top of page

プロローグ-1

 平々凡々な小国ティルクス。
 王都の片隅に立つ、小さな図書館の最奥の部屋。
 そこに第五王女、アンナはいた。
 三方を本棚に囲まれ、窓はない。本棚は丈夫な樫の木でできており、分厚い革表紙の本が一分の隙間もなくしまわれている。
 部屋の真ん中には小さなテーブルがあり、そこには白い紙が何枚も広げられている。二十代前半の女性──アンナが傍らの蝋燭の明かりを頼りに、一心不乱に鵞ペンで何やら文章を綴っている……かと思えば、ペンを置いて難しい顔で何かを考えこむ。
 アンナの顔貌はこの国でよく見られるものだ。色白の肌に、高くも低くもない鼻、丸っこい緑の目。王女という肩書きから想像される、華やかな顔ではない。
 しかし髪型は全く普通ではない。彼女の黒髪は、長さが耳の下までしかないのである。神官以外にこんな短髪はあり得ない。
 そして服装もおかしい。王族としてはあまりにも質素だ。古い灰色のワンピース。靴はくたびれたブーツ。町娘だってこんな格好はしない。
 本棚をおいた牢獄で斬首を待つ王女が、回顧録を書いている──そんな比喩が似合う光景である。
 もちろん、実際はそうではないのだが。
(クライマックス、どうしようかな? 丁寧に書いてると枚数オーバーになる。とはいえ、端折るわけにも……)
 王国の第五王女。その裏の顔は、覆面小説家である。
 とは言っても売れっ子ではない。二十回に一回、短編が採用されるかされないか、というレベルである。しかし金を何度かもらい、同人仲間と一緒に本を出版し、ファンレターも受け取ったことがある。だから立派な小説家だ。アンナはそう考えている。
 ちなみにこの部屋は、図書館長でもある彼女が毎日借りきっている。ここが一番執筆活動に集中できるからだ。短髪なのは、長いと手元が影になって邪魔になるから。質素な服は、楽だから。
(そうだ、神殿のシーンを削ったらうまくおさまるかも)
 アンナは紙の山をガサガサと探り、一枚を取り出すと、鵞ペンで勢いよく線を引き、満足げに頷く。
 その時、部屋の外からバタバタと足音が聞こえてきた。それはどんどん近づき、ほどなくして小部屋のドアが勢いよく開かれた。
「アンナ様!」
 アンナは紙から顔をあげた。一体どこのどいつだと、怒りの目で侵入者を睨む。しかしその人物を見たとたん、彼女はパチパチと瞬きをした。
「レース、どうしたの?」
 初老の女性だ。白と黒のシンプルなエプロンを着ている。二人しかいない使用人の一人であり、乳母でもある。仕事ぶりはとても真面目で、ドタバタ走ったりいきなりドアを開けたりしない。
「た、大変です! アンナ様」
「おちついて。何があったの?」
 レースは肩で息をしながら答える。
「こ、国王様の使者が先程いらっしゃいまして。エレア王国のディーロ王子とのご、御結婚が決定した、そうです」
 言葉の意味を理解するのに、少しばかり時間がかかった。
「七日後、エレア王国へ出立するようにと」
 レースは一枚の紙を差しだした。立派な紙に、今言われた通りのことが書かれている。
 アンナは信じられないとばかりに首を横に振る。
「二十四歳で、短髪の、図書館にこもりきりの人間を嫁がせる? 何かの間違いか、イタズラじゃないの?」
 王族は遅くても二十歳までには結婚する。そして女性というものは髪の毛が長く、文字の読み書きなどしない生き物だ。アンナは変人の烙印を押された、王家から干された姫である。
(しかもエレアだって? 絶対に嫌だ)
「届けにいらした使者は、王宮の官吏の制服をお召しになられておりました。イタズラとはとても思えません」
「……父上に会わなくては」
 アンナは紙を束ねてテーブルの隅に置いた後、小部屋を出た。ドアの横に立っている護衛、ヨールに言う。
「いきなり結婚が決まったとかで、七日後に出立せよ、だって」
「は?」
 柔和な印象を与えるヨールの細い垂れ目が、この時は大きく見開かれた。
「あの、失礼を承知で申しあげますが、何かの間違いでは?」
「それを確かめる。今から王城へ行くよ」
 廊下を抜け、書架が立ち並ぶ広間に入る。壁に等間隔に設置された松明が、本を赤々と照らす。
 その光を背に、せっせと本の整理をしている十代後半の女性がいる。アンナは彼女の肩を叩いた。
「ミア」
 一瞬の間を置き、ミアは振り返った。
「はい、どうなさいましたか、アンナ様」
「今から父上の所へ行く。着替えを手伝って」
「はい。でも、どうして?」
「エレアの王子と結婚しろって手紙が来たからよ」
「そうですか──え、けっこん? けっこんって、あの結婚ですか?」
 驚きのあまり、抱えた本を落としそうになるミア。
「えっと、本はどうしましょう?」
「後でやればいいよ。今は急いで」
 言い終わる前に、アンナは図書館の玄関へ向かう。ミアは大慌てでついていった。


 図書館の向かいにあるアンナの家でよそ行きの服に着替えた後、馬車に乗って王宮へ向かった。ヨールに馬の世話を任せ、役人に身分を明かして王に取次を願った。長い間待たされた後、テーブルと椅子とカーペットしかない、簡素な部屋に通された。ここで待つようにと言われ、役人は立ち去る。アンナは椅子に座った。レースとミアはアンナの背後に立つ。
 程なくして、ミアが口を開いた。
「アンナ様。どこのどなたと結婚されるんですか?」
「エレアの王子」
「エレアって、野蛮で物騒で、住んでる人はみんなブサイクで守銭奴で短気で優しさの欠片もないって」
「よくそこまで悪口を言えるね」
「違うんですか?」
 ミアは悪意の欠片も無い、明るい声で尋ねた。市にある胡散臭い本の中身や路地裏の落書きを、ただそのまま口にしただけなのだろう。
「私も詳しくはないけれど、そこまで酷い国じゃないと思う。エレアの本を読んだことがあるけどどれも面白かったよ。野蛮な人間にあんな物語は書けない」
 それに、とアンナは心の中で続ける。
 みんなには内緒だが、エレアからファンレターが届いたことがある。六年前に作ったあの合作本は全く売れなかったが、どういうわけかエレアに流れ着いていたようで、四人それぞれに対して丁寧な手紙を送ってくれた。アンナにとって人生で最も嬉しかった瞬間である。
「じゃあエレアが悪い国っていうのは、嘘ですか?」
「うん、九割がた嘘。でもそういう嘘が出回るのはね、この国とエレアの仲がすごく悪いからだよ」
 数百年前の小さな領土争いに端を発する、幾度もの戦争の結果だ。今は落ちついているが、両国の人間は互いを嫌っている。
「悪いんですか。何でそんな所に嫁ぐんですか?」
 理由はある程度推測できる。しかしアンナは口にしない。喋ってしまったら「嘘であってほしい」というささやかな願いが叶わなくなりそうだからだ。
「さあね。すぐに分かるよ」
「そうですか。しかし、急に外国の誰かさんと結婚なんて、迷惑な話ですね」
 みんなの心中をミアが言ってのけた。
 話が終わり、部屋は静かになる。季節は春。穏やかな風が窓から入ってくるというのに、アンナの手には嫌な汗がにじむ。深呼吸し、気分を落ち着ける。
(焦るな。弱いところを見せるわけにはいかない)
 しばらく待っていると、ドアがノックされ、一人の男が入ってきた。レースとミアは緊張した面持ちになる。一方、アンナは怪訝な表情を浮かべた。
「お待たせしました」
 入ってきたのは、父親ではなかった。服装から高位の役人であることは分かるが、アンナの知らない人間だ。
「私は第五王女、アンナです。貴方はどなたですか?」
「私は内務局員のジェードです。陛下はお忙しく、代理として私が参りました」
 ジェードは淡々とそう告げると、アンナの向かいに座った。
「さて、婚姻の件ですね」
「はい。あまりにも突然の話で驚きました。本当なのですか?」
「はい。お知らせが遅れたことについては、大変申し訳ございません。こちらの調整が難航しまして、ギリギリにお伝えすることになってしまいました」
 台本を読み上げるかのように言うジェード。
「わが国ティルクスと隣国のエレアは和平条約、および軍事同盟を結びました。目的はパルフィアへの牽制です。同盟の象徴として、エレアの第四王子、ディーロ・サラ・デ・エレア様との婚姻が取り決められました」
(やっぱり)
 パルフィア。ここから東にある国だ。元は森ばかりの名も無い田舎だったが、更に東のオーリン地方から製紙法が伝わり、パルフィアでは紙の生産が盛んになった。パルフィア産の紙は羊皮紙より薄くて書きやすい。ロ飛ぶように売れた。
 そして巨万の富を手にしたパルフィアはめきめきと力をつけ、急速に勢力を伸ばしている。
「何故私が? 私は同盟の象徴には向かないと思いますが」
「第六王女は来月ジョン公と結婚されますし、第七王女は許嫁がいらっしゃいます。他にいないのです」
「私を差しだして済むような同盟ならば、もっと遠方の家の者で良いのでは?」
 我ながら酷いことを言っている、とアンナは思う。
 しかし、ジェードの態度は変わらない。
「他の方々も同じように結婚されていたり婚約者がいらっしゃったりするのです。ご質問は以上ですか?」
(覆せるわけないか……)
 アンナは心の中でがっくりと膝をついた。
「出発は七日後ですよね。移動はどうなるのですか?」
「朝、屋敷の前に馬車がお迎えに参ります。エレアの王都エシューまで、ここから馬車でおよそ五日になります。荷物の詳細は、後ほどこちらにお知らせください。ただし」
 ジェードは声に力を込める。
「本は禁止です」
「は?」
「ですから、本は禁止です。エレアの法律で、持ち込める本は、神殿の経典のみです。それ以外は全て禁書の扱いを受けます。アンナ様の所持する本は大半が禁書かと。国境をスムーズに超えるためにも、本は持ちこまないでください」
 アンナはショックのあまり口をパクパクさせた。
「良いですか? アンナ様。本は禁止です」
「……わ、分かりました。どうもありがとう。それでは、ごきげんよう」
 アンナは椅子から立ち上がった。レース達と共に部屋を出る。斜陽が差す回廊を無言で歩き、馬車まで戻る。待っていたヨールが「どうでしたか」と尋ねた。
「エレアと同盟を結ぶらしい。その証として私が行くことになった」
「そうですか」
 それ以上ヨールは何も聞かず、馬車のドアを開けた。
「家に帰るから」
「はい」
 三人を乗せると、馬車が走りだす。
 アンナは窓から外を見た。
 窮屈そうに並ぶ石造りの家。店じまいを始める露天商。賑わい始める酒場。なんてことのないこの街並みが、今は酷く愛しく思えた。

_i_icon_12248_icon_122480_256.png
_i_icon_12249_icon_122490_256.png
bottom of page