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第一章-3

 天井のシミの顔を見ているうちに、それはいつしか、幼い頃にアンナが会った大神官の顔に変化していった。
「……こうして、男神ヨラが昼を、女神シラが夜を支配することになりました。昼の生き物をヨラが、夜の生き物をシラが創られました」
 大神官の低い声が、幼いアンナの眠気を誘う。
「最後に、ヨラとシラは力を合わせ、御自らの姿に似せて人間を創られました。我々はヨラとシラの子です。二柱の神は互いへの慈愛と調和でもって天地を創造されました。神の子である我々も、調和を保たねばなりません。嘘をついてはなりません。秘密を作ってはなりません。争いをしてはなりません。盗みをしてはなりません。無意味な殺生などもってのほかです」
 そして、と大神官は続けながら、ギロリとアンナを見た。アンナの目と大神官の目が真っ直ぐ合う。アンナはヒッと息を飲んだ。心臓が早鐘を打っている。
「成熟した男性と女性は互いに思いやり、心を通じ合わせ、夫婦として調和のとれた毎日を送らねばなりません。性を偽ること、男色や女色は自然を乱す大変罪深いこと。罪を犯した者は死後地獄へ送られます。そのような考えは捨て去らねばなりません!」
 ガン!
 アンナははっと目を覚ました。足が痛い。テーブルにぶつけてしまったようだ。
 夢に出てきた大神官の顔を思いだす。ティルクスの王族は年に数回、あの大神殿に行って説法を聞くのが伝統だった。
(あれは本当にしんどかった。まあ今はそんなことはどうでもいい。問題は殿下だ)
 調和を至上命題とするこの世界で、身体は男で魂は女など、たとえ冗談だとしても言えない。もしも口にすれば、魔物が憑いていると認識され、人間扱いされなくなる。
(でも……)
 アンナはファンレターの文字をなぞる。
 流麗な文字。上品な言葉遣い。それでいて作品への熱情がこれでもかと凝縮された内容。
(これを、魔物つきが書くか?)
 本を読んで感動する魔物など聞いたことがない。あるいはアンナが知らないだけで、実はいるのか?
(まあ、魔物であれ人間であれ、私の読者であることには違いないんだ。私の作品に手紙を送ってくれた、初めての人なんだ)
 是非会って話をしたい。お礼を言いたい。そしてもしよかったら、是非新作を読んで感想を聞かせてほしい。
──そう考えると、少し元気が出てきた。
(そうだよ。話は通じてるし、魔物祓いとかしなくてもいい。大体、手紙一枚で魔物つきだと決めつけるなんて、馬鹿げてる。全部私の間違いで、性別を偽ったのも深い意味は無いのかも……とにかく、今は殿下と少しでも仲良くなることが一番大事だ。それから、この手紙が周りにバレないように気をつけないと)
 ディーロが本当に魔物つきかどうかよりも、これが知られることの方がもっとずっとマズい。アンナもディーロも、王家の中では弱い立場なのだ。波風立てないように過ごさなければ。
(みんなにも秘密にしておこう。知っている人間は少ないほうがいい)
 そこまで考えた時、ふわあ、と大きな欠伸が出た。アンナはファンレターを箱にしまい、ベッドに横になった。あっという間に深い眠りに落ちた。


 朝。アンナはレースに起こされ、目が覚めた。
「おはようございます、アンナ様」
「ん、おはよう」
 アンナはベッドから身体を起こす。
 レースは白いものが混じり始めた髪をしっかりと結い、いつものエプロン姿で背筋を伸ばして立っている。真っ直ぐアンナを見る目と真一文字に結ばれた口が、レースの頑固な性格を体現しているように思える。
「どうかしましたか。私の顔に何かついていますか?」
「ううん、何でもないよ。早く朝食を食べにいこう」
 ベッドが降りようとした時、ドアがノックされ、マオが入ってきた。両手に足のついたお盆を持っている。
「失礼します、奥方様。朝食をお持ちしました」
「朝食? 食堂で食べるよ」
「奥方様。この国では、部屋で朝食をとっていただく習慣です」
「あ、そうなの?」
 マオはアンナの前にお盆を置いた。皿が二つ。それぞれ、パンとヨーグルトが入っている。ヨーグルトには木苺のジャムが入っている。一口食べると、濃厚なヨーグルトと木苺の甘さが口に広がる。
「おいしい」
「ありがとうございます」
 少しも心のこもっていない声でマオはそう言った。アンナはマオをしげしげと見つめた。
 彼女は白い頭巾を被っている。顔は白粉で真っ白で、黄色い目がじっと前を見ている。黒のエプロンはシミひとつ無い。陶器の人形、という言葉がアンナの心に浮かぶ。
「奥方様。今日のお茶会ですが、私も途中までお供し、王宮の中をご案内いたします」
「そう。それなら、他のみんなも連れていっていいかな?」
「申し訳ありませんが、それは致しかねます」
 マオは淡々と言った。
「細々としたことをやってくれる人がいるんだよ。荷物持ちとか」
「私がやりましょう」
 マオがそう答える。そこへ、ドタドタ、バタンとミアがやってきた。
「おはようございます、アンナ様! 今日はお茶会です! 張り切って準備しましょう!」
 レースと同じように髪を結っているものの、寝癖の着いた毛が一本、ぴょんと横へ跳ねている。両手で大量のドレスを抱きかかえている。
「どれを着ましょうか。赤とかピンクはどうでしょう?」
「えー、派手すぎるよ。それに私は歓迎されてないんだから」
「歓迎されてないのにどうしてお茶会が?」
「憎い相手の顔を見るためだよ」
「そうなんですか?」
 ミアはメモ帳と鵞ペンとインクつぼをポケットから出すと、カリカリとメモする。彼女はメモ魔であり、どんなことでも書く。
「ところで私、そんなドレスは持ってなかったはずだけど」
「買いました。結婚すると、ドレスがたくさんいるんですよね。レースさんが言ってました」
「いや別にいらな──」
「いります」
 主人の言葉を遮り、レースは断言する。
「以前から何度も何度も、な・ん・ど・も、申しあげていることですが、貴方はもう少しお洒落に気を使うべきです。ミアが持ってきたドレス、どれもお似合いだと思いますよ。今回のお茶会では、初めて国王陛下にお会いするのですから、きちんとした服装で行かなけば」
「それなら昨日のやつでいいよ」
「駄目です。一度着てらっしゃるじゃないですか」
 一度着たことがある服をもう一度着ていくと、貧乏だと思われて恥をかく。レースはそう言いたいのだ。
「奥方様。ドレスですが、白一色か黒一色、そのどちらかでお願いします」
 マオの言葉に、ミアとレースはギョッとする。
「え、何故?」
「城では、神々の色の服以外を着てはならないからです。白と黒以外は禁止です」
 昼の神、シラの白。夜の神、ヨラの黒。
 それ以外の色は禁止? そんな話、聞いたことがない。
 ミアが他のドレスをアンナの前に運んでくる。
「白か黒しかダメなら、このドレスでしかないですね」
 ミアが持ってきたドレスは、文字通り白一色のドレスだった。フリルと刺繍がふんだんにあしらわれている。
(ちょっと派手だけど、これしかないなら着るしかない)
 アンナはうん、と頷く。
「それでお願い」
 朝食を食べおえると、マオはお盆を持って部屋を出た。アンナはようやくベッドから立ちあがった。レースとミアがアンナを着替えさせる。
 ドレスを着た後は、髪と化粧の時間だ。あんなはドレッサーの前に座った。レースが髪を霧吹きで濡らし櫛を入れる。寝癖がとれると、今度は顔を濡れたタオルで拭く。白粉を塗り、紅をさす。
 鏡には、上品な美しい婦人が映っていた。もっとも、不機嫌な顔のせいで美しさは台無しだが。
「そのようなお顔で王族の方々にお会いになってはいけませんよ」
「分かってる」
 アンナは口を尖らせてそう言った。彼女は化粧が大嫌いだ。頬づえがつけないし、粉が本の上に落ちてしまう。
「髪はどうされますか?」
「白バラの刺繍があるやつ」
「かしこまりました」
 ヘッドバンドをつけると、一層華やかになる。綺麗です、とミアが手を叩いて喜ぶ。そこにドアのノック音がする。
「失礼します、奥方様。王宮からの馬車が到着いたしました」
 レオの声だ。彼からも感情が感じられない。
「分かった。今行くよ」
 屋敷の前には四棟立ての箱馬車が停まっていた。色は白一色と至ってシンプルだ。御者は二人。昨日とは別の人間だ。すでに馬の手綱を握って準備万端のようである。
 アンナは馬車に乗りこんだ。続いてマオが乗る。他の人は屋敷の留守番だ。
 直立不動のレオに見送られ、馬車はガタゴトと出発した。

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