第十二話 初夏の徘徊
初夏の蒸し暑い風が、境内を吹き抜ける。
「あっつー……」
白田朱里(しろたしゅり)は、額の汗をぬぐった。
まだ梅雨入りもしていないにも関わらず、じっとりと蒸し暑い日々が続いている。これからまた酷暑の季節が来るのかと思うと、うんざりする。
今日は日曜日。境内の掃除当番の曜日だ。朱里は掃除小屋から竹箒を取り出し、掃き掃除を始める。掃き掃除が終わったら、ゴミを出し、賽銭箱の中身を回収する。これが、白田ファミリーのみんなで分担して行う仕事である。
キュウ、という、小鳥に似た鳴き声が聞こえた。
境内の木の後ろから、ひょこりと二匹の、それも六本足のクマが現れた。クマという生き物は、前足が二本、後ろ足が二本の合計四本足だ。しかし目の前のクマ──ろうぐまは、「中足」とでも呼べばいいのか、前足と後ろ足の間に、もう一対の足があった。まるで昆虫のようだ。
二匹のろうぐまは、朱里に近寄ると、六本の足で掃き掃除のジェスチャーをする。
「ああ、手伝ってくれるの? ありがとう。でも、これは私がやることだから」
朱里は箒の柄を握る力に手を込めた。数歩後ろへ下がり、ろうぐまと距離をとる。
ちょうどその時、鳥居の外から足音が聞こえてきた。
「チャチャ、トト!」
ジャージ姿の男子中学生が、鳥居をくぐって境内に入ってきた。二匹のろうぐまの手をぎゅっと握る。握ったまま、彼は朱里へ顔を向ける。
「白田さん、こんにちは」
彼の名前は荻野明(おぎのあきら)という。朱里が通う中学生のクラスメイトだ。見た目は文化系で、教室での印象も薄い。少し前まで、朱里と明は全く関わりが無かった。
それがこうして会うようになったきっかけは、先日の夕方、明がろうぐまを連れて境内に現れたことだ。
朱里がダンスの練習をしている時、突然茂みから彼とろうぐまが飛び出してきたのだ。明は着ぐるみだと言って誤魔化そうとしていたが、霊感を持つ朱里には、それが怪異だとすぐに気がついた。とはいえ、面倒なことに巻き込まれたくないので、朱里は追及せず、彼らが神社から去るのを見送った。
だが数日後の深夜、明とろうぐまが神社の周りをうろついているのを白田ファミリーの一人が見つけ、流石に見逃せず、話を聞いた。
明が言うには、『新月書林』という本屋に入ったら異世界に迷い込んでしまい、そこでろうぐまと出会った。そして変な化け物に追われ、ろうぐまと共に帰還した……ということらしい。
一般人が聞いたら、明のことをホラ吹きか病人だと思うだろう。しかし、朱里には霊感がある。実際、怪異と一緒に暮らしているのだ。だから、明の話が真実だと分かった。
「荻野くん、事務所に来て」
朱里は竹箒を杉の木に立てかけると、彼と一緒に事務所に入った。狭い部屋だ。部屋の真ん中には、簡素な白いローテーブルがある。机を挟んで向かい合わせになるように、二脚の黒い合成皮革のソファがある。壁際には書類がパンパンに詰まった金属製の棚があり、部屋の隅に小さな冷蔵庫がある。冷房がよくきいており、外との温度差に風邪をひきそうになる。
朱里は冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本取り出した。一本を明に渡し、朱里は棚にもたれかかる。手元のもう一本のペットボトルを開ける。
「で、見つかった? ろうぐまの家」
尋ねてから、朱里はぐびぐびとお茶を飲む。
「そ、それが……」
明は俯く。
この世界に戻ってきた明は、ろうぐまを家に連れ帰った。しかし、異形の生き物を自室に匿い続けるのは限界があり、親に怪しまれたため、明はろうぐまを連れて家を出た。彼らが住める場所を探して町を彷徨っていたら、いつの間にか神社の前に来ていたという。
朱里は、一ヶ月という期限付きで、ろうぐまを神社で匿うことを提案した。一ヶ月の間に居場所を探せなければ、異世界へ帰す。それが明、ろうぐまと、白田ファミリーが交わした約束だった。
そしてあと数日で、約束の一ヶ月の期限が来る。
「もう少しだけ期限を伸ばせないか?」
「駄目。お化けの面倒を見るのもお金がかかる」
朱里としては、すぐにでも異世界に送り返したかった。怪異と縁の深い朱里にとって、異世界への門を開くことなど朝飯前である。しかし、父が「まあまあ。もう少しだけ様子を見よう」などと言い出したため、こういう約束になった。
こんな猶予期間など、なんの意味もないと朱里は思う。明が妖怪の新しい居場所を見つけられるわけがない。一ヶ月間、こちら側が妖怪を養うことになるだけだ。妖怪も飯を食う。金がかかるのだ。これ以上ファミリーを増やす余裕はない。
「期限は一秒たりとも伸びない。忘れないでね」
朱里は空になったペットボトルをゴミ箱に捨てる。大きな音が鳴った。
「分かった……」
明はしゅんとうなだれる。
(こっちはあんたの友達の面倒を見てるんだから、感謝してほしいくらいなのに、どうしてそんな態度なわけ?)
朱里はこれ見よがしにため息をつく。
「荻野くんはあの子達と遊んできなよ。私は境内の掃除をしとく」
「あ、ああ……」
セミが鳴き始める夕方、朱里はさっさと境内を掃除し、神社の裏にある家に帰った。帰る頃には、ろうぐまと明のことは朱里の頭からすっかり消えていた。
真夜中。
白田ファミリーの一人、とおるは白田神社の境内にいた。
とおるは、その名の通り、姿が透明な鬼だ。透明人間ならぬ透明鬼である。彼は眠らないため、夜は一人でゲームしたり、外を散歩するなどしていた。
お社の屋根に腰掛け、風の音や虫の音に耳を澄ませていると、人間の足音が聞こえてきた。
背が少し曲がった老婆が、鳥居をくぐって境内に入っていた。
「タロー、ジロー、どこやぁー……」
ペットを探しているようだ。しかしこんな時間に、老婆が、一人で、懐中電灯の一つも持たず手ぶらで探すのはおかしい。
(人を呼ぶべきか? しかし、朱里も信治も寝ている。人間は眠らないといけない生き物だ。緊急事態でもないのに起こすのも……)
とおるが迷っていると、家の一階のドアが開いた。中から二匹のろうぐまが出てきて、老婆に近づく。「どうした?」と言いたげに鳴き声をあげるが、グオゥという音にしか聞こえない。
「おお、タローもジローもこんなところにいたのかい。探したよ。一緒に帰ろう」
老婆は二匹のろうぐまの頭を、皺だらけの手で撫でた。そして、鳥居をくぐって境内の外へ出ていく。
とおるは屋根から飛び降り、音を立てずに着地すると、彼らのあとを追った。
静かな住宅街の道。青白い街灯に、虫が群がっている。老婆がはくサンダルの足音が反響する。
「おーい、まさえ。まさえ、どこだ?」
前方から老爺のか細い声が聞こえてきた。ろうぐまはさっと老婆から離れ、暗がりに隠れた。
「まさえ、こんなところにいたのか」
痩せた老爺が現れた。彼が持つ懐中電灯の光が、まさえと呼ばれた老婆を照らす。
「誰だね、あんたは」
老爺はため息をついた。
「勝寿(かつとし)だよ。さあ、一緒に帰ろう」
「あんたなんか知らないよ」
「まさえの家はこっちだ。案内してやるから、ほら」
勝寿は、まさえの右腕をとると、ゆっくり歩きだした。二人の後ろを、ろうぐまがこっそりとついていく。更にその背後から、とおるが尾行する。
勝寿はまさえを連れて、小さな家に入った。平家だ。屋根や壁は錆やカビなどで酷く汚れている。玄関前は雑草がぼうぼうに生えている。地震が来たらペシャンコになるだろう。
老夫婦に続いて、ろうぐまととおるも家の中に入った。
悪臭が鼻をつく。細長い廊下に、大小様々な大きさのゴミ袋がたくさん置かれている。全く捨てられていないようだ。二人が入った寝室には、布団の周りに衣服やゴミが散乱し、積み上がっている。
「まさえ、もう寝なさい」
「タローとジローは?」
「今は遠くで寝ているよ。また会える。まさえも寝るんだ」
勝寿はどうにかまさえをなだめすかし、彼女を布団の上に寝かせる。上から薄い掛け布団をかけ、彼自身も彼女の隣に横になった。
「タローとジローは?」
「まさえ、頼むから寝てくれ」
ろうぐまは、ゆっくりと寝室に入った。ゴミを踏まないよう注意しながら、まさえのそばに来て、彼女の手を握った。もう一匹のろうぐまが、彼女の頭を撫でる。
「あ、タローとジローだ……」
まさえは嬉しそうに呟く。ほどなくして、寝息が聞こえてきた。
そのまま、ずっと、ろうぐまはまさえの側にいた。
「……じゃあ、ろうぐま君は今もそのお婆さんのお家に?」
信治は尋ねた。手元のパンからマーマレードが皿に垂れている。
「いる。うまいこと隠れて、爺さんに見つからないようにしながら、婆さんと一緒にいる」
朝。朝食を食べていた朱里と朱里の育ての父・笠原信治(かさはらしんじ)は、とおるから夜の出来事について話を聞かされた。
五人掛けのテーブルの、一番奥の向かい合う二席。そこが朱里と信治の席である。朱里の隣の椅子がひとりでに動いた。とおるが座ったのだ。彼はそこが定位置だ。
普段は五人揃ってテーブルを囲むが、今日は残りの二人は出張中でいない。いつもより少し静かな朝だ。
朱里が台所から帰ってきた。アイスコーヒーが入ったグラスをとおるの前に置く。コップが浮遊し、中身のコーヒーが少し減る。
「なんでその人についていったんだろう」
「分からん。話せる暇がなかった」
朱里は席に座ってトーストを齧り、テレビを見る。テレビでは宇宙活動について特集されていて、月や火星の写真が映し出されている。
「そうなんだ、じゃないよ。まさえさんの家にずっといるんだろう? マズいだろ、色々と」
信治はため息をつく。
「別にいいじゃん。婆さんが困っていないなら」
「勝寿さんというんだっけ? 旦那さんがいるだろう。そもそも、勝手に人の家に住むのは違法だ」
「妖怪が法律なんか気にするわけないじゃん」
朱里は席を立ち、スカートについたパンクズを払う。空になった食器を台所に運び、食洗機に入れる。
「行ってきまーす」
「明くんにも伝えといてくれよ」
「はいはい」
リュックサックを背負い、家を出る。ムワッとした蒸し暑い空気にうんざりしながら、自転車を漕ぎ、中学校へ向かった。
教室に入ると、すでに明がいた。眠っている。朱里は机を揺すって起こす。寝ぼけ眼の明に、とおるから聞いた話を伝えた。
「じゃあ、チャチャとトトはそのお婆さんの家に?」
話を聞いた明は、眠気が吹き飛んだらしく、目が輝いている。
「そうだよ」
「放課後、見に行ってもいいかな」
「いいんじゃないの。住所、後で送るね」
午後の授業が終わり、放課後になると、明は荷物を背負ってすぐに教室を出ていった。朱里は書道部でのんびりと過ごした後、学校を出た。
帰り道、朱里は公園で明と老婆──まさえを見つけた。
「それでね、私言ったの。『そんなのおかしいじゃない。返金しなさいよ!』って。でも店員は『いやそれはできません』ばっかり言ってね、全然話にならんのよ」
「そうですか」
まさえはマシンガンのような勢いで喋り続ける。その横に明が座り、時々相槌を打っている。
放っておくか関わるか、朱里が逡巡していると、明と目があった。顔に『助けて』と書いてある。朱里は渋々、入り口の脇に自転車を停め、園内に入った。
「何してるの、こんなところで」
「俺が家に行ったら、ちょうどお婆さんが出てきたんだ。話しかけたら──」
明は隣でとめどなく喋るまさえに顔を向け、次に朱里を見た。
「この調子だ。歩きながら喋り続けて、全然止まろうとしない。なんとか宥めすかして、ここに座ってもらったんだ。誰か呼んできてれくないか?」
「家に爺さんはいなかったの?」
「分からない。窓の向こうにチャチャとトトがいたのは見えた」
遠くから「まさえ、まさえ」と名前を呼ぶ老爺の声が聞こえてきた。朱里が入ってきたのとは別の入り口から、タンクトップと半ズボン姿の老爺が来た。
彼が、今朝とおるが話していた勝寿だろう。朱里が想像していたよりも、ずっと痩せている。頬の皮膚はたるみ、目の周りは落ち窪み、疲労の色が濃い。
「君たち、妻の相手をしてくれていたのか? ありがとう」
まさえは勝寿をきっと睨む。
「誰だいアンタ」
「夫だよ。とにかく、無事でよかった」
明はベンチから立ち、席を譲った。勝寿は礼を言ってベンチに座り、荒い息をする。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫、大丈夫だよ」
大丈夫な呼吸音に聞こえない。朱里はポケットからスマートフォンを取り出し、いつでも救急車を呼べるようにする。
朱里のスマートフォンを見た勝寿が、表情を変える。
「頼む。警察を呼んでくれ」
荒い呼吸をしながら、しゃがれた声で懇願する勝寿。
朱里は明と顔を見合わせる。マズいことになった、という顔だ。朱里も同じ顔をしているだろう。非常に面倒なことになった。
勝呼吸が荒すぎて言葉が伝わっていないと思ったのだろう、勝寿は呼吸が落ち着くのを待ち、もう一度言った。
「頼む。警察を呼んでくれ。家にクマが出たんだ。妻がまたいないと思って、まず家の中を探していたら、二匹のクマがいたんだ。信じられないだろうが、いたんだよ」
「それは、怖かったですよね」
朱里は、相手を労わる純粋な女子中学生のフリをした。勝寿は辛そうに目をつむり、「ああ、ああ」と頷く。
「慌てて逃げてきて、妻を探していた。ああ、良かった……生きてくれて」
勝寿はまさえの手をとった。しかし、まさえは彼の手を振り解く。
「あんたたち、助けてくれ。知らない男に付き纏われてるんだ。警察を呼んでくれよ」
勝寿は慣れた様子で、首を横に振る。何度もこういう事があったようだ。
「と、とりあえず、お家へ帰りませんか?」
明は無理に明るい声を出して提案する。
「いや、だから、クマが──」
「一度確かめに戻りましょうよ。クマじゃなくて別のものだったかも。この辺にクマなんか住んでないし」
突然、まさえがすっくと立った。前へずんずんと歩き出す。
「どうしました?」
明が素早く彼女の前にまわる。
「本を買いにいくの」
「なんの本を?」
「タローとジローに読み聞かせる本よ。あの子達、本が大好きなの」
「は、はあ。本屋ですね。じゃあ案内しますよ、えーと……」
明は振り返った。目線で、家に連れていくと勝寿に伝える。
「あっちの方向だよ」
勝寿が指差した方へ向かって、明はまさえの腕を引きながら歩く。勝寿と朱里は二人の後ろをついていく。
まさえに合わせて、歩みはゆっくりだ。普段なら自転車で駆け上がるを、十分以上かけて登る。まさえはタローとジローとやらの話を延々と続けている。
「ほんのちょっと前までは普通だった」
突然、勝寿が呟いた。朱里は視線だけを勝寿に送る。
「少し前は、ちらし寿司を作ったり、クッキーを焼いたりしていた。週に一度の歌の練習会にも行った。誰もよりも頭がはっきりしていたんだよ。随分前に読んだ本の中身だって覚えているくらい、記憶力が良かった。ボケるなら俺が先だと思っていたんだがなぁ……」
まさえの丸く小さな背中を見つめる勝寿。
「すまんね。子どもに聞かせる話じゃなかったね」
「気にしないでください」
ようやく坂を登り切った。勝寿が「このまままっすぐ」と言い、明はそのようにまさえを誘導する。
「タローとジローは、誰なんですか?」
「知らない。元気だった時には聞いたことがないんだ」
その後、長い時間をかけて、ようやく老夫婦の家がある住所まで来た。
しかし、そこに、とおるから聞いた平家は無い。
あるのは、コンクリートでできた二階建ての建物だ。アーチ型の窓に、ステンドグラスがはまっている。ガラス製の引き戸があり、その上には『新月書林』という看板がかかっている。レトロな書体だ。
「新月書林?」
明の声が裏返る。勝寿も呆然としている。あたりをキョロキョロし、家を探している。
「白田さん、あれだよ、あれ。俺が前に入った本屋! 見た目は違うけど、名前は同じだ!」
「分かった分かった、落ち着いて」
朱里も、この町に伝わる不思議な本屋、新月書林のことは知っていた。何度か訪れたこともある。とはいえ、こういう形でまた招かれるとは思っていなかったが。
まさえは少しも驚かず、当然のようにガラス戸を横に引き、店内に入った。
「いらっしゃいませ」
レジカウンターの男性が涼しい声で挨拶をする。店内は空調が効いていて、とても涼しい。
そして、レジの横に、二体のろうぐまがいた。本棚の後ろから半分姿をだして、四人の様子を窺っている。
「あ、こんなところにいたのかい? 探したよ」
まさえはろうぐまの元へ歩いていった。勝寿が悲鳴を上げて止めにいこうとするのを、朱里は静止する。こうなった以上しょうがない。妖怪の存在やろうぐまの説明を、可能な限り噛み砕いて、勝寿に説明する。
ろうぐまは、まさえに一冊の本を見せる。まさえの顔が輝く。
「おやおや、それが読みたいのかい? タローはそれが好きだねえ」
もう一匹のろうぐまが、明に本を持ってくる。
「これは絵本? どうしたの、読んで欲しいのか?」
まさえが明の方を向いた。
「アンタ、ジローの友達なの? 名前はなに?」
おてんばな少女のような調子のまさえ。明は戸惑いながら名前を告げる。
「そう、明くんっていうの。私はまさえ、こっちはタローでこっちはジローっていうの」
「そ、そうなんです、ね?」
なんとかまさえの調子に合わせる明。その様子を、勝寿は目を丸くして見ている。
「そちらの男性のお客様は、お探しの本はありませんか?」
突然、レジの店員が勝寿に話しかけた。
「え、本?」
「はい。当店はお客様が探されている書籍をお渡しするサービスを行なっております。書籍であれば、どんなものでもお渡しできますよ」
「はあ?」
朱里は困惑する勝寿に囁く。
「難しいことは考えないで。なんでもいいから、欲しいものを言ってみてください」
「そ、それじゃあ……若い頃、まさえと見た映画の本が欲しい。映画の元になった小説があったんだ。どんな話かはほとんど覚えてないんだが」
「こちらですね」
店員はカウンターの下から一冊の本を出し、勝寿に差しだした。彼は、「信じられん」と呟く。
「こ、これだ」
なんの本か気になった朱里は、脇から覗き込んだ。
「『ティファニーで朝食を』……?」
「あ、それ知ってるわ」
まさえが言った。今度は今までと一転して、大人の女性の口調だ。
「この前、夫と見に行ったの。面白かったわよ。本当に好き! 今度、お仕事がお休みの日に、もう一度見に行く約束をしているの」
まさえは心からの笑顔で言った。
「あ、ああ。そういう約束をしたな」
勝寿は何度も頷いた。声が微かに震えている。
「そうよ。あなたは映画を見た?」
「見たよ。妻と一緒に。でも、俺は話をちゃんと覚えていないんだ」
「そうなの? それは勿体無いわ!」
「良かったら、どんな話か教えてくれないか?」
「もちろんよ!」
勝寿はまさえの背中にそっと手を置く。そして、店の外へ二人で出ていった。残りの人間と妖怪も、店を出る。
振り返ると、店は消失し、平家に戻っていた。
「みんな、どうもありがとう」
勝寿はまさえを連れて家に入ろうとする。しかし、わずかな段差につまづき、転びそうになる。その時、ろうぐまが勝寿とまさえの身体を支える。
「ありがとう、君達」
ろうぐまは優しい鳴き声をあげた。勝寿も、もう慣れたのか、ろうぐまを怖がっていない。
「あの、すみません。お願いがあるんですけど」
明が勝寿に頭を下げる。
「もし良かったらなんですけど、この子達を家に入れてあげてくれませんか?」
白田神社、境内。
とおるは、お社の屋根に腰掛け、境内と町の様子をぼんやりと眺めていた。
ほとんど参拝客が来ない神社だが、時々、まさえと勝寿が訪れる。大抵の場合二人きりだが、時々、明や朱里が一緒にいることもある。朱里は、事務所からカセットテープとプレイヤーを持ってきて、音声を境内で流す。すると、まさえは一段と生き生きとしはじめ、勝寿は柔和な笑みを浮かべる。
「あのテープはなんだ? 新しい呪歌か?」
ある日の夕食の席で、とおるは朱里に尋ねた。
「違うよ。ただの小説の朗読。二人とも、この小説が好きなんだって。爺さんと婆さんは、小さい文字より音声の方がいいと思って、テープを作った」
「朱里が報酬無しで人助けなんて珍しい」
「失礼な。人助けくらいするよ。放置するのも後味悪いし」
夜。とおるは神社を出て、町を散歩する。
ある平家の前を通りかかった。その平家は、地震が来たらひとたまりもない古い家だが、玄関の周りの草木は綺麗に刈られていた。戸や窓はしっかりと閉じられる。
窓ガラスの向こうで、白いものが横切るのが見えた。