第七章-5
メディと、「マイトの指示で来た」という神官兵は、しばらくしてまたやって来た。
「今は何日です? 夏至祭まで後どれくらいなんですか?」
相変わらず声はガラガラだ。それでも、昨日より幾分かマシだ。
「昨日から一日経ちました。後九日ですね」
メディはそう答えると、手際よく包帯を取り替える。
「アンナとシャロンの所にもいってるんです?」
「はい。彼が連れて行ってくれます」
後ろにいる神官兵をチラリと見るメディ。
「ええ、もちろん。夏至祭まであと九日間、何が何でも生きていてもらわなければなりません。でないと、夏至祭に処刑できませんから」
「でも、どうやって王家の医師を? 神殿にも神殿の医師がいるでしょう?」
「こういうことは私の得意分野です。殿下が気になさることではありませんよ」
神官兵はニッコリと笑う。メディはため息をつく。
「えーと。皆の様子はどうですか? 痛い目に遭わされてはいませんか?」
「無事です。妃殿下は遺書を書いているご様子でした。姫様は時折泣いております。ミア達も生きていますよ。ただ、こことは違う牢にいるので、私共が会うことはできません」
「……そうですか。ここでは、ペンや紙を貰えるんですか?」
「貰えると思いますよ」
「今ここに持っています」
メディが懐から蝋板と尖筆を取り出す。
「よろしければお使いください。この後、妃殿下と姫様の元にも参りますので」
傷だらけの右手で尖筆を手に取る。しかし、いざ書こうとすると、何も文章が思いつかない。ゆっくり考えようにも、時間がない。メディ達をここへ長時間とどめておくわけにはいかない。
『怪我はない?』
何も思いつかず、その一言だけ書いた。
「これを二人に見せてくれますか?」
メディに蝋板を返す。メディは受け取ると、懐のポケットに隠した。偽装用の神官服を着て、牢を出た。
ディーアは待った。手紙を待っているだけで、不思議と、闇の中で小さな蝋燭が灯ったかのような温もりを感じる。事態は何も変わっていないにも関わらず。
(場所も状況も全然違うのに、手紙のやりとりだけは変わらない)
古書市場があった頃。部屋に引きこもり、数年が経った頃。そして独房で。ずっとアンナとディーアは手紙をやりとりしている。
(こんな場所でも手紙……なぜこうなったんだか。本当にどこで間違えたんだろう)
後悔と自己憐憫と夢想に浸りながら、ディーアはうつらうつらと眠った。もう、神官兵も来ない。彼らは大人しい死刑囚に構ってられるほど暇ではないのだ。
浅い眠りを何度か繰り返した後、再びメディ達がやって来た。
「どうぞ。こちらは妃殿下からです」
神官兵が紙を渡す。粗末な紙に、文章が書き付けられている。
『私は元気。手紙が来て、ほっとしているよ』
シャロンはメディの蝋板に書いていた。
『擦り傷ができたけど、大丈夫。兄ちゃんは?』
(シャロン、いつの間にかこんな文章を書けるようになったんだ)
ディーアは蝋板の文字をそっと撫でた。
「さて、包帯を取り替えますよ」
傷はマシになってきた。切り傷は塞がり、アザは暗い青色になっている。触ると疼く。
「マイト兄さんは、革命の準備を進めているんですか? 夏至の日に蜂起を?」
「ええ、そのようですね」
「それは……大変な混乱になるだろうね。人がたくさん傷つき、家は壊れて国は荒む。それに私達は……」
自分で言っていて苦しくなるディーア。
(私達はどうなるんだろう。処刑台から助けてもらえるんだろうか)
アンナが死ぬと、ティルクスとの関係が悪化する。だからアンナは助ける価値があるだろう。だが、ディーアは? シャロンは? 二人を生かす意味はあるか?
(……無いよなあ。それに、荒れ果てた国で生き延びた所で、何の意味がある? 革命が成功するとは思えない。母上も反乱を起こそうとしているんだから。きっと泥沼になる)
蝋板に文章を綴る。
『マイト兄さんは計画通り革命を起こすらしい。夏至祭はどうなるんだろう』
蝋板を神官兵に渡した。そして、再び返信を待った。ジクジク痛む傷口をそろそろと撫でながら、牢獄の片隅に座り、また思い出に浸る。
メディ達の来訪、三回目。
今度も、彼らは手紙を携えていた。アンナからの手紙には、
『成功するとは思えない。血塗れの祭として、歴史に残るに違いない。こうなる前に止めたかった。どうしたらこんな事態を防げたか、今もずっと考えている』
「本当、どうすればこうならなかったんだろう」
ディーアの口から、ポロリと心の声がこぼれ落ちる。
「そりゃあ、殿下が止めていれば良かったんじゃないですか」
突然、神官兵が言った。
彼はニコニコと、人当たりが良い笑顔を浮かべている。三日月のように細い双眸が、ディーアを見つめる。
「王を止めていれば、こうもこの国が荒れ果てることもなかったでしょう。貴方がやったことといえば、廃屋に引きこもっただけです」
ディーアは何か言おうとしたが、何も思いつかず、口を閉じる。
(その通りだ。私は何もできなかった)
蝋板を手に取る。シャロンが蝋板に刻んだ言葉は、
『みんな死んじゃうんだね』
とても綺麗な文字でそう書かれていた。
ディーアは唇を噛んだ。
(こんな言葉を書かせたかったんじゃない)
メディがちょうど右腕の包帯を解き始めたので、右手に持った蝋板がふらふら揺れる。
『ごめんなさい』
ただそれだけ書いて、神官兵に渡した。
次、また返信が来た。今度はアンナからだけだった。
『謝ることはない。あなたは、できるだけのことをした。どうしようもなかったんだ』
彼女の慰めが、ただただしんどい。
「今日はどうします? 蝋板、書きます?」
「いや、いいよ。もう書くことなんかないし」
「そうですか」
メディは彼の右腕の包帯を取り替える。古いものを取り替え、新しい包帯、そして四つ折りの紙切れをカバンから取り出す。
包帯を傷口に巻く。その時、紙切れも一緒に巻いた。一瞬、意味ありげな目でメディはディーアを見た。
他の傷を手当てすると、二人は「ではこれで」と立ち去る。
足音が聞こえなくなると、ディーアは右腕の包帯をほどいた。小さな尖筆と小さな布切れが出てきた。
『まだ諦めるのは早いかと。ここを脱獄しよう』
「は?」
思わず、口から声が漏れる。ディーアは、すぐに手紙を背中に隠し、牢獄のドアを見た。誰も来ない。
そろそろと手紙を取り出す。声が出ないよう、軽く舌を噛みながら、しっかりと読む。
『レース達がティルクスへ向かってる。ティルクス、あるいは、異常を知ったアルケ神殿から、援軍が来るかもしれない。彼らが来たら私は助かる。その可能性を捨てたくない。だから、脱獄しよう。どうせこのままここにいても死ぬだけ。ならば、最後に抗ってもいいでしょう?』
ディーアは三度、文章を読み返した。
(いやいやいや、そんなの無茶苦茶だよ! そんな、そんなこと、できるわけない!)
いかにその計画が無謀で愚かであるかを、手紙の裏に書き殴る。
だが、その手はすぐに止まった。
『王を止めていれば、こうもこの国が荒れ果てることもなかったでしょう。貴方がやったことといえば、廃屋に引きこもっただけです』
杖をついた神官兵の言葉を思い出す。
先生を喪い、本と共に必死で逃げ、引きこもったあの日。あの時はああすることしかできなかった。そして今、また目の前で人が殺されようとしている。
(もしも、もしも本当にここから逃げることができたら? そしたら……)
目の前がぱあっと晴れるような、霧が晴れてきたかのような、急な高揚感が心の底から湧き上がる。
死を目の前にして、無茶苦茶な希望に縋りたいだけだと分かっている。ここから出られるはずはない。
(私は十分頑張った。もうできることは無い。何もできやしない。ここで死ぬだけだ)
もう一人の自分が、耳元で囁く。
(そうだ。その通りだ。結末は最初から分かっている)
そう、分かっているが。
(もし……もしも……)
その「もし」をディーアは捨てることができない。