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 窓を激しく叩く水滴の音が、絶え間なく聞こえてくる。

 カイはカーテンの隙間から外を覗いた。大雨だ。昼のはずなのに夜のように暗く、遠くが白く煙ってよく見えない。

 だが、一番目をひくのは水面の高さだ。カイが住んでいる場所は高層マンションの上層だが、すぐ下の階まで水が来ている。そう遠くないうちにこの場所も水の中に沈むだろう。カイは窓を閉めてため息をつくと、部屋を見回した。

 蒸し暑く薄暗い部屋。低いテーブルの上には大量の古い漫画が散乱している。

 テーブルの下には寝袋と大きなリュックサック、そして乾パンが入った袋が置かれている。

 カイはリュックサックの前に腰を落とし、漫画と乾パンの袋を入れ、ファスナーを閉める。それから寝袋を上にくくりつける。リュックサックを背負うと、肩紐がかすかに食いこんだ。

 玄関で黄色いレインコートをきっちり着こみ、長靴を履いてドアを開ける。

 大粒の雨がカイの全身を叩きつける。通路は水が溢れかえり、歩くのも一苦労だ。

 マンションの手すりの向こうは見渡す限り水、水、水。空では重い雲がたちこめている。荒れ狂う波と波の隙間から顔を出すのは、鉄塔や高層ビルの先だけだ。

 カイはレインコートのフードを深く被り、できるだけ速く、しかし足を滑らせないよう慎重に階段へ向かった。上の階から水が滝のように流れてきている。それでもカイは手すりに捕まって上へ行く。

 どこへ行こうか。カイは思案する。二つ上の階はどうだろうか。駄目だ、近すぎる。すぐに沈んでしまうだろう。最上階まで行った方が良い。

 カイはひたすら階段を上った。最上階に着くと、目についた部屋のドアノブを引いた。鍵がかかっていて開かない。カイは隣の部屋のドアノブを引いた。今度は開いた。しかし、窓が割れていて雨粒が部屋を濡らしている。住むことはできない。

 横殴りの雨で視界が霞む中、ひたすらカイは住める部屋を探し続ける。やがて、通路の中程の部屋で、ようやく満足のいく部屋を見つけた。窓が割れておらず、それほど散らかってもいない。ここならゆっくりできそうだ。

 カイはレインコートを脱ぎ、入り口の近くにかけた。タオルで顔を拭きながら、埃が溜まったソファにゆっくり腰かけ、大きく息を吐いた。

 

 

 雨が降りやまなくなってから、どれくらいの時間が経ったか、カイには分からない。

 降りだした季節はなんとなく覚えている。梅雨の頃だった。漫画を読んでいたら、突然停電が起きて部屋が真っ暗になった。手探りでスマホを見つけ、たくさんあるメールや電話の通知を無視し、緊急速報とニュースを見る。そこでようやく、外で記録的な大雨が降り、避難指示が出ていることを知った。

 だがカイはフンと鼻で笑った。当時、カイはタワーマンションの五階に住んでいた。いくら洪水が起こったとしても、五階に住むカイにはなんの直接的な被害もないだろう。食べ物や飲み物も普段から部屋に備蓄してあるし、一週間は大丈夫だ。そう思い、カイはベッドに寝転がって今まで通りの引きこもり生活を続けることにした。その間、外で悲鳴や大きな足音が聞こえたが、無視した。

 しかしある日、何気なくカーテンの隙間から外を見て、カイは驚愕した。

 マンションの周りは住宅街だった。少し遠くに雑居ビルや電車が走る高架があった。あったはずだった。

 しかし、それら全てが消えていた。

 代わりにあるのは濁流だ。茶色く濁った水が、轟々と水しぶきを上げている。軽自動車が一台、どこかへ流されていく。窓を開けるときつい泥の臭いが鼻を刺激する。この景色は夢ではないらしい。

 カイは慌てふためいてスマホで助けを呼ぼうとした。しかし電話会社もインターネット会社も水に沈んだのか、どこにも繋がらない。

————こうなったら、もうどうしようもないな。

 カイはそっとカーテンを閉じた。クッションが痛んだソファに座り漫画を読みはじめる。

 まだ食料がある。何とかなるはずだ。

 そう言い聞かせ、カイは今まで通りの生活を続けた。

 しかし数日経つと、いよいよ食糧が厳しくなってきた。その上、上昇する水面が五階へ達しつつあった。カイは上階に引っ越すことに決めた。

 鍵のかかっていない部屋を見つけて侵入する。台所でカップ麺やレトルト食品を探しだし、カバンに詰めこむ。クローゼットを開け、自分のサイズに合う清潔な衣服を手にいれる。本棚の漫画も小声で謝りつつ自分のものにした。そうやって色んな部屋を探索し、必要な物資をリュックにしまった後、適当に部屋を選んで住みついた。

 普段は漫画を読みふけり、物資がなくなればよその部屋を荒らし、水面が近づけば上の階へ逃げる生活。カイはそれをずっと続けている。

 

 

 ソファで休憩した後、カイは新しい住処を物色し始めた。食糧は全て腐っていた。衣服も、カイに合うサイズのものはない。

 かつての住人は植物が好きだったようだ。本棚には植物の図鑑や育て方の本がたくさん置いてある。カイはパラパラと図鑑のページをめくった。多肉植物の写真がたくさん載っている。

 ガシャン。

 ベランダの方から何かが割れる音がした。

 ガラスに何か当たったのかと思い、カイは慌ててガラス戸を調べた。割れていなかった。

 ならば、ベランダにある何かが割れたのか?

 カイは掛け金を外し、戸を開けた。

 ベランダには所狭しと鉢植えが置かれていた。日があたらないためにほとんどの植物が枯れてしまっている。

 だが一つだけ、まだ無事な植物があった。横倒しになった物干し台の陰でひっそりと葉を広げている。

 そのままにしておくのも忍びなく、カイはその鉢を部屋の中に入れた。水滴を拭き、テーブルに置き、まじまじと観察する。

 鉢の大きさは手のひらサイズだ。中の植物は更に小さい。

 葉を放射線状に広げている。色は褪せて黄緑色だ。葉の一つ一つは先が丸みを帯び、肉厚だがしなびている。茎は細く、ひょろりとしている。

 植物の名前が気になり、カイは図鑑で調べはじめた。

 だがページをいくらめくっても、それらしき植物の写真は載っていない。他の図鑑を探してもない。

 図鑑を横に置き、次の本に手を伸ばす。表紙を開くと、手書きの文字が飛びこんできた。ページの上側に多肉植物のスナップ写真が貼りつけられている。これは多肉植物の観察日記のようだ。

 カイはペラペラとめくり、目の前の植物の写真を探した。すぐに見つかった。『ココ』と名前をつけ、熱心に面倒を見ていたようだ。ダサい名前だと思うが、植物に名前をつけて話しかけると長持ちすると聞いたことがある。実際、写真の中のココはどんどん成長している。

 カイは日記帳を閉じると、植木鉢に顔を近づけた。

 今話しかけたら、こいつは元気になるだろうか。

 馬鹿らしいと思いつつ、カイは口を開いた。

「……こ、こんにち、は」

 ひどくかすれた汚い声。俺の声はこんなのだっけ、とカイは戸惑う。記憶の中ではもう少しマシだったはずだ。

「初め、まして。俺は……カイ」

 当然ココは何も言わない。

「勝手に住み……着いて……悪い……よろしくな。元気になれよ」

 ココは無言だ。

 滑稽に思えてきて、カイはソファに寝転がり、漫画を読み始めた。紙の上で繰り広げられるドラマと戦いに興奮しながら、頭の隅で、カイはふと思った。

 話すって、意外と悪くない。

 

 

 それからカイは、時折ココに話しかけた。

 眠る時は「おやすみ」と、起きたら「おはよう」と言う。外へ物資を探しに行くときは「いってきます」、帰ってきたら「ただいま」。口にする言葉はそれくらいだ。しかし、カイは生活にある種の変化を感じていた。

 起きて「おはよう」と言うたび、カイは自然とココの状態を確かめる。また、漫画だけでなく多肉植物の本も読むようになった。多肉植物には日光が一番重要らしい。しかし日当たりが良い日なんてない。せめて窓際においてやる。

「アイツは本当に大変だな。俺は日が当たらなくても死にやしないがヤツは日が当たらないと枯れてしまうんだろ? 俺より大変だ」

 洗面所で髪を切りながらカイは呟いた。髭も剃り、顔をさっぱりさせる。幾分か見た目が良くなると、ココがいる窓辺に戻った。

 ココは最初よりも少し元気になっていた。葉は大きくなり、色も少し濃くなった。

「相変わらずよく降るな」

 カイは窓から景色を眺める。

 荒れ狂う水面から頭を出す建物は見える範囲ではどこにもない。

「とうとう俺が最後の人間になってしまったか……そんなわけないか。どこかで誰かが生きてるはずだ。富士山とかエベレストとか、その辺にさ。もしかするとお前の親もいるかもしれないぞ」

 カイは手元の日記帳をペラペラとめくった。以前の住人のことが知りたくなり、カイは日記帳を読んでいた。彼は有名な会社に勤めるサラリーマンだ。恋人がいたらしく、恋人と多肉植物のツーショットもたくさんある。その中にはココもいる。

「お前はこんな立派な人達に育てられてたんだな。少し羨ましいよ」

 羨ましいと言いつつ、不思議と嫉妬の感情は沸かない。むしろ、彼らに同情した。

 雨でここを離れなければならなくなった時、この人達はどれだけ辛かっただろうか。残していく植物たちのことをどれほど心配しているだろうか。そして、今現在、元気にしているのがココだけだと知ったらどう思うだろう。

「せめてお前だけは持ち主の元に帰らないとな」

 そう言いつつ、カイはそっと目を伏せる。

 ココが持ち主の所へ戻るには、まずカイがココと共にマンションから脱出しなければならない。しかし救命ボートやその代わりになりそうなものはマンションのどこにもない。こんな場所に救援も来ないだろう。

 よしんば脱出できたとしても、カイは避難所を知らない。雨の中を当て所なく漂流する羽目になる。

「……いや、必ず連れていってやる。俺が」

 カイは静かに、しかしはっきりとそう言った。

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