第七章-6
希望に縋りたい気持ちと、心地よい諦めと絶望に浸りたい気持ちが、ディーアの胸を引き裂く。
(駄目だ、駄目だ。きっと無理だ。こんなの成功するわけがない。無謀すぎるよ。諦めてさっさと楽になれば……でも……)
手紙には続きがある。アンナの手紙の裏側に、シャロンの字で、続きがある。
『本当に出るの? どうやって出るの?』
一緒についてきた尖筆は、メディが返事を書けるようにと仕込んでくれたのだろう。傍らには、いつの間に置かれたのか、薬瓶もある。
(アンナもシャロンもやる気だ……)
ディーアは頭を掻きむしる。
(と、とりあえず、考えるだけ考えてみよう。まずは、誰か助けてくれる人が必要だ。それから、いつどうやって逃げるか。この牢屋を破るのは難しそう。だったら、広場の絞首台に運ばれる時が、唯一の機会か?)
絞首台へは馬がひく荷台へ運ばれる。その荷台から脱出することができれば、活路が見出せるかもしれない。簡単じゃないことは言うまでもない。
(誰かの協力がいる。ここで外と行き来のはメディだけ。メディの人脈に、死刑囚の荷台を襲うような強者がいるかどうかとなると……)
無謀な妄想に、顔が歪む。こんなの馬鹿げてる。
しかし、どれだけ考えても、ディーアにはこの方法しか思いつかなかった。
尖筆を手に取る。先端を薬瓶に浸し、薬液で包帯に文字を書く。アンナとシャロンに対し、考えた脱出方法を伝えた。そしてメディには、協力者を募るようお願いする手紙を書く。
(無茶苦茶だよなあ。でも、ここから出なければ)
ディーアは、包帯をきっちりと巻き直し、包帯の文字と尖筆を隠した。
包帯の手紙を読んだメディはため息をついた。
(私にそんな伝手があるわけないだろう)
コンコン、とドアがノックされた。
「もうすぐ開門の時間です。急いでください」
メディは慌てて長衣を脱ぐ。神官の服は機能的ではない。着にくいし脱ぎにくい。どうにか脱ぐと、いつものチュニック姿になる。帽子を被り、背中にカゴを背負うと、ただの行商人にしか見えなくなる。
ドアを開ける。杖をついた神官兵は、本心を隠すための仮面の微笑みを浮かべ、歩きだした。
彼が何者か、メディは知らない。ただ突然メディの元に現れ、「処刑される王子と王女を治療しろ」と言われ、というか脅され、そしてここに来ている。変装してこの塔に入るのは生きた心地がしないが、断りでもすれば、殺されるのは目に見えている。なのでメディは恐怖で震える足を叱咤し、この塔に来ている。
(今じゃ伝令までやらされる始末)
王子と王女と夫人の手紙まで運ぶはめになった。
(蝋板なんか渡さなければ良かったか……でもな。王子も夫人も王女も、何も悪い事はしてないし、とても気の毒だ。少しでも力にはなりたいんだが。でもなあ)
メディはとぼとぼ歩く。
「もっとシャキッとしてくださいよ。怪しまれます」
杖をつく神官兵の方が足が速い。メディは早歩きで、塔の正門をくぐった。高い塀に挟まれた小道を歩き、茂みに囲まれた入り口から大通りへ出る。
今は朝日が昇ったばかり。朝の町は騒がしい。夏至祭のために国中から人が集まってきていて、活気がある。屋台からは、喧嘩一歩手前の値段交渉の声が聞こえてくる。子どもが帽子を売り歩いている。荷運び屋がかけ声を上げて目の前を走っていく。そして、神官兵が道端で人々を監視している。いつも以上に人数が多い。
「なあ、今度王子が処刑されるってさ」
「魔物を召喚しようとしてたんだろう?」
「そうそう。屋敷にいた全員、王女も召使も捕まったって」
道ゆく人々の話題は王子達の処刑で持ちきりだ。誰も王子達を憐れんだり、処刑に異を唱えたりしない。まあ思っていたとしても、神官兵に見張られている今、口には出せないのだろうが。
(夏至祭の日に、この国はどうなるんだろう)
想像したくもない。メディは無心で王宮への道を行く。しっかり神官兵もついてきている。彼は、必ずメディが王宮に入るところを見届けるのだ。
「では、この辺で」
王宮の通用口でメディは彼とようやく離れることができた。黒いタイルで覆われた通路を歩く。一旦自室へ戻って荷物を置いた後、遅めの朝食を食べに食堂へ向かった。
召使いの食堂は、王宮の端にある。この場所になると、さすがに壁が黒と白のタイルで覆われているような事はない。昔からの素朴な食堂だ。夜勤明けの兵士が多い。
メディは野草のスープを配膳係から受け取ると、適当な席に座った。人はまばらだ。夜勤明けの兵士が、酒を飲んでベロベロに酔っ払っている。
(人手。人手ね……)
考えてもメディにはどうしようもないことを考える。
「で、西区を探してるんだ」
隣から、大きな声が飛んできた。メディは肩をびくりと振るわせる。
酔っ払った兵士が、コップ片手にゲラゲラ笑っている。
「ほんまかよ?」
「神殿はひた隠しにしてるけどな。何せ面目丸潰れだ。腐れ髪の召使いに脱獄されたなんざ、表沙汰に出来ねえよ」
心臓が早鐘を打っているのが、分かる。
(逃げた? あの召使いが? どうやって? 今はどこにいる?)
あの召使いは戦えるような人間には見えなかった。それでも脱獄できたという事は、腕の立つ協力者がいるに違いない。
(召使いに会えたら、その協力者に力を借りることも、できなくはないのか……?)
メディはしばらくの間、考えた。
やがて、すっかり冷めたスープを喉の奥へ流し込むと、早足で自室に戻った。机の上の医学書をどかし、新しい紙とペンを用意する。
『急募 医師の助手を募集中。文字が読める方。給料は一日金貨三枚。希望者は赤バラ広場の医療院まで。モーディ』
端にちょっとした挿絵もつける。最後の署名は偽名にした。
一心不乱に、同じ物を数十枚書く。その紙束を持って、王宮を出た。瀟洒な通りを歩き、商人が集まる南地区へ向かう。
(さて、誰に頼むかね……)
本来、全ての書類は神殿に届出を出し、審査を受けなければならない。しかし、誰も、そんな金も時間もかかる面倒くさいことなど、していられない。
だからこういう求人募集などの紙は、神官兵に見つかりにくい路地裏に貼るか、商人にこっそりと配ってもらうしかない。
メディは南地区の端、西地区に程近い場所にパン屋を発見した。朝の仕事を終えたばかりで、店主は暇そうに台に方杖をついている。
「店主、お願いがあるんですが」
メディはパン屋の店主にチラシと金が入った巾着を渡した。
「できれば、西地区の住人に配って欲しいです」
「何で西地区? もっとまともな奴に頼めばいいだろ」
「位の高い連中は血を見るだけで卒倒しますから。見慣れてる人を雇いたいんです。なるべく早くお願いします」
「なるほど。配っとくよ」
店主はあくびをしながらチラシと巾着を受け取った。
(ちゃんと渡してくれるといいんだが。それで、彼女が読んでくれるといいんだが。その前に神殿に捕まらないといいんだが)
いくつもの不安を押さえつけながら、メディは赤バラ広場の診療所へ向かった。
赤バラ広場は、南地区の小さな広場だ。広場の一角には理髪院が立っている。白い壁に描かれたバラの絵は、日に焼けて掠れている。『赤バラ理髪院』と掲げられた看板は黒ずみ、若干傾いている。
「あ、メディさん。おはようございます。また王宮から逃げてきたんですか?」
玄関前を掃き掃除していた若い医者が、メディに笑顔を向ける。
「ああ、まあね。ちょっと休んでいってもいいかい?」
「どうぞどうぞ。奥のベッドが空いてますよ」
「ありがとう。もし私を呼ぶ人がいたら、起こしてくれ」
メディは理髪院の中に入った。消毒のための酒と火、ハーブの臭いが立ち込めている。メディの頬が少し緩んだ。
椅子には患者が座り、医者が髪を切っている。奥の寝台には体調の悪い患者が横になっていて、その側で医者が薬を煎じている。
一番奥の薄暗い部屋に入った。ここは医者達の休憩室だ。空いているベッドに横になる。朝早くからひたすら動いていたせいか、すぐに眠りにおちた。