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第十五話 『受け取りました。どうかお元気で』

 チャイムが鳴る。
「はい、今日はここまで。起立、礼」
 生徒達がバラバラと頭を下げた後、教室内はにわかに騒がしくなる。各々リュックサックやカバンを持ち、我先にと教室を出ていく。これからこの学校は放課後だ。
 山井は、回収したプリントの束を抱えて、生徒達の後から教室を出た。
 廊下で、数人の生徒に話しかけられる。質問内容は、期末テストに何が出るか、そればかりだ。山井は適当にはぐらかしながら、職員室へ向かった。自分の席に座ると、早速プリントの採点を始める。
「失礼しまーす。山井せんせー」
 女子生徒が山井のデスクまでやってきた。
「どうした? テストの範囲は教えないぞ」
「違いますよ。ちょっと面白いものを見つけたんで」
 女子生徒は手に持っていた本を山井に差し出した。
 分厚い小説だ。表紙と題名に見覚えがある。昔読んだことがある本だ。表面がビニールで覆われているので、図書館の本だと分かる。
「これがどうかしたか?」
「これ、ここの図書館で借りてきたんですけど」
 女子生徒は本を開いた。パラパラとページをめくり、途中で止める。
「ほら、これ」
 彼女はページに挟まっていた何かを取り出し、山井に渡した。
 それは封筒だった。子どもの字で山井のフルネームが書かれている。
「これ、先生の封筒ですか?」
 葉書の住所は山井の実家だ。
「そうだよ。昔、栞の代わりに挟んでそのままになってたんだろうね」
「やっぱり、先生のだったんですね! もしかして同姓同名の人のかなとも思ったんですけど、先生のところに戻って良かったです」
 女子生徒は封筒を山井のデスクに置いた。そして「失礼しましたー」と言って去っていった。
 子どもの頃から今に至るまで、山井はその辺にある紙類をなんでも栞代わりにしていた。この封筒も栞代わりの一つだ。これを挟んだまま図書館に返却し、そのままになっていたようだ。学生の頃、足繁く図書館に通っていたから、もしかしたら、今もティッシュやレシートが挟みっぱなしの本がまだあるかもしれない。
 ふと、山井は一人の女性を思いだした。
 着物がとても似合う、美しいあの人のことを。
(早いものだ。あれからもう、こんなに経つのか)
 山井の色褪せた過去を蘇らせた。


 あの頃、山井洋二(やまいようじ)はまだ学生であった。大学のテストやレポート、進路の悩みだと、課題が山積みで、毎日がいっぱいいっぱいだった。
 ある夜のこと。残業を終えた洋二は、繁華街をフラフラと歩いていた。飲みに来たわけではなく、家への近道がこちらだというだけである。立ち並ぶ居酒屋などには目もくれず、自宅へ急ぐ。
 しかし突然、土砂降りの雨に見舞われた。カバンを頭に乗せて走るが、気休めにもならない。洋二はあっという間に濡れ鼠になった。
 息が切れて、屋根があるバス停で立ち止まる。肩で息をしていると、
「あの……山井くん?」
 突然、女性に声をかけられた。
「え?」
 洋二は声の方を見た。
 歩道を挟んだ向かい側に、小さなスナックがあった。その入り口に、薄紫色の着物を着た女性が立っている。
 洋二がきょとんとしていると、彼女はクスリと笑った。
「玲よ。覚えてる? 小学生の時、一緒だった」
 玲。おぼろげながら記憶にある。小学生の頃、同じクラスにいた女子だ。
「ああ、中川さん。こんばんは」
 洋二は愛想よく笑い、頭を下げる。
「ずぶ濡れね」
 中川は傘をさして、山井のもとへやってきた。
「店で雨宿りしてったら?」
「え? いや、それはちょっと……」
 洋二は店の看板をチラリと見た。淡いピンク色の正方形の看板には、『スナック中川』とある。夜の店というのはぼったくりのイメージがある。金が無い洋二には痛い出費になりそうだ。
 洋二の迷いを察したのか、中川は「安心して」と微笑んだ。
「今日は定休日なの。私は帳簿をつけるために来ただけよ。お客さんはいないわ。どうぞ、ゆっくり休んでって」
 急に寒気を覚えた。ブルリと身体が震える。
「そ、それなら……お邪魔します」
 中川が洋二の頭上に傘を向ける。洋二は店内に入った。
 想像より狭い。カウンター席は五席、奥にボックス席が二席。それで全部だ。
「好きな席にかけて」
 中川はカウンターの奥のバッグヤードへ消える。
 座ってくださいと言われたものの、全身びしょ濡れのままで椅子に座るのも気がひけて、洋二はドアの前で立っていた。
 程なくして、中川がバスタオルを持って帰ってきた。
「タオルと着替え。夫の着古した服しかないから、ボロボロでごめんね。良かったら使って」
「いいのか?」
「今晩、夫は帰ってこないから大丈夫。また今度、返してくれたらいいから。私は奥にいるから、着替えたら呼んで」
 中川はまたバッグヤードへ消える。
 ボックス席の向こうにトイレ記号のプレートがついたトイレがある。洋二はトイレで身体を拭き、服を着替えた。襟がずり落ち、肩が見えそうになる。中川の夫は山井より体格がよいらしい。
「さっぱりした。助かったよ」
 トイレから出ると、中川はすぐに奥から出てきた。両手でお盆を持っていた。お盆の上には湯気を立てる湯呑みがあり、彼女はそれをカウンター席に置いた。右から数えても左から数えても三番目の中央の席に。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
 促されるまま、洋二はカウンター席に座った。コップの中身は熱い緑茶で、一口飲むと身体の芯が温まった。ほぅっと吐息が漏れた。
「こんな遅くまで仕事?」
「いや、レポートやってた。学生なんだ」
「夜遅くまで勉強かぁ。大変だね」
 雨が降る間、洋二は中川と他愛ない話をした。お互いの日常や、小学校の頃の思い出話、同級生の近況など。話題は尽きず、大いに盛り上がった。
 外から雨音が聞こえなくなった頃、洋二は席を立った。
「また今度、服を返しにくるよ」
「はーい。待ってるよ」
 中川は出口に立ち、洋二を見送った。
 一週間後。洋二は服を返しにスナックへ立ち寄った。中川は温かく出迎えてくれた。二人きりの店内で雑談に興じた。
 またある夜、洋二がスナックの前を通りがかった時、戸口の掃除をしていた中川に呼び止められた。そしてまた、店内でお喋りをした。
 いつしか、毎週水曜日の夜、スナック中川に寄ることが、洋二の習慣となった。
「こんばんは、玲ちゃん」
「お仕事お疲れ様です、洋二くん」
 お互い、下の名前で呼ぶようになった。『中川さん』から『玲ちゃん』へ、『山井さん』から『洋二くん』へ。
 何も問題はない。ただの大人二人が雑談しているだけである。定休日だから酒や接待を受けず、飲み物は常にお茶や水だ。ただ楽しく話すだけ。普通のことだ。
 お互いの趣味について話すことが多くなった。洋二はよく本を読んだが、玲も読書家だった。客との会話の種を仕入れるために、読むらしかった。お互い、本を貸し借りした。
「おすすめの本はある?」
 玲に尋ねられ、山井はカバンから本を取り出した。
「今読んでるのは、この前図書館で借りた──」
 本からヒラリと小さな紙が落ちた。コンビニのレシートだった。
「それは?」
「レシート。栞代わりの。レシートとか封筒とか、いつも適当なのを挟んでるんだ」
「それ、私もよくやるよ。栞って、使いたい時に限ってないんだよね」
「だよな」
 ふと、玲が洋二の湯呑みを見た。湯呑みは空だった。
「お茶のおかわり、淹れるね」
 玲が急須で洋二の湯呑みにお茶を注いだ。彼女の色白の手を、洋二は見つめた。桜色の爪が綺麗だった。茶の匂いに混じって、花の香りがした。玲の着物からは、いつも花の香りがしたものだった。
 湯気が立つお茶を啜りながら、洋二は玲の顔を見た。口元にいつも微笑みを浮かべた、上品な顔立ち。後ろに結いあげた、一房の乱れもない髪。
(──ん?)
 彼女の左のこめかみに、青アザがあった。化粧で隠そうとしたみたいだったが、うっすらと見えた。
「左のここ、どうしたんだ?」
 洋二は自分の側頭部を指でトントンと指しながら尋ねた。
「これ? 転んだの」
「大丈夫?」
「大丈夫。全然大した怪我じゃないよ。気にしないで」
「そうか。ならよかったけど……」
 話はそれきりで、別の話題にうつっていった。
(普通、転んだ時にこめかみを打つだろうか?)
 洋二の頭の隅に浮かんだ疑問は、ずっと残り続けた。
 何か悪いことが起きているのでは──そんな気がしたが、しかし家庭の事情に踏み込むことはできなかった。それができるほどの仲でもなかった。不安を隠して、洋二は玲の店に通い続けた。
 玲との和やかな会話と本の貸し借りが、洋二の活力となった。
 将来の不安に押し潰されそうになっても毎日を乗り越えられるのは、玲との楽しい時間があるからだった。
 少しでも面白い出来事があったら、こんなことを話そうと記憶にとどめた。玲に紹介された本を、激務の合間を縫って手に入れた。眠れない時は玲の声と姿を思い浮かべた。彼女がそばにいるという理想の日々を想像した。
 ある水曜日の夜のことだった。
 いつものように店に行ったが、明かりがついていなかった。しばらく待ってみたが、看板は暗いままだった。今日は来ないのか、それとも遅れているのか。連絡をとろうとして、携帯電話の番号もメールアドレスも交換していなかったことに気がついた。
 洋二は店の前をうろうろ歩き、やがて店の裏側へまわった。様々な店の裏口が並ぶ路地で、とても暗く、換気扇の音がうるさい。携帯のライトで足元を照らしながら、スナック中川の裏口を見る。
「あ!」
 裏口のドアの前に、座り込む人影があった。玲だ。いつもの着物ではなく、白いシャツとジーンズ姿だった。
 彼女はぱっと両手で顔を隠したが、洋二だと分かると、ゆっくりと両手を下ろした。
「洋二くんか……店を開けなくてごめん」
「そんなことどうでもいいよ! それより、どうしたんだい、その顔は!」
 玲の左の頬は赤く大きく腫れ上がっていた。鼻の下や唇の端にも血がこびりついている。
「大した怪我じゃないよ、大丈夫」
「いや、病院行こうよ!」
「大丈夫。保険証も持ってないし」
「なら、せめて冷やすかなにか手当てをしよう。店の中に入ろう。氷があるだろ?」
「鍵がなくて」
「一体、何があったんだ? 警察を呼ぼうか?」
「警察なんていい。少し夫と喧嘩しただけだから」
「け、喧嘩?」
「私が悪いの。大丈夫」
 洋二は玲の隣に座った。
「俺でよかったら、力になるよ。貴女を助けたい。どうか話してくれないか?」
 玲は、ポツポツと話し始めた。
 内容は、よくある話ではあった。暴力を振るう夫。抵抗できずいいなりの妻。その時も、不機嫌になった夫に金をよこせと殴られ、鍵も財布も持たされずに家の外に放り出されたとのことだった。
「いきなり二十万よこせ、と言われて。どうしたらいいのか、私にはもう……」
 玲は背中を丸めてすすり泣いた。
「玲ちゃん。俺のところに来ないか?」
 言ってから、洋二はとんでもないことを口走ったことに気づいた。しかし、もう引き返せなかった。
「俺が玲さんのそばにいる。絶対に泣かせない」
「そ、そんな。駄目だよ。あ、貴方に迷惑が……」
「迷惑じゃない」
 洋二は一呼吸置き、玲の顔を正面から見据えた。
「玲さん、俺は貴女が好きです。どうか、俺のそばにいてくれませんか」
 玲はすぐに答えなかった。
 洋二の指先に温もりを感じた。彼女の手だ。
「ありがとうございます。是非、一緒に」
 玲が洋二の方へ身を寄せた。洋二は両腕を彼女の背中にまわし、抱擁した。彼女はとても冷たく、凍えていた。
「今の夫から逃げよう。俺と一緒に」
「でも、どうやって? 財布も保険証も、何もないの。夫に取られてしまって。お金を用意するまで家に入れてくれないし」
「お金なら俺が貸すよ」
 洋二には、バイトをして貯めた金があった。
「その金を使って夫を宥めたらいい。夫が寝たら、家を探して必要なものを取って、逃げるんだ」
「できるかな……」
「できる」
「夫にバレてしまったら……」
「大丈夫だ」
 お互い、より腕に力をこめて抱きあった。息づかいが聞こえた。
 やがて、玲が先に、洋二から身体を離した。
「そろそろ行かないと。家に帰らなきゃ」
「よし。行こうか」
 洋二は近場のコンビニに行き、ATMで金を引き出し、封筒に入れて玲に渡した。
 コンビニを出た後、夜道を歩いた。大きな交差点の前で「私の家はこちらの方角だから」と玲が言った。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫。覚悟を決めた。うまくやるわ」
「俺はそこのファミレスで待ってるよ。頑張って」
 洋二は、闇夜に消えていく玲の背中を見送った。彼女の姿が見えなくなると、交差点にある二十四時間営業のファミレスに入った。適当な料理とドリンクバーを注文し、時間を潰した。
 深夜零時。日付が変わった。玲は来ない。
 深夜一時。まだだ。
 深夜二時、三時、四時。まだ来ない。
 明け方五時、六時。空の端が白くなってきたが、彼女は来ない。
 朝七時。来なかった。
 その日、洋二は玲と会うことはなかった。
 数日後。
 洋二はテレビニュースで、彼女の名前と顔を見た。
 中川玲は、結婚詐欺で逮捕されたとのことだった。


「山井先生、すみません。これ、来週の資料です」
 背中から呼びかけられ、山井は我にかえった。同僚の教師が書類の束を持って立っていた。礼を言って受け取る。
(いけない、いけない。仕事をしないと)
 渡された書類に目を通す。しかし、全然集中できない。まだ彼女のことを考えてしまう。
 あの後、警察官が家に来た。
 彼らは、玲について色々と話をしてくれた。
 玲は詐欺グループに所属し、組織ぐるみで犯罪をしていたこと。
 最近、グループ内で仲間割れが起きていたこと。
 山井が玲と会った日、とうとう構成員の間で暴力沙汰が発生したこと。
 深夜、警察官が、顔に怪我をしていた玲を保護したことから、グループの逮捕につながったこと。
 玲は、山井に借りた二十万円を返すつもりであること。
 山井はただぼんやりと、彼らの話を聞いてた。まるで現実味がなかった。怒ったり嘆いたりすべきなのだろう。しかし、感じたのは、玲がもう怪我を負わないで済むという安堵と、じんわりと悲しみだった。
 玲の裁判にも行ったが、そこで見た彼女は、店でお喋りしていた彼女とはまるで別人のようだった。顔立ちは一緒なのに、雰囲気がまるで違っていた。
 玲との時間は夢だったのでは、と思うこともあった。しかし、山井の本棚には一冊分の空洞があった。彼女に貸したまま返ってこなかった本の空洞だ。金は返ってきても、本は返ってこなかった。彼女が言うには古本屋に売った、とのことだった。
「──休憩するか」
 山井はわざとらしく声に出し、ぐぐっと背伸びをすると、席を立った。
(学校の近くのコンビニで甘いものでも買おう)
 職員室を出て、人気のない廊下を歩きながら、物思いにふける。
 あれから、時は流れた。山井は学生から教員になり、県内を転々とした。毎日とても忙しい。今ではもう、返ってこなかった本の題名すら、よく覚えていない。
(もう会えないだろうが……せめてあの本の題名くらいは思い出せたら、慰めにもなるだろうか……)
 ガタン、と音が鳴った。思い出に浸り過ぎて、前が見えていなかった。足元のなにかを蹴ってしまった。
「おっと。なんだこれは?」
 それはよくカフェに見かけるタイプの、小さな立て看板だった。手書きの文字で『新月書林』と書かれている。
「誰だ? こんなの置いたのは」
 看板のそばの教室の窓を覗く。
 山井は言葉を失った。
 教室に、大量の本棚が並んでいる。
 図書室は別の階にある。ここはただの教室だったはずだ。
 山井は慌てて教室の中に入る。
 幻ではない。確かに本棚がある。
「いらっしゃいませ」
 入り口の横には長机が置かれていて、机の奥側に一人の男性が座っていた。見かけない顔だ。この学校の教員でも職員でもない。
「誰だ、お前は! 学校でなにをしてるんだ!」
「ここは新月書林です。お客様がお探しの本をご提供する本屋でございます」
 男は、長机に積まれていた一冊の本を、山井に差しだした。
「こちらです。どうぞお受け取りください」
 本の表紙が目に飛び込む。
 山井は驚愕した。
 それは、玲に貸したまま、返ってこなかった本だったからだ。
 どの表紙も題名も見覚えがある。うっかりこぼしてしまったコーヒーの染みの位置まで同じだ。
「どうやってこれを用意したんだ? おい、一体、どういうことなんだ、これは!」
 山井は本を持ったまま男に詰め寄った。
「一言で言えば、ここは魔法の本屋ですね。あまり難しいことは考えない方がよろしいかと。さ、どうぞ」
「そんな言い訳が通用すると──」
 山井が持つ本のページの隙間から、パサッと何かが落ちた。自然とそれに視線が向く。
 茶封筒が床に落ちていた。
『山井洋二様』
 表の面に、そう書かれている。
 山井はすぐに拾い上げる。封はされていない。中には、白い三つ折りの便箋が入っている。
『山井洋二様

 ごめんなさい。
 せめてこの借りた本だけでもお返ししたかったのですが、色々あってできそうにありません。
 私はこの本を手放します。他の人から人に渡って、そしてどうか、本来の持ち主に届きますように。
 貴方への気持ち、ただそれだけは本物でした。

中川玲』
 その短い手紙を、山井は何度も何度も読み返す。
「お客様。そろそろお帰りの準備をお願いします。あまり長くここにおられると、帰れなくなってしまいます」
 男に促され、山井は便箋を本に挟んだ。その本を持って教室の外へ出ようとする。
 しかし出口の前で、ふとあることを思いつき、立ち止まった。振り返って男に尋ねる。
「すみません。まだ探してる本があるんだ」
「なんですか?」
「俺が昔、玲に貸した本です。後、俺が玲から借りた本。他にもあったはずです」
「急いで用意して参ります。お待ちください」
 男は本棚の奥へ向かった。
 山井は胸ポケットからメモ帳とペンを取り出した。急いで手紙を書く。
「お待たせいたしました。さあ、どうぞ、お受け取りください」
 男が大量の本が入った台車を押して帰ってきた。
「もう少しだけ待ってくれ。まだ手紙が書けてないんだ」
「もうお帰りの時間です。窓の外をご覧ください」
 男は廊下側の窓を指し示した。窓の外は、うっすらと白い靄がかかり、はっきりと廊下が見えない。靄はどんどん濃くなっていく。何がなんだかさっぱりだが、非常に悪い状況になりつつあると、嫌でも分かる。
「今ならまだ帰れます。さあ、早く」
 山井は、短い文章を一つ書いた。そのページを破る。
 それから、台車の中の数十冊の本の中から、一冊の本を適当にとった。本当はゆっくり本を選びたいところだが、時間がない。選んだ本に、破ったページを挟んだ。
「もしも玲がこの本を探しに来たら、この挟んだ紙ごと渡してほしいんだ」
「承知しました」
 男は本を受け取り、笑顔を浮かべた。
 山井は教室を出た。
 振り返ると、そこはただの空き教室に戻っていた。男も書架もない。跡形もなく消えている。
 しかし、山井の手には、玲に貸したままのはずの本が、確かにある。封筒と手紙も挟まっている。
 山井は本を胸に抱え、その場を去った。

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