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第十三話 下り坂で遭う(央蓮寺の伝承より)

 昔々。央蓮寺(おうれんじ)という寺に、千慈(せんじ)という名前の僧が住んでいた。
 千慈は徳の高い僧であった。村人の悩みをよく聞き、貧乏人の葬式でもきちんと経をあげ、ネズミや羽虫の命も大切にした。寺に住み込みで修行する年下の坊主にも、時には厳しく叱りつつ、寛容に接した。そのため、この寺で住み込む坊主は皆、十にもならない小僧でも、すらすらと長いお経を唱えることができた。
 千慈は邪を退ける力をもつと言われ、彼の唱えるお経は大層ありがたがられた。しかし彼は決して驕らず、常に謙虚であった。
 ある日のこと。千慈は遠くの村の村長から、葬式で経をあげてほしいと頼まれた。千慈は丸一日かけてその村へ向かい、経をあげ、次の日帰路についた。しかし、帰りも様々な出来事があり、行程が遅れ、ようやく村の近くまで来た時には午後の遅い時間で、しかも雨が降りそうな空模様だった。
 千慈の前には、二つの道があった。一つは安全だが遠回りをする川沿いの道。もう一つは、人喰い鬼が出るという山の中を突っ切る近道。夜はもちろん昼間ですら人が通らない道である。
 普段なら、遠回りでも安全な川沿いの道を選ぶ。しかし今の時間からこの道を通ると今日中には寺に着かず、野宿しなければならない。しかも一雨来そうな雰囲気である。夜に川辺で雨が降る中眠るのは避けたい、と千慈は考えた。
 一方近道なら、なんとか日が没するまでに、村に帰られるだろう。
 仕方がない、この山の道を通ろう、と千慈は決めた。編笠を被り直し、杖をしっかりと握りしめ、山に入った。
 山の中は薄暗く、ジメジメと蒸した空気であった。鳥獣の鳴き声も全く聞こえず、異様に静かである。千慈は自然と早足になった。
 いつ鬼が出るかとヒヤヒヤしながら、千慈は坂を上った。しかし、鬼どころか、虫一匹現れない。何も起こらないまま長い坂を上り切った。崖の手前に出る。そこからは、真っ赤な夕暮れの空と水田が広がる村、そして央蓮寺が見える。千慈はほっと息をついた。あともう少し、つづら折りの下り坂を行くだけである。
 その時であった。背後から、ポキ、パキリと、小枝が折れる微かな音がした。千慈は振り返った。
 ま後ろに、鬼がいた。
 燃えるような真紅の肌。千慈の倍ほどの背丈。ギラギラと光る二つの目、鎌のようににんまりと口角が持ち上がった大きな口。そして、丸太のように太い右手を千慈の方へ伸ばしている。
 千慈は悲鳴をあげて逃げ出した。下り坂を全力で走る。しかし、道の左右から木々が枝を伸ばしているせいで、ほとんど日の光が入らず、足元が見えない。彼は段差につまづき、転んでしまった。
 すぐ後ろから、地響きのような恐ろしい笑い声と足音が聞こえてくる。もう逃げられそうにない。
「──これまでか。ならば」
 千慈は自分自身に向けてお経を唱え始めた。
 すると、不思議なことが起こった。鬼が苦悶の声をあげはじめたのである。彼は起き上がって振り返った。暗くて見えにくいが、鬼が両手を頭の横に当てているのが分かる。
 千慈はお経を唱えながら坂道を下りはじめた。転ばないよう杖をしっかりと構え、できるだけ早く歩く。背後からは、まだ鬼の足音が聞こえる。千慈を諦めたわけではないのだ。
 坂道はつづら折り。右へ左へと折れ曲がりながら山の下まで続く。道を突き当たりまで進むと、方向を変えてまた下る。焦って誤った方向へ行くと、そのまま道を踏み外して真っ逆さまだ。千慈は杖で足元を確認し、坂を下る。
 下れど下れど、坂は続く。一体いくつの坂を下りただろうか。今、山のどの場所にいるのだろうか。見上げると、枝と枝の間から僅かに見える空は、今や紫色。もうじき完全に日が暮れ、山は漆黒の闇に包まれる。そうなる前に山を下りなければ。一体あと、どれくらいだろうか?
 焦りが募る。滅多なことでは動じない千慈が、焦っていた。焦りは禁物だと分かってはいるが、背後の重たい足音を聞いて焦らないわけがない。急げ、急げ。食われてしまう。
 息が上がる。声が枯れる。だが決して読経を止めてはいけない。休んではならない。読経を続け──
 千慈の声が止まった。
 突然、続きを忘れてしまったのである。
 焦りのためか、疲労のためか、その両方か。千慈はお経の全てを忘れてしまった。全く思いだせない。
 背後の足音が大きくなった。どんどん近づいてくる。千慈は追い立てられた犬のように、無我夢中で坂を走る。
 その時であった。千慈の行く先に、明かりが見えた。走るにつれ、全貌が明らかになる。それは小さな寺だった。真新しい木製のお堂が、坂道を塞いでいる。中の戸から橙色の明かりが漏れているのだ。
 こんなところに寺があるなど、千慈は聞いたことがない。しかし、後ろから鬼が迫ってくる。千慈は意を決して、お堂へ飛び込んだ。
 中は狭い。左右の壁に大きな棚があり、書物が一分の隙間もなく並べられている。板張りの床にも書物が積み上がり、足の踏み場が存在しない。部屋の奥には、僧が一人、文机の前に座っていた。息を切らして入ってきた千慈を、怪訝な目で見ている。
 千慈は肩で息をしながら、僧に言った。
「すみません。鬼に追われていて、お経を唱えなくてはならないのですが、忘れてしまい、なにか経典を読ませていただけませんか」
 我ながら支離滅裂な説明だ、と千慈は思ったが、僧には伝わったようだ。彼は「分かりました」と言って立ち上がり、棚から一冊の書を取りだすと、千慈にそれを渡した。その書は千慈がいつも使っている経典と同じであった。傷や汚れのつき方まで一緒だった。
「これが必要かと存じます。返さなくていいですよ。貴方のものですから」
 僧は優しい笑みを浮かべて、そう言った。
 不気味に思いながらも、千慈は礼を言って経典を受け取った。
「あの、もう一つ。外が暗くて歩けないのです。明かりを貸していただけませんか」
「気遣いができず、申し訳ないです。こちらをどうぞ」
 僧は小さな松明を渡した。千慈はもう一度頭を下げ、礼を述べた。
 経典を開く。普段、若い僧と共に読み上げるお経が載っている。千慈はお経を唱えながらお堂を出た。松明で経典と坂道を照らしながら、坂を下る。鬼の足音は聞こえてくるが、もう千慈は焦らなかった。無心で読経しながら歩くうちに、山を下りることができた。千慈は無事、寺に帰ることができた。
 後日。千慈はあの山寺の僧侶に改めてお礼をしに、朝の明るい時に、人を複数人伴って読経しながら山を登った。しかし、坂道にはどこにも寺はなかった。お堂の影も形も見つからなかった。


 千慈の山越えの話は、ほうぼうまで広がった。千慈には法力があるのだと、皆が信じ、尊敬し、誉めそやした。
 しかし、一人だけ、千慈の話を信じない者がいた。
 それは、隣村の寺の僧侶、行庵(ぎょうあん)である。
 行庵は、千慈とは正反対であった。村人を邪険に扱い、まともに読経できないくせに金をふんだくり、若い僧をこき使っていびった。役人や貴族に媚を売るのが上手く、彼らから多額の寄進を受けることで、贅沢三昧の日々を送っていた。村人は、彼を生臭と呼んだ。生臭坊主という言葉があるが、行庵を坊主と呼んだら坊主に失礼だからである。
 さて、行庵の耳にも千慈の話が届いた。話を聞いて、彼がまず考えたことは、
(あの山道は通れるんだな)
 であった。
 行庵は鬼も仏も全く信じていなかったが、地元の民が恐れるあの山には入ったことがなかった。しかし、千慈が山道を通れた。つまりあの道は問題ないのだ。鬼だかなんだかいるらしいが、所詮そいつは坊主一人捕らえられない貧弱な奴だ。腕っ節が強い奴を連れていれば、安全に通れるだろう。
(今度、あっちの方角へ行く時は、山の近道を通ってやろう)
 行庵は小判を数えながら、そう決めたのだった。
 山道を通る機会は、案外早くやってきた。
 山の向こう側に住む貴族から、宴の誘いを受けたのである。行庵は二つ返事で承諾した。安全に貴族の屋敷まで行くため、数人の浪人を用心棒として雇った。
「おい、あの山を通っていくぞ」
 行庵がそう言うと、浪人達の顔色が青なった。
「あの山は鬼が出るという話ですぜ」
「千慈が通れたのだ。我々が通れぬわけがない。お前らの刀は飾りか? 金を払ってるんだから働け」
 宴の前日に、行庵は浪人達を連れて出発した。田んぼの畦道を通り、噂の山へ入った。山中の異様な静寂に、さすがの行庵も寒気立ったが、事前の予定通り、山道を進んだ。そして、山の向こう側へ無事辿り着いた。
「なんだ。噂なんて嘘っぱちじゃないか。鬼も盗賊もいやしない」
 わっはっは、と、行庵と浪人達は山のふもとで大声で笑った。
 上機嫌で貴族の屋敷へ向かった一向は、三日三晩、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎの宴を楽しんだ。四日目の朝に、行庵と浪人達は屋敷を出発した。のんびり道を歩き、午後の遅い時間に、山のふもとに着いた。わいわいと騒ぎながら、山を登った。
 長い上り坂を越え、つづら折りの下り坂に差しかかる頃。
 列の最後尾にいた浪人の一人が、悲鳴をあげて倒れた。何事かと、一向は振り返った。
 巨躯の赤鬼がそこにいた。鬼の足元には、大きな血溜まりがあり、そこに浪人が倒れている。
 真っ先に逃げだしたのは行庵だった。浪人達を押し退け、転がるように坂を走る。一瞬遅れて浪人達も駆けだすが、鬼の方が速かった。
 行庵は無我夢中で走った。背後から、いくつもの悲鳴があがっては消える。一つ、また一つと声は消え、やがて足音だけになった。どんどん大きくなっていく。
(そうだ、経だ)
 行庵は千慈の話を思いだし、経を唱えようとした。しかし口が動かない。まともに修行したことがないため、一言も知らないのだ。
 悪態をつきながら坂を走る行庵。すると、前方に明かりが見えた。寺だ。中に転がりこむ。一人の僧が、大量の書物に囲まれて、座っていた。
「頼む! 助けてくれ!」
 僧は、困惑顔で行庵に相対する。
「私ができることは、あなたが読んだことのある書をお渡しすることだけですが」
「経を! なんでもいいから!」
 僧は棚から一冊の薄い書を取ると、行庵に渡した。それは、行庵の寺に住む坊主の写経だった。行庵が写経させたのだった。
「助かった!」
 行庵は早速、紙をめくる。しかし、きちんと書かれているのは最初だけ。少しめくると、ミミズのような曲線ばかりが続き、途中から完全に真っ白になる。そして最後の方で、また丁寧に経が書かれている。
 行庵にいびられてばかりの坊主が、真面目に写経するわけがないのだ。
「おい、他にないのか?」
「他ですか? 貴方が知っている経となると……探します。少々お待ちを」
 行庵の後ろで、戸が開く音がした。
「あらまあ」
 僧が呟く。それが行庵が聞いた、最後の言葉だった。
 黄昏時の山で、一際大きな悲鳴が響き、消えた。
 それから、行庵の姿を見た者は誰もいない。

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