきました」

「ああ、ありがとう」

 庭取は微笑んだ。百香も笑う。とても可愛い笑顔だ。

(この世界では、百香とどういう関係なんだろう。夕飯を用意してくれたり、迎えにきてくれたり、親密な仲なんだよな? でも、恋人だったら敬語は使わないだろうし、一体何なんだ?)

 電車が止まる。百香が立ち上がった。ここで降りるらしい。

 駅を出て、暗い夜道を歩くこと約十分。

 住宅街にある、古い木造アパートにやってきた。百香は一階の端にある部屋のドアを開けた。

 目の前には、小さな台所。その向こうに、四畳ほどのスペースがある。折りたたみ式のテーブルと、小さなキャビネット、それと布団が畳まれている。古い部屋だが、掃除は行き届いている。

 百香は冷蔵庫からラップされた皿を出すと、電子レンジで温めた。ケチャップの香りが部屋中に漂う。

「ささ、食べちゃってください」

 百香は、テーブルに山盛りのナポリタンの皿を置いた。ソーセージがたっぷり入っている。早速、庭取は一口食べた。

「ん、美味しい。美味しいよ、ありがとう」

 料理など、久々だ。それが百香が作ったものとなると、尚更美味しい。

 あっという間に、庭取は食べ終えた。おかわりもした。

「そんなに喜んでもらえると、こちらとしても作った甲斐がありますよ」

「本当に、何かお礼をしないといけないな」

「いりませんよ。ただ、私がやりたくてやっているんですから。庭取さんのお手伝いをすること自体が、楽しいし嬉しいんです」

「楽しいし嬉しい……何で?」

「ファンだからに決まってますよ! 庭取さんのファン第一号として、精一杯お手伝いしますから!」

 キラキラした目でそう言う百香。庭取は曖昧に微笑むしかない。

 夕食の片付けを終えると、百香は帰っていった。手を振って見送った後、庭取は布団を敷き、ゴロリと横になる。

(ファン、か。どこでどう知り合ったかは分からないが、彼女はファンで、役者の『庭取』を応援してくれているのか。だから夕飯を作ってくれたりするんだな。恋人ではない、と)

 元の世界では、庭取と百香は、こっそり本名を教えあった関係だった。任務の合間に、雑談をする関係だった。百香が、普通の女の子になったらあんなことやこんなことしたいと言い、それを庭取がはいはいと聞く、そんな仲だった。セフィラにこき使われる毎日の中で、唯一の安らぎと温もりだった。

 だがここでは違う。百香は庭取のことを本名で呼ばない。役者『庭取』の夢を応援する、とても熱心なファンだ。半ば一方的な関係である。

(でも、それでも良い。元気で生きてくれているだけで、もう何だって良い。それに、これから『普通』の生活を一緒に送ることもできる)

 庭取は目を閉じた。久々の、安らかな眠りだった。

 

 

 翌日。庭取は更にスマートフォンの中身を調べた。

 役者『庭取』は、スケジュールアプリに事細かく予定を入力していた。それによれば、昼と夜はドラマの撮影、空いた時間でインターネットに上げる動画を撮影し、週末にバイトという予定らしい。しかし撮影は火事によって中断され、とりあえず今は何もない。次の日曜日にロケがあるというメッセージが来ていたが、参加するつもりはない。

(これから百香とゆっくり遊べるぞ)

 生前の百香が言っていたことを思い返してみる。買い物、バイト、カラオケ、デート、学校、旅行、等々。

 早速、この世界の百香に遊びの誘いのメッセージを送る。

『いいですよ! 土曜日なら空いてます』

 庭取は、週末のバイトを休むことに決めた。どのみちバイト先がどこかも分からないし、働くのは無理だ。

 待ち合わせの時間と場所、行き先を決める。彼女は行きたい場所があるらしい。ショッピングにカフェ、映画などなど。週末の予定がすぐに埋まっていく。

『お誘いありがとうございます。もう今から楽しみです!』

 庭取の頬が緩む。

 デートに必要なものといえば、金だ。一般人の日常に疎い庭取も、それくらいは知っている。

 室内を探すと、現金が見つかった。封筒に、『家賃用』『光熱費』と書かれている。

(盗む手間が省けた。これを使おう)

 夜には百香が夕食を持ってきてくれる。これがまた美味しくて、庭取はあっという間に平らげてしまう。

「本当にありがとう」

「いえいえ。いっぱい食べて、お仕事頑張ってくださいね!」

 百香の笑顔を見るたび、庭取の心が温まる。

(これが、普通の生活ってやつか。悪くないな)

 週末がやってきた。

 庭取は朝早く起きて、顔を洗った後、服を着た。いつものパーカーとジーンズの格好だ。部屋にある服がこれしかなかったのだ。

 待ち合わせ場所は駅前広場だ。約束の時間ぴったりに到着する。百香もちょうど同じタイミングでやって来た。

「おはようございます!」

 ふんわりとした白いワンピースに、つま先が丸いブーツ。花柄のカバンを持っている。長い栗色の髪をリボンで綺麗にまとめている。おとぎ話の女の子を連想させる格好だ。

「似合ってるよ」

 そう伝えると、百香は顔を綻ばせた。花が咲いたかのような笑顔だ。

(可愛い服、着てみたいって言ってたな。こっちの世界では着れてるんだ。良かった)

 電車に乗り、町へ出る。最初の目的地は水族館だ。期間限定の特別展示がやっていて、百香がそれを見たいらしい。

 二人分のチケットを庭取が買おうとすると、百香に驚かれた。

「い、良いんですか? 大丈夫ですか? 家賃が払えなくなったりしませんか?」

「この日のために用意したお金だから、心配しなくて良いよ」

 庭取はさらりと嘘をついた。

「本当ですか? 無理してませんか?」

 百香は本気で心配している。

「大丈夫、大丈夫だから」

 庭取は買ったチケットを強引に百香の手に握らせる。

「何か庭取さん、最近ちょっと変わりましたよね」

「そんなことないよ。今日はほら、お礼を兼ねてるからさ」

 ゲートをくぐり、青みがかった空間の中を進む。水槽の中を、優雅に魚が泳いでいる。先へ進むと、特別展示のチンアナゴの水槽が見えてきた。

「わあ、可愛い!」

 水槽に駆け寄り、何枚も写真を撮る百香。その背中を見て、庭取は微笑む。魚を見ることの良さは正直さっぱり分からないが、彼女が喜ぶ姿を見るのは楽しい。

 土産売り場で、庭取はチンアナゴのストラップを買い、百香に渡した。彼女は大喜びで、早速カバンにつけた。花柄の小さな海を、チンアナゴが優雅に泳いでいる。

 水族館を出ると、ちょうど昼過ぎだった。

 次の行き先はケーキバイキングだ。昼食にお菓子はどうなのか、と思わなくもないが、百香が行きたいといったら行くのだ。それに、庭取も『ケーキバイキング』が何か知りたい。

 予約していた店に入る。皿にケーキを乗せられるだけ乗せて、二人で食べる。

(……甘すぎる。こんなの食べられねぇ。ケーキってこんなに甘いんだな)

 庭取はほとんどのケーキを百香にあげた。そして、頬を桃色に染めて食べる百香を見ていた。昔、セフィラの食堂で百香がこんな顔をして食べていたことを、思い出していた。

 一通り食べた後は、紅茶で一服する。

「ドラマが火事で延期するってニュースでやってました。残念です。庭取さんは大丈夫ですか? スケジュールとか」

「ああ、大丈夫だよ。ちょっと今はバイトを頑張っててね。また余裕が出来たら、投稿するよ」

 インターネットの動画はすでに確認した。庭取と同じ顔をした人間が媚びた声で喋っていて、見た瞬間、鳥肌が立った。

「そうですか……では、また時間が出来たら投稿してくださいね。気長に待ってますから」

「あ、うん、頑張るよ」

 あれの真似をするのは、庭取にとっては新手の拷問を受けることと同じだ。

(とてもあんなことは出来ない。百香には悪いけど、何か他の趣味を見つけてくれないだろうか)

 店を出ると、大通りを適当にぶらつく。買い食いし、適当な店を冷やかす。

 やがて、日が沈み、夜になった。次第に道が混雑し始める。

 二人は適当な居酒屋に入った。酒類や料理を注文する。

 庭取が焼き鳥の食べ比べをしている間に、百香は酎ハイを飲んでいく。空のジョッキが、二つ三つと増えていく。

「庭取さんは今日もカッコイイですねぇ」

 庭取が四皿目のつくねに手を出す頃には、百香はすっかり出来上がっていた。

「飲み過ぎじゃないか?」

「平気ですよぉ」

 百香は机に突っ伏していた。右手にジョッキを持ち、時折顔をあげては庭取を見て、えへへと笑う。目がとろんとしている。今にも寝落ちしそうだ。

 庭取は会計を済ませ、百香を背負って外に出た。駅へ向かって歩き出す。

 町はまだまだ明るい。街灯と電飾が明るさを競いあい、人々はどこかへ流れていく。人の流れの合間を縫って、庭取は歩く。

「最近の庭取さん、なんかちょっと違いますよねー」

 眠たげな百香の言葉が、耳元で聞こえる。

「そんなことないよ」

「変わりましたよぉ。雰囲気違いますもん。本当は別人じゃないんですか?」

 酔ってるだけだ、本当に見抜かれているわけではない、と庭取は自分自身に言い聞かせる。

 そして、わざと明るい声を出して、尋ねる。

「じゃあ、以前はどんな感じだったんだい?」

「そりゃあカッコよくて、イケメンなところです」

「カッコいいだけ?」

「実際会ってみたら、ちょっと天然で、ぬけてるところがあって、可愛いんです。なんかほっとけないというか、お手伝いしたくなるというか」

「そいつ、そんなに良い奴か?」

「ええ。何よりも、夢に向かって努力している姿に、救われました。だから、あなたのファンなんです。応援したいんです」

「じゃあ、今の庭取はどう? 嫌か? 前の方が良い?」

「どんな庭取さんもカッコいいです」

 百香は庭取の首に頭を寄せる。

「庭取さんは庭取さんの好きなようにしたらいいんです。私はただ、少しでも助けになりたいだけです。光を浴びて輝く庭取さんを。舞台やドラマでなくていい、どんな場所でも輝いている庭取さんを。これが私の生きがいなんです。私のためなんです。だから気にしないで良いんですよ。どんな庭取さんでも、私は応援します……よ……」

 寝息が聞こえ始めた。

「生きがい、か。そうか」

 庭取は、ピカピカと眩しい大通りを黙々と歩いた。駅で彼女を起こして、二人で電車に乗った。最初の待ち合わせの場所で別れた。

(……さて)

 街灯がない、真っ暗な住宅街を歩く。

(帰るか)

 アパートの部屋に着くと、スマートフォンを開いた。撮影のメッセージを確認する。

 庭取は台本を開いた。

 

 

 元いた世界と、ドラマの筋書きは、おおよそ一致している。

 ドラマではこうだ。

 鏡の力によって、セフィラの構成員は、様々な異世界へ飛ばされてしまう。皆を助けるため、ただ一人残った構成員の主人公が奔走する。

 一方、庭取ら脇役の構成員も、紆余曲折を経て元の世界へ帰る方法を発見する。それは、世界に一つだけ存在する特別な鏡を割ることだった。鏡を割ると、その構成員は時空の狭間へ飛ばされる。時空の狭間で構成員達は集合し、最後の戦いに挑む。

 庭取が飛ばされた異世界では、廃墟の遊園地のどこかに鏡が隠されている。

(これを壊せば良いんだな)

 スマートフォンに届いていたメッセージを確認する。明日のロケは、丁度良いことに、廃遊園地だ。

(よし。撮影の隙を見て、鏡を探し出し、破壊するぞ)

 翌朝、五時。

 夜明けごろに、庭取は撮影会社の前に集合した。ロケバスに乗り、廃遊園地へ向かう。到着した遊園地は、草が伸び放題のいかにもな場所だ。

(どこかに鏡があるんだろうな。どこだ?)

 撮影スタッフが、テキパキと準備をする。大道具や小道具が車の中から運び出され、並べられていく。

 その中に、大きな姿見があった。枯骨が出してきた鏡と、見た目がとてもよく似ている。見た瞬間、鳥肌が立つ。

「すみません、あの鏡は何ですか? どこで見つけたんですか?」

 庭取は近くのスタッフに尋ねた。

「ああ、あれね。倉庫にあったんですよ。誰も買った覚えがないし、いつからあるのか全然分からないんですが、今回の撮影に丁度良いので持ってきたんです」

 庭取はもう一度鏡を見た。見れば見るほど、気分が悪くなってくる。間違いない。あれだ。

(面倒だな。今日はずっと鏡を使った撮影をするから、人がいない時がない。いつ壊す? いや、いっそのこと──)

 他の役者の撮影が始まる。遊園地の敷地内にある様々な廃墟で、例の鏡を使った撮影を行うのだ。鏡を割るシーン、割った後に時空の狭間へ飛ばされるシーン。庭取はイライラしながら待った。

「次は庭取だ。シーン八をやるぞ。まずはリハーサルからだ」

 シーン八は、庭取が薄暗い部屋で鏡を発見するシーンだ。

 リハーサルが始まった瞬間、庭取は全てを無視して鏡へ走った。

 拳に創力を込め、全力で鏡面に叩きつける。

 その瞬間、鏡は真っ白な光を放ち、何も見えなくなり──庭取は道路のど真ん中に立っていた。

 片道何十車線もある道路が真っ直ぐ伸びている。道路と道路の間には、ガードレールやポールが無秩序に並んでいる。道路標識も所々に立っているが、その記号は意味を成していない。

 頭上には満天の星空。だが、星の並びは庭取が知っているものと違う。

(ここが世界の狭間か?)

 背後から気配を感じ、振り返った。

「何故ここに、あなたがいるのですか」

 枯骨が立っていた。

「何故ですか。素晴らしい異世界でしたでしょう? 女性とも仲良くしてらしたじゃないですか」

 穏やかに聞こえる声に、隠しきれない怒りと苛立ちが滲んでいる。

「見てたのか?」

「時々、様子を確認させてもらいました。幸せそうでした」

「向こうの世界から来た方の『庭取』は生きているか?」

「どうなんでしょう? 特に気にしていませんでした。あの後、セフィラに回収されていましたし、多分生きているのでは?」

「そうか。帰るから、鏡を出せ」

「そんなに、あの汚く歪んだ世界が恋しいのですか? あ、もしや、あの女性にふられたのですか?」

「黙れ」

 庭取は枯骨を睨む。

(自分では、百香の生きがいにはなれない。あの『庭取』でないと駄目なんだ。それに、二度も三度も百香に死んでほしくない)

 枯骨は、可哀相に、と芝居がかった声音で言う。

「それは残念でした。ですが、また新しい出会いがありますよ。あの女性でしたら、他の異世界にもいます。そちらにお連れしましょうか?」

「元の世界に帰りたいんだ。そして、異世界の自分も、家に帰らせてやりたい。鏡を出せ」

「失恋のショックが大きいようですね。大丈夫ですよ、あなたの魅力をわかってくれる、より素晴らしい人も、きっといますよ。落ち込まないでください」

 口角を持ち上げて微笑む枯骨。

 そういえば、と庭取は思い出した。

(この身体、首輪がついてないんだよな。それに、枯骨以外に人はいないようだ。建物を壊して咎められることもない)

 庭取は、深呼吸し、肩の力を抜く。

「なあ、枯骨。最後にお礼を言っておく。この身体に転移させてくれて、どうもありがとう。おかげで、全力でお前を潰すことができる」

 そして、満面の笑みを浮かべた。

 枯骨は創力で防御しようとしたが、全く無意味だった。

 

 

「思ったより、弱かった」

 庭取は頭蓋骨を蹴った。

 道路には、ほとんど灰となった肉と白い骨が、散らばっている。

「本当に枯骨になってしまったな」

 骨を踏みつける。簡単にバラバラになった。庭取は次々と、骨を踏み潰していく。全ての骨が白い粉になるまで踏んだ後、庭取は顔をあげた。

 目の前に、見知らぬ人物が立っていた。

 全身をすっぽりとローブで覆い、顔が見えない。彼の横には、例の鏡がある。

 ふと、庭取は台本を思い出した。枯骨に鏡を売りつける謎の商人が出て来るシーンがあった。

「もしかして、その鏡をくれるのか?」

 商人は無言で頷く。

「それを使えば、元の世界に帰れるのか?」

 商人はまた頷く。そして姿が消えた。台本と同じだ。

 庭取は、そっと鏡に触れた。また目の前が白くなる。

 何も見えなくなる一瞬、庭取は、別の誰かの存在を感じた。戸惑い、怯えている。自分とよく似ているが、全く別人だ。

「百香を失望させるなよ」

 そう呟いた瞬間、庭取の視界が開けた。

 

 

 数日後。深夜一時。

 庭取は、電波塔の頂上にいた。細い鉄骨の足場に腰掛け、寒い風に吹かれながら、下界を見下ろしている。

 隣には、例の鏡があった。この大きな鏡も、鉄骨の上に支え無しで立っている。

「なあ、ちょっと!」

 鏡の中から声がした。庭取は下を見たまま答える。

「何だ?」

「どうしてそんなところにいるんだ? 危ないだろ」

「追手から逃げ回ってたんだ」

「追手? 誰なんだ?」

「知らん。だがお前は知ってるんじゃないか? 一体、どこの組織にどれだけ喧嘩を売ったんだよ」

 鏡の向こうの存在は、そっと顔を背ける。

「その、色々あったんだよ」

「その色々を教えろ。それに、この数日の間に、どうしてセフィラが崩壊しているんだ?」

「ぼ、僕だけのせいじゃないし! それに今は自由なんでしょう? あんなところ滅んだ方が良いよ! 別にいいじゃん!」

「ああ、そうだな。で? 何があったんだ?」

「だから色々あったんだよ!」

 数日の間に、世界は大きく変化していた。

 セフィラは崩壊した。構成員はほとんど行方不明、上級幹部は全員殺害された。建物は瓦礫の山になっていた。連日ニュースになっていて、混乱が続いている。何が起きたかはさっぱり分かっていない。

 そして庭取は、お尋ね者になっていた。表社会からも裏社会からも、あちらこちらの組織から命を狙われていた。理由は全く分からない。

「はあ、まあいい。知ったところで、どうしようもないし。ところで、この鏡のことや、この先の未来について、何か新しく分かったことはないのか? 次の台本が配られたりしたか?」

 この不思議な鏡は、常に庭取にくっついてくる。どこに捨てても、気がつくと近くに鏡があるのだ。瓦礫の下だろうが物置だろうが、電波塔の上だろうが、庭取のいるところに常に鏡がいる。

「全然何も。脚本家の人に会えてないし」

「早く会え。急いで会え」

「そんなこと言われても困るよ。どこかの誰かさんが撮影場所を燃やしたせいで、スケジュールが滅茶苦茶になってるし。ねえ、何で燃やしたの? それに、いつの間にか光熱費や家賃に取っておいたお金も消えてるし! 何に使ったんだよ?」

「色々あったんだ」

 鏡の中からインターホンの音がした。

「あ、百香が来た」

「そうか。早く行け。それから感謝するんだぞ。あと、百香にたかるなよ。働け」

「うるさいなあ、もう。あ、それで思い出した。百香が『土曜の夜に話したこと、覚えてますか? 忘れてますか? 忘れてますよね?』と何度も聞いてくるけど、何か知ってる?」

「早く行け」

 庭取は鏡を伏せた。まだ声が聞こえてくるが、無視する。

 下界を眺める。眩しい夜景が、遥か遠くまで広がっている。セフィラが無くなろうが、犯罪組織が跳梁跋扈しようが、今日も町は輝いている。人工の星の海が、どこまでも広がっている。

 光の海から、黒い人影が飛んでくる。追手だ。

 庭取は立ち上がると、夜空へ向かって飛んだ。

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