「何だあれ!」
ヤンが叫んだ。早川の鼓膜が一瞬、破れかける。
「運転手さん、あれなんですか? あの明るくて、でっかい家!」
「ああ、サービスエリアですよ。ご飯とか食べられます」
「行きたい! 僕もご飯食べたい!」
目を輝かせて、早川を見るヤン。ジンがため息をつく。
「初日の出を見にいくんだぞ、分かってるのか? それに金は誰が払うんだ?」
「分かってるよ! でもちょっとくらい寄ったって間に合うし、お金だってちゃんと持ってるよ。しかも、今使えるお金!」
ヤンはポケットから硬貨を取りだした。
「そのお金、どこで用意したんだ?」
「賽銭箱。僕ん家の」
「そうか……ユイ、いいか?」
「私は構わないわ」
「運転手さん、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ。初日の出まではまだ余裕がありますし。次のサービスエリアで一度寄りますね。私も少し休憩させていただいてもよろしいですか?」
「ありがとうございます」
数十分後。タクシーはサービスエリアに停車した。ヤンが真っ先に飛び降り、明るい室内へ走っていく。ため息をつきながら、ユイとジンが車を降りる。
(俺もコーヒーを飲むか)
車から一歩出た途端、冬の寒さが骨身にしみる。早川は両腕を擦りながら、小走りで自販機に向かい、缶コーヒーを買った。手を温めながら車に戻り、コーヒーを飲む。ソシャゲのガチャを回し、ツイッターを見る。時折時計を見る。
(……遅いな)
三人が出て行ってから、二十分が経つ。そろそろ出発しなければ、初日の出に遅れてしまう。
早川は再び車を出て、施設の中に入った。
ヤンはすぐに見つかった。ガツガツと何かを食べている。彼の前には、たくさんのお盆と皿が積みあげられている。ジンは、壁にかけられた絵を眺めている。ユイは、土産物のキーホルダー売り場の前で、腰を曲げて真剣な表情で吟味している。
誰に話しかけるか、早川が悩んでいると、ふとユイと目があった。
「えーと、すみません」
「出発の時間かしら?」
ユイはキーホルダーから顔を上げずに、尋ねた。
「はい。そろそろ行かないと、初日の出に間に合わないかと」
「分かったわ。二人を呼んでくる。でも、その前に」
ユイは早川の前に二つのキーホルダーを見せる。一つはメタルカラーの勾玉が三つ連なったもので、もう一つは金色の剣に竜が巻きついたものだ。
「どちらが良いかしら?」
真剣そのものな顔で、ユイは問う。
「うーんと、勾玉で」
早川は適当に答える。
「そう」
彼女はレジで勾玉のストラップを買い、ドカ食いしているヤンと絵を見ているジンをひき連れて、入り口まで戻ってきた。
「運転手さん、おいしかった! チャーハンとラーメン、最高だったよ!」
ヤンの口の周りが、ソースで汚れている。
「これ、あげる!」
ヤンが唐突に、白い箱を押し付ける。
「何ですか、これは?」
「土産売り場に売ってた、美味しそうな餃子! あげる!」
「いえいえ、そんな」
顔を横に振る早川。しかしヤンは彼の手に箱を無理やり押し付けると、タクシーへ向かって走っていった。
「えーと……」
早川は困り顔でジンを見る。
「彼なりのお礼です。私からもお礼を申しあげます。わがままに付き合わせてしまって申し訳ありません」
「そ、そんな、お礼など」
「いいです、いいです。受け取ってください。彼の贈り物にはどんなものであれ、力が宿ります。食べると、健康になれますよ」
「は、はあ」
早川は曖昧に頷いた。
車に乗り、サービスエリアを出る。
「ジンはさー、なにしてたの?」
ヤンが尋ねた。
「絵を見ていた。色使いが素敵だった。次の作品の参考になる」
「絵を描かれるんですか?」
思わず口を挟む早川。その後すぐしまった、と心の中で冷や汗をかく。運転手に突然話しかけれて嫌がる客も多い。ついそのことを忘れてしまった。
「はい。私は絵描きです。今はそれで生計を立てています」
「なるほど」
カーナビが次のジャンクションの存在を告げる。早川は車線を変更した。
午前六時半。
タクシーはようやく高速道路を下りた。下道を走る。コンビニを見かけるたびにヤンがはしゃぐ。しかしもう一度停車すると、確実に初日の出に遅れる。ジンもユイも、「バカ言うな」の一言でヤンの提案を却下した。
「だんだん空が明るくなってきましたな」
ジンの声は、心なしか弾んでいる。
「もう二十分くらいで着きます」
建物の間を抜け、海岸沿いの道に出る。水平線の近くがうっすらと赤色に染まっている。ヤンだけでなくユイも、窓に張りつき、外を見ている。
道路標識に、東野海岸、という文字が見えてくる。早川は一定のスピードを保ち、道路を進む。
『東野海岸 駐車場はこちら』
道を曲がり、滑るように駐車場に入る。駐車場は車が数台止まっているだけで、とても空いている。早川は堤防の手前にある歩道の前で停車した。
「着きました。東野海岸です。料金は──」
早川は絶句する。メーターは、これまで見たことがない金額を指している。しかし、ジンは財布から重い札束と小銭を取り出し、トレーに置いた。
「あ、ありがとうございます」
早川はせっせと数える。料金ピッタリだ。
「それと、これも」
ユイが一枚の紙をトレーに置く。お札だ。何か見慣れない文字が書かれている。
「お守りよ。持っていれば、一生交通事故にあうことはないわ」
「え、良いんですか?」
「夜中にわざわざ来てくれて、ここまで連れてきてくれたお礼だから」
ユイの言葉を聞き、ジンも深々と頭を下げる。
「本当に、長い間ありがとうございました。今まで逃げなかった人間は、ここ数十年で貴方だけです」
「うんうん、運転手さん、ありがとう! 突然飛び出しちゃってごめんね。今度は飛び出さないから!」
「いえいえ、そんな。これが仕事ですから。ほら、もうすぐ初日の出ですよ」
三人はタクシーを下りた。小走りで海岸へ向かう。早川は彼らの背中を見届けると、車を発進させようとする。だが、アクセルに置いた足が、ふと止まる。
(初日の出、俺も見たことないな。せっかくだから見てみるか)
車を白線に沿って駐車し、外へ出る。自販機で再度コーヒーを買い、白い息を吐きながら、堤防の階段を上る。
雄大な海が、眼前に広がっている。人はまばらだ。浜辺でわいわいと騒いでいるサーファーや、堤防の階段に座っている地元の住民がいる。あの三人は、浜辺でぽつんと生えている、細い椰子の木の下にいた。何か話しているが、早川のいる場所までは聞こえない。
早川は缶コーヒーで手を温めながら、初日の出を待つ。
水平線の向こうがにわかに明るくなり──やがて、一筋の光線が、澄んだ空を貫く。
(……思ったより、大したことないな。そりゃそうか。初だろうが何だろうが、ただの日の出だもんな)
プルタブを引っ張り、コーヒーを飲む。
(あいつらはどうしてるんだろう。喜んでるのかね)
何気なく、椰子の木に目をやる。その途端、早川はむせた。
あの三人がいない。椰子の木の下にも、どこにも。
早川は咳をしながら、堤防を駆け下り、靴の中に砂が入るのも構わず、椰子の木へ走った。そこには何もなかった。足跡ひとつない。
(嘘だろ)
早川は近くにいた地元の住民に駆け寄った。
「すみません、あの木の下に人がいませんでしたか?」
「い、いえ。誰もいませんでしたよ」
住民は怯えた顔で首を振ると、逃げていった。
夢か幻でも見ていたのだろうか。脳がおかしくなったのか。
しかし、早川がとぼとぼと車に戻ってかばんを開くと、そこにはずっしりと重い札束と、一枚のお札が入っていた。
東野海岸は海水浴場である。そのため、シャワー施設がある。早川はシャワーを浴びると、近くの町のカプセルホテルに入り、仮眠をとった。夕方、目を覚まし、ベッドで何気なくスマホをいじる。
(……あ)
奇妙なネットニュースのタイトルが、画面に躍り出る。早川は自然とそれをタップする。
『朧夜(おぼろよ)仁の個展、一宮美術館で開かれる
画家、朧夜仁の個展が、一月四日より、一宮美術館で開かれる。朧夜仁は、夜の風景しか描かないことで有名で──』
早川はその記事を上から下まで繰り返し読む。美術館の場所を調べ、地図アプリにマークする。
(やつがあのジンかどうかは分からんが、今度、見にいこう)
スマホが音を立て、配車アプリの通知が届く。また東野海岸だ。場所は──、
(は? 山の中?)
早川は大急ぎでホテルをチェックアウトし、東野海岸へ向かった。
そこには──、
「あー、来た来た!」
「こんばんは。すみません、今回も長距離になりますが、よろしくお願いします」
「ちょっと待って。椰子の木のところに鍵を忘れたみたい。取りに行ってくる」
ヤン、ジン、ユイの三人が駐車場にいた。
(二日連続で長距離運転は、きっついぞ)
内心そう思いつつも、自然と笑みがこぼれる。
「こんばんは。どうぞ、お乗りください」