第一章-1
旅は順調に進んだ。
馬車は大街道を南へ走る。丘の向こうまで続く麦畑の景色を、アンナは馬車の中から暗い目で眺めた。これが旅行だったら楽しめただろうが、あいにくとそうではない。
国境の川を一日かけて渡り、そこでエレアの馬車に乗り換えた。エレアの馭者兼案内人は無愛想だったが、気にしないことにした。元々敵国なのだから、歓迎されなくて当然だ。
エレアに入ってからも、のどかな風景は続いた。故郷は麦畑が中心だったが、ここは牧場が多い。
「王子の住まわれる所って、どんな所なんですか?」
三日目の昼食時。ミアは馭者に尋ねた。
「王子は王都の北にあるネラシュ村のネラシュ離宮に住んでいる」
「ネラシュ村ってどんな所なんですか?」
「羊がいる所だ」
「王子はどんな方です?」
「知らん」
アンナは近くで聞き耳を立てていた。言葉遣いと声色からして、王子は蔑まれているようだ。
(まあ、いき遅れを妻にあてがわれるくらいだがら、ロクでもない奴に決まっているか)
お先真っ暗な状況を、一周回って愉快に思いながら、アンナは水っぽい粥を口に運んだ。
そして五日目。アンナは王子側の出迎えを考え、正装することにした。翡翠が散りばめられた白いドレスを着て、ベールを被った。
夕方、馬車はネラシュ村に入った。馭者から聞いた通り、牧場が広がるのどかな村だ。
馬車は丘の上にある灰色の建物へ向かう。
(宮殿……じゃない。壁?)
随分高い壁だ。中の様子は見えない。大抵の王宮の壁は、外敵排除のために高く作られているが、この壁は何か違う意図を感じる。
(何か、中から人を出さないためみたいだな)
馬車は門の前に止まる。当然きっちり閉ざされている。門の横には訪問者が鳴らすベルと勝手口がある。御者がベルを鳴らすと、しばらくして勝手口が開いた。二人の人間が出てくる。一人は家政婦、一人は従僕。馭者と一言二言話すと、彼らはこちらに近づいてきた。二人とも、顔がよく似ている。彼らはおそらく双子だ。
「初めまして、奥方様。私は従僕であるレオと申します」
レオが胸に手を当てて挨拶する。続いて女が口を開く。
「私は家政婦のマオと申します。こちらへどうぞ」
アンナ達は勝手口をくぐった。
壁の中の屋敷は、離宮とは名ばかりの、小さな家だった。木造の二階建てで、かなり古く、ボロボロだ。本当にあそこなのかと御者に問うと、そうですと無情な答えが帰ってくる。出迎えは期待できそうにない。
足元から屋敷の入り口まで、点々と敷石が続いている。それ以外には何もない。木々も草花もない。剥き出しの地面が広がっている。
マオが玄関扉を開け、アンナ達は中に入る。狭いし暗いが掃除は行き届いている。廊下の突き当たりの階段を上り、右手の部屋に入る。
「ここが奥方様の部屋でございます」
マオが言った。
ベッドと簡単なドレッサーだけの狭い部屋だ。窓は南向きで、鉄格子がハマっている。日中は日差しがよく差しこむに違いない。
(本を置くことなんかまるで考えてない部屋だ)
アンナは心の中でため息をつく。
「アンナ様、殿下にお会いになってはいかがですか? 私が荷ほどきしていますから」
レースが言った。すると、レオが首を横に振る。
「殿下はお会いにならないでしょう」
「何故?」
「殿下は部屋の扉をお開けになりません。今まで一度たりとも。誰も殿下の居室に入ったことはございません」
「な、ええ?」
アンナの口から素っ頓狂な声が出る。
「それなら殿下は普段どうされてるの?」
「部屋からお出にならないので存じ上げません」
いよいよ何を言っているのか分からず、アンナは首を傾げる。
「日頃の食事やお仕事は?」
「食事やお仕事のやり取りは、ドアの下部に作られた小窓を通して行われます」
「よく分からないけど、とにかく一度ご挨拶しないと。連れていってくれる?」
「かしこまりました。こちらです」
マオは無機質な声でそう言い、ほっそりした腕を廊下へむけた。