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第一章-2

 アンナが案内されたのは廊下の突き当たり、ちょうどアンナと反対に位置する部屋だ。他よりも一際ドアが大きい。
(何だろう、ここだけ一等空気が重いような)
 アンナはゴクリと唾を飲むと、ドアをノックした。少し待ってみるが、返事はない。
「お初にお目にかかります」
 ドアの前で口上を述べる。実際はお目にかかってすらいないが、こういう状況の正しい挨拶など、どこの本にものってない。
「私、ティルクス王国より参りました、アンナと申します。今後、殿下を公私ともにお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
 再び待つが、やはり返事はない。駄目か、と思ったその時、ドアの向こうからかすかに足音が聞こえてきた。そして足元の窓が開き、一枚の紙が滑り出てくる。アンナは拾いあげた。
『僕に構わないでくれ』
 たった一行、そう書かれている。
(うわあ、すんごいガッサガサな紙だ。今時、町の人ももっといい紙を使ってるのに。久々に見た)
 少し気になるが、しかし、今は紙の臭いよりも会話が優先だ。
「構わないでくれとおっしゃいましても、貴方の妻になった以上、お顔だけでも拝見したいのですが」
 少しして、また紙が出てくる。
『僕は顔をあわせたくない。お願いだ、放っておいてくれ。なんなら離婚してもいい。君も好きでこんな所に来たわけではないだろう』
 段々アンナは腹が立ってきた。
(確かに好きで来たわけではないけど、この態度は一体何? それに離婚なんか出来るわけないでしょ。王族同士の結婚なんだから)
 心中をブチまけたいのをぐっとこらえ、綺麗な声色を作る。
「そう仰らずに。これも運命です」
 すると、また一枚紙が出てきた。
『放っておいてくれ!』
 殴り書きで書かれていた。
「……かしこまりました。今回はお部屋に戻ります。それでは」
 紙はもう出てこなかった。アンナ達は早足でその場を離れ、寝室に戻った。
 想像以上に早い主人の帰りに、使用人達は目を丸くした。
「どうされたのですか?」
「殿下に挨拶してきた。結果はこれ」
 紙を机に並べる。レースとミア、ヨールはもう、「はあ」「ええ……」「これは何とも」と言った。
「えーと、ということは、殿下にはお食事とお着替えだけを持っていけばいいのでしょうか?」
 ミアの問いにマオが答える。
「それは私とレオで行います。あなた方がする必要はございません」
 口ぶりは冷淡そのものだ。感情というものがまるで見えてこない。
「さて、そろそろ屋敷の説明をしたいのですが、よろしいですか?」
 マオの強制に近い問いかけに、一同は頷くしかなかった。


 屋敷は一階、二階共に五部屋。地下に台所と使用人のための部屋がある。屋敷の外には井戸と物干し竿のみ。
 三日に一回、食糧や雑貨を届けに馬車がやってくる。その時だけ、裏門が開かれる。正門は滅多なことがない限り開かない。
「ただし、明日は王宮で奥方様も歓迎するお茶会が開かれますので、お迎えの馬車がやってきます」
 レオは淡々と告げた。
「そうなの? 初耳だけど」
「申し訳ありません。もっと早く告げるべきでした。ともかく、明日はお茶会です。なお、明日以降の外出は、特別な理由がない限りお控えください。危険ですので」
「分かった」
 屋敷を見終わり、アンナ達は一階の食堂……とは名ばかりの小さな部屋で、マオが作った夕食のスープを食べた。
「私達はいつも、同じテーブルでご飯を食べるんです。レオさんとマオさんもどうですか?」
 ミアがそう誘ったが、二人は固辞し、地下の使用人部屋へ下がった。
 四人だけでテーブルを囲み、スープをすする。美味しそうな顔をした人間は一人もいない。
「どうするんですか、アンナ様」
 レースが言った。
「どうするって、何を?」
「殿下のことです」
「今はどうしようもないよ。様子見するしか」
「殿下は何をされていらっしゃるのでしょう。よほど面白い本でも読んでらっしゃるんですかね?」
 間抜けな問いかけをしたのはミアだ。
「さあね。外に出たくない、誰とも話したくない。それじゃ何にも分かんないよ」
「ならきっと暇ですね。本とか差し入れたら喜ばれるかもしれません」
 悪くない案だ。しかし現在、本は一冊も持っていない。
「殿下のことも気になりますが、この屋敷も気になります」
 レースは顔をしかめる。
「ここは高貴な身分の方が住まわれる場所です。なのに、使用人が二人だけで、警備もいません。本当にここに王子がいらっしゃるのでしょうか」
「警備ならいるよ。あの双子だ」
 ヨールが言った。
「そうなの?」
「ああ。歩き方や雰囲気が兵士だった」
「あの二人が使用人と護衛を兼任しているってこと? でもどうして? 普通に使用人と護衛をそれぞれ雇ったらいいのに」
 アンナはため息をついた。
「他所者にはわかりっこない、面倒な事情があるんでしょ。今はこの屋敷でうまくやっていく方法を考えよう」
 それから明日の予定などを一同は話しあった。
 夕食を終えると、アンナは二階の自分の部屋に戻った。シュミーズ姿になり、ベッドに横になる。今までの疲れがどっと押し寄せてくる。
(さっさと寝よう。明日からは忙しいよ)
 瞼を閉じ、毛布を頭まで被る。
 しかし、程なくしてアンナはベッドから起きあがった。月明かりを頼りにテーブルに近づく。
(あの紙……)
 ディーロの紙が頭の中にずっと引っかかっている。気になって全然眠れない。
 アンナはろうそくに火をつけ、紙をよくよく観察する。紙は粗悪品。この粗悪品の紙をどこかで見たことがある。図書館の業務ではなく、別の場所で。それに文字もどことなく見たことがある気がする。
 しかしいくら考えても分からない。
(こういう時は気分転換した方がいい。何しようかな……そうだ)
 友人に手紙を書かなければ。無事着いたことの報告を──。
(手紙?)
 アンナの頭の中でチカッと何かが光る。それは雷となって背筋を駆け抜けた。
「あ!」
 カバンの中から鍵付き箱を出した。懐の鍵で蓋を開ける。そこには六年前にもらったファンレターが入っている。
 アンナはファンレターとディーロの言付けの紙をテーブルに並べた。ファンレターの筆跡とディーロの筆跡は、そっくりだ。紙も同じだ。
『この紙、すごくボロボロね。でも、字はとても綺麗。とても苦労されている方が書いたのね』
 小説仲間はそう言っていた。
 そして、ファンレターに書かれた送り主の名はネラシュ村のディーア。
(農村に香水が出回っているはずがない。香水を買えるほど財力がある人間は、おそらくこの辺りでただ一人だ)
 アンナは息を飲む。
(間違いない。これはこの国の王子、ディーロ・サラ・デ・エレアの手紙だ)
 今日はもうこれ以上驚くことはあるまいと、アンナは思っていた。しかし上には上が存在する。もの凄い偶然もあったものだ。
(だけど、やっぱりおかしい)
 書いたのが自分だと悟られないために女のふりをして手紙を書く、というのは分からなくもない。例えば貴族が身分の低い愛人にこっそり手紙を送る場合、度々そういう偽装を行う。しかし、ファンレターで性別を偽る必要性はない。
(どうして?)
 アンナは何度も読んだファンレターをもう一度読む。そして、ある一文に目が止まった。
『精霊の不思議な力で変身して、お姫様になるシーンが一番好きです。私もお姫様になりたいです。そして舞踏会で綺麗なドレスを着て、王子様とダンスしたいです』
 アンナは今まで数多の本を読んできた。その中には少なからず、『良識ある人間』が激怒するであろう、『背徳的』なものもあった。
 例えば肉体は男で魂は女の主人公の小説、とか。
(偽装とか、そんなんじゃない。これが、この手紙に書かれている事こそが、ディーロ、いや、ディーアの本心だ)
 アンナは天井を仰いだ。
(これは……気づきたくなかった)
 無数のシミが顔となり、アンナをあざ笑っているように見えた。

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