外が暗くなり、日記の文字が読めなくなってくると、カイは本を閉じるた。横に転がしておいた寝袋に入る。電気がつかない今、日が沈んだら即就寝だ。
だがその時、突然、ベランダから音がした。割れた植木鉢の破片が踏まれる音だ。誰かが来たのだ。
カイはココを抱えて、奥の部屋に走った。リュックサックに慌てて荷物を詰めこみ、ファスナーを閉めて背負う。その上からレインコートを着る。それからドアに耳をつけ、訪問者の様子を伺う。
ベランダのガラスが割れる音がした。引き出しを乱暴に開いたり、何かをひっくり返す音も聞こえる。食料を探しているに違いない。
今持っている食料を少し渡せば相手は立ち去るだろうか。カイは考える。そして、すぐに首を横に振った。
まともな精神状態の人間だったら、窓から入ってきたりしない。
カイが隠れている部屋のドアが開いた。訪問者と目があう。訪問者は男だ。今まで外を漂流していたのだろう、服は泥だらけだ。伸び放題の髪と髭のせいで顔がよく見えない。
男は唸り声をあげて飛びかかってきた。
カイはすんでのところで避けた。手近にあった時計を投げつける。相手が頭を押さえている間に、男の横をすり抜けて部屋を出て、玄関から外へ飛びだす。
雨は少し弱まっていた。懐中電灯で廊下を照らす。滑らないよう気をつけながらひたすら走る。
階段の前までやってきた。踊り場から下は水だ。しかし少し離れたところに、ぷかぷかと浮かぶ大きな板がある。丁度人一人乗れそうだ。
バシャン、と背後で大きな音がした。ちらりと振り返ると、男が転んでいた。だが、顔をしっかりあげてカイを見ている。肉食獣のそれと完全に同じ目つきだ。
ぐずぐずしている暇はない。カイは両腕でしっかりとココを抱えると、階段から跳んだ。一瞬ふわりと身体が浮き、板の上に着地する。一瞬板が沈み、グラグラと揺れる。足腰に渾身の力を込め、カイは何とか耐えた。
今の衝撃で、止まっていた板が動きだし、マンションからどんどん離れていく。背後で男が何か叫んでいるが雨音で何も聞こえない。
カイはゆっくりと板に腰を下ろした。裾の内側にココを入れる。
懐中電灯でぐるりと周りを照らす。雨粒が光を反射する。その光は無数の亡霊の目のよう。亡霊が落ちる先は闇黒の水。水そのものの臭いとおぞましい腐臭が混じっている。ここは地獄そのものだ。
ブルリと身体が震える。カイは冷えた体をレインコートの上からこすった。毛布を持ってくればよかったと後悔しても後の祭りだ。
「大丈夫か、ココ。寒くないか」
カイはレインコートの中で手を伸ばし、ココの葉に触れる。しばらくそうしていると、不思議とほのかなぬくもりを感じた。
「すまないな、ココ」
ココの葉と茎を撫でる。傷つけないよう、本当に優しく。
茎は細いけれどもしっかりしている。葉はぷっくりと膨れ、スベスベだ。日の差さない悪条件の中でも立派に育っている。
「こんな俺を助けてくれて」
カイはそっと手を遠ざける。
「バチが当たったんだ、きっと」
それは誰かに聞かせるための言葉ではない。雨よりも透明な声色で紡がれる独り言————。
「仕事もせずに部屋に引きこもってたから。貰った金は漫画に使ってたから。親や弟や友達の声に耳を貸さなかったから。誰も信じず、助けの手を払いのけたから、この世界に残されたんだ」
リュックサックの側面のポケットからスマートフォンを出す。
「雨が降り始めた頃、何度も電話してくれてたり、メールを送ってくれたりしたのは、避難しろと教えてくれてたのか? あの時返事しなかったから分からないや」
電源ボタンを長押しする。画面は真っ暗のままだ。何度押しても反応はない。
「電池なんか残ってるわけないよな」
スマートフォンを水につける。そっと手を離す。
それきり、何も喋らなかった。カイはただひたすら、ぼうっと暗闇を見つめていた。
やがて闇が薄れ、周りがぼんやりと明るくなってくる。気温が上がり、急激に蒸し暑くなる。白く濁った雨と霧の中を板はゆっくり進む。
明るくなったことで周りの様子がよく分かるようになった。色々なものが浮いている。板切れや布切れ。何かの破片。どこかのドア。カラフルな箱。
カイは透明なプラスチック容器を拾い上げ、ココに被せた。これで雨に当たらずとも光を浴びることができる。
「あとは、陸地か建物にたどり着ければ……」
遠くを見つめ、祈るように呟く。
日が昇っては沈み、闇が忍びよっては消えていく。
食事は一日一個の乾パンのみ。おまけに風邪をひいてしまい、咳が止まらず呼吸が苦しい。飢餓と病気がカイの精神を蝕む。
一方、ココも少しずつ弱ってきた。葉が萎れては一枚ずつ落ちていき、色も黄色になっている。一刻も早く陸地にたどり着かないと、ココもカイもおしまいだ。焦りばかりが募るが、できることは何もない。
だが、漂流開始から何十回目かの昼。
とうとうカイは、建物を発見した。
雨でよく見えないが、かなり大きい建物だ。
流れている棒を拾い、先端に板をつけて即席のオールを作る。そして最後の力を振り絞り、ひたすら漕ぐ。
カイを乗せた板はゆっくりと建物へ近づいていく。
近くだと、その建物は病院か研究所のように見えた。しかも一階が水没していない。建物の周りの地面も、ほんの少しだけだが顔を出している。おそらく、ここだけ他よりも土地が高く、水没を免れたのだろう。
建物の前で板を止める。カイはココを抱えて立ちあがった。一瞬めまいがしてふらつくが、何とか歩きだす。
玄関の前には立派な表札があった。汚れてはっきり読めないが、『研究所』と書かれている。カイは中に入った。
壁や天井、床には泥や雨粒の跡がたくさんついている。カイは汚れた案内板を紙に写し、研究所の中を歩き始めた。
食べられるものがないか一階から探すが、すでに略奪された後らしく、一つも残っていない。あるのは素人にはよく分からない機械ばかりだ。二階、三階も同様である。
三階の踊り場でカイは地図を見る。四階が最後だ。ここは部屋が一つしかない。地図には『温室』とあった。
階段を上り、ドアを開く。その途端、濃い緑の臭いがカイの鼻腔をついた。
傷のないガラス張りの屋根の下、雑草が好き放題に生えていて、虫も飛んでいる。鳴き声が聞こえる。
長い間、緑と生命が溢れる光景を見ていなかったカイは驚き、次に笑顔になった。
「よかった。ここならお前も元気にやっていけそうだぞ」
砂利が敷かれていて、草があまり生えていない小道がある。カイはそこを歩き、ココを植えられるような居場所を探す。
ある畑の前で、カイは足を止めた。
温室の片隅に園芸道具が置かれている。数本のシャベルとスコップ、重ねられた空のプランター、積み上げられた肥料。
その肥料の袋をどかすと綺麗な土が姿を現した。
カイはリュックサックを横に下ろし、スコップで土を掘った。すぐに小さな穴ができあがった。
続いてカイはココの鉢をひっくり返し、土ごとココを取りだした。できたばかりの穴にゆっくり置くと、周りに丁寧に土を入れていく。茎の根元までしっかり土を被せる。
全てが終わると、ココはまるで最初からそこにいたかのように、堂々と小さな葉を広げて真っすぐ上を向いていた。
カイの顔から再び笑みがこぼれる。だが大きな咳が口から飛びだし、止まらなくなる。背中を丸めて胸を抑え、そのままココの横に倒れる。
「なあ……」
咳が止まると、カイはココに話しかけた。最初に話した時よりも声はかすれて汚く、嗄れている。
「前に話したけどな、俺はクズだった。雨が降る前も降った後も、現実から逃げていた。それがお前に会ってから少し変わった。今なら、皆と仲直りして、外で働けると思う。というかそうしたい。でもそれは無理だ。反省するのが遅すぎた……」
また咳が出る。喉と胸と頭が酷く痛む。
「何が言いたかったんだっけ……そうだ、お礼だ……ありがとう、ココ。お前のおかげで俺は自分のクズさに気づけて……少しマシな人間になれたと思う……ココのおかげだ。お前にはきっと特別な力があるんだな……」
口から吐息が漏れる。極度の疲労のためか、とても眠い。まぶたがくっつきそうだ。
「俺がお前にしてやれるのは、このくらいしかない……本当は水に沈む心配がない場所まで連れていきたかったが……今の俺にはできそうにない。せめてここで大きく育ちなよ。もしかすると……誰かがやってきて、お前を見つけてくれるかもしれない。リュックにはお前のことを書いた紙を入れておいた……それを読んでもらえれば……」
カイの瞼が閉じる。意識がぼやけ、心地よい闇に溶けていく。
ガラスを打つ雨の音だけが温室に響く。
ドアを開けると、むせ返るような臭いが彼らを襲った。
「すごいな。こんな場所がまだあったとは」
一人が呟く。もう一人が首肯した。
「ええ。植物は死に絶えたとばかり」
「ああ。もしかすると誰かいるかもしれん」
二人は用心深く温室の中へ進んだ。
彼らは二人とも男だ。一人は青年、もう一人は中年男性である。二人とも同じオレンジ色の救命胴衣を身につけ、頭に無骨なヘルメットを装着している。
「隊長!」
先に進んでいた男が声をあげた。
「どうした?」
「遺体を発見しました。白骨化しています」
報告するその声は、普段とは違う熱を帯びていた。隊長と呼ばれたその男はすぐに向かった。そして立ちつくす。
温室の壁際に、花の絨毯が広がっていた。
咲いているのは薄黄色の小さな花だ。ほんのりと良い香りがする。
その美しい絨毯の中央に、花に守られるようにして、一体の白骨死体が横たわっている。
二人は『彼』に黙祷を捧げた。その後、若い男が近くにあったリュックサックに気づき、ファスナーを開ける。
「おい、勝手に触るな!」
「このリュック、見覚えがあるんです。中身は日記と……これは手紙?」
若い男は手紙を読み始めた。彼の目から涙が流れだすのを見て、隊長は何も言わずにその場から少し離れ、空を見あげる。
ガラス張りの天井の向こうから、眩しい太陽の光が彼らを照らしていた。