第八章-11
四人がかりで王を引っ張り、路地裏の奥の民家へ移動する。元の住人は逃げたらしく、夏至祭を祝うための食べ物や飲み物、花や神殿の冊子がそのまま置きっぱなしになっている。ドアを家具で塞いだ後、余った椅子に王を無理やり座らせる。
王の衣は血が滲み、逞しい身体は傷だらけ。顔は憔悴しているが、それでも眉間に寄った皺や真横にぎゅっと結ばれた口に、強情さが見てとれる。
「さて、陛下。今は非常にまずい状況です。まだ貴族達の忠誠心が陛下に向けられている間に、王宮へ戻りましょう」
アンナは有無を言わせない調子でそう言った。
(母上とマイト兄さんは、ローゼとマイトは、父上を殺すつもりだろう。この戦乱の状況では、事故に見せかけることも、何かしら名目を掲げて処刑することも容易い)
ディーアもアンナに続いて、説得を試みる。
「父上。王宮へ戻りましょう。兵士を指揮し、この馬鹿馬鹿しい争いを集結させましょう」
今なら、まだ一部の貴族の忠誠心が王に向けられている。王が戻り、指導者として振る舞えば、ローゼとマイトが表立って争うこともひとまず避けられる。
「まだ間に合います」
しかし、王は子どものように、ぶんぶんと首を横に振った。
「嫌だ! それなら神殿の方につく! 神々に敵対するなんて、そんな恐ろしいこと、できるわけないだろ!」
「神官兵に、たった今殺されかけたんですよ?」
「あれはただの間違いだ! そうに違いない! 私が誰か分からなかっただけだ、きっと!」
「彼らは白ムギ神殿の神官兵ですよ? 父上の顔を知っていました。それでも、そうお考えになるのですか?」
「そうだ! そうに違いない。だっておかしいじゃないか! 何故神官様が、私を殺すんだ? あり得ない、あり得ないだろう、そんなの……何かの間違いか、さもなければ悪い夢を見ているんだ!」
ギャアギャアと騒ぐ様子は、まるで飼い主に見捨てられた手負いの犬のようだ。
アンナは、部屋の隅から椅子を二つ持ってきて、王の斜め前に置いた。右側の椅子にアンナが座る。自然と、ディーアは左側の椅子に座った。
「陛下、そこまでおっしゃるのでしたら、私に神殿のことを教えてくださいますか?」
アンナは優しい微笑みを浮かべた。その姿は、何でも話を聞いてくれる老神官のようだ。
王はブスッとしていたが、やがて口を開いた。
「……神官様は素晴らしい方なんだ。私を常に支え、導いてくれる」
「どのように?」
「私が困った時には、どうすれば良いか教えてくださる。経典を開き、神々の言葉を授けてくださる。その通りにすれば、何もかも上手くいくんだ」
「どんな教えだったのですか? ああ、陛下のお悩みを聞き出したいわけではありません。神官の言葉を知りたいです」
ディーアは、アンナの考えが分かってきた。
神官が王にどんなことを吹き込んだのか、彼女はそこを探りたいのだ。
「何でもだ。どんな事でも、教えてくださる。失せ物があれば探してくださるし、狩りの際には神々の加護があるよう、祈ってくださるんだ」
王も落ち着いてきた。冷静に話している。
「以前、お茶会でお会いした時、陛下の側に神官がいらっしゃいましたね。あの神官とは、どんなお話をなさったのですか?」
「ああ、あの時か。茶会など興味なかったんだが、出るように勧められて、出たんだ。あの方々はいつも側にいてくださって、色々な話をしてくださるんだ。国の中の問題や、経典のお話を、いつも聞かせてくださる」
ディーアは王の言葉を反芻する。
(何だろう……何か引っかかる)
何がおかしいのか考えているうちに、アンナは次の質問をする。
「陛下は、随分と神々への信仰が厚いようですね。私が知る誰よりも。毎日、神学を学ばれたのですか?」
「ああ、そうだ。神官様が経典の言葉を語り、その意味を教えてくださった。夏至祭で捧げる祈りも、繰り返し聞かせてくださったのだ。だから今日、神殿でこの国の豊穣と繁栄について祈りを捧げる事ができたのだ。お前らが来るまでは」
そう言って王はアンナを睨む。
アンナはその視線に構っている余裕はない。
(──あ、もしかして)
ディーアは、違和感の正体にようやく気がついた。
「あの、父上。『繰り返し聞かせてくださった』のですね? 経典の祈りの言葉を、『繰り返し聞かせてくださって』、それで暗記したのですね?」
「ああ、そうだが」
「経典を読めば暗記する必要はないのでは? そのまま書いてありますよ」
その瞬間、王の顔色が変わった。その顔に、答えが全て書いてあった。
「父上。文字が読めないんですね?」
「そ、そんなことはない! 読めるわ! だが聞いた方が、頭に入るんだ!」
「私が勉強をすると、お怒りになったのは──」
「違う! お前が剣を学ぼうとしないからだ!」
「本の読み書きを禁じたのも──」
「黙れ!」
王が拳を振り上げて立ち上がろうとする。ミアが咄嗟にアンナとディーアの前に出る。しかし、足を怪我している王はすぐに体勢を崩し、振り上げた拳は宙を切ってだらりと垂れる。レオが再び王を椅子に座らせた。
「文字がなんだ本がなんだ! 剣を一振りすればいつだってお前らを殺せるんだ! 指図するな!」
まるで幼子のように吠える王。
「……嘘でしょう」
ディーアはようやく、一言そう呟いた。
「まさか、まさか、そんな。そんな理由で、今まで……?」
今までの散々な仕打ち──無理矢理させられた剣の練習、家庭教師の処刑、苛烈な検閲、その理由は、『文字が読めないから』、ただそれだけだったから。
「そんな理由? ほうら、お前らはいつもそうだ! ちょっと頭がいいからって馬鹿にしやがって。本なんか読めて何になるんだ。俺には力があるんだ。この力さえあれば、何だってできる。本なんか読めなくても大丈夫だ!」
「文字が読めない事は、決して珍しくないですよ」
アンナはおずおずと口を挟む。
「読めないからって、馬鹿にされることでもありません。ただ、今からでも学ぶことはできますよ」
「うるさい黙れ! 文字の勉強なんか嫌だ、絶対に嫌だ……もうあんなのは嫌だ! それに、神官様は良いっておっしゃってくださったんだ。文字など読めなくとも大丈夫だと……小さい時からずっと側にいてくれて……」
王は反ベソをかいていた。まるで、叱られるのを恐れる子どものようだ。あるいは、幼い頃のディーア自身のようでもある。
(勉強が上手くいかず弱っていた父上には、神官が救いの手を差し出してくれたように見えたんだ。さぞかし嬉しかっただろうな。救われたと感じたんだろうな)
彼は晴れた目でディーア達を睨みながら、涙で濡れた手を振り回す。
「お前らは出ていけ! 俺は、神官様のところに戻るんだ!」
ディーアは自分の父親を見つめる。
絞首刑になった家庭教師のことを思う。燃やされた物語を思う。数々の痛みが、ディーアの心を蝕む。
痛みの記憶が、ディーアの魂に火をつけた。
(何だろう。この──人の姿をした醜い家畜は)
外の音が聞こえてくる。規則正しい足音だ。神官兵が外にいる。
「そこまで神殿に戻りたいんですか?」
それなら、今すぐここから蹴り出してやるよ。
「ねえ」
アンナがディーアの声を遮った。そして、唇だけを動かす。
『駄目だ』
親友の眼差しが、ディーアの魂を射抜く。
彼女は、ただただディーアを心配している。その目が、表情が、そう言っている。
激しい火は、かまどで燻る熾火に変わる。激しい感情は過ぎ去り、理性が戻ってくる。
(……そうだ。こんなことをするためにここに来たんじゃない)
ディーアは深呼吸した。
「辛かったでしょうね」
父親だった人間に話しかける。その声音は、自分でも思いがけないほど、憐憫の情に溢れている。少なくとも、そのように聞こえる。
「やりたくないことをやらされる気持ちは分かりますよ。とっても。ただただ、苦しいだけです。父上が嫌でしたら、文字の勉強なんかしなくたっていいですよ」
ディーアは慈母のような笑みを作った。
「貴方は悪くありませんよ。ただ運が悪かったんです。運が悪くて悪くて、それで今、神官に殺されそうになっているんです」
「神官様が、裏切るはずなど──」
「お身体の傷は誰につけられたものですか? よく思い出してください」
陛下は黙りこむ。
「大丈夫です。神官に裏切られても、私や王家は裏切りません。皆、王宮で待っていますよ」
「……本当か?」
「ええ、本当です」
優しい優しい声音を作る。
「今できることは二つです。『王宮に戻る』か『このまま殺されるか』です。王宮に戻れば、貴族達をまとめあげ、戦争を終わらせることができます。その後は、自由です。政治は母上に全て任せておいて、今度こそ本当に信用できる神官を呼びましょうよ。経典を読み上げてもらうなり、王宮を捨てて神殿に入ることもできます」
王の顔が少し和らぐ。
「そんな生活が、できるのか?」
「もちろんです。ですが、全ては貴方次第です。生きて自由を得るか、このまま死ぬか、どうなさいますか?」
短い沈黙の後、王は腰を上げた。
「帰る」
皆、ほっと息をついた。全員でドアを塞ぐ家具をどかす。そして、アンナはレオとミアに命じ、王を連れて先に出ていかせる。
二人きりになった後、アンナはディーアの方へ振り返った。
「ディーア、その……大丈夫?」
「平気だよ」
「本当に? かなり無理してない?」
ディーアは目を逸らす。アンナに隠し事をするのは、かなり難しい。
「まあ、大丈夫じゃない。その辺の路上に蹴飛ばして放置しようかと思った。けれど──」
この燻る感情をどう表せば良いのか。
「その、もう関わりたくないんだよ、本当に」
言葉がこぼれ落ちる。
「自由になりたいんだ」
そう言い切ると、少し胸の中が軽くなった気がした。
アンナはクスッと笑った。
「なるほど、それは良いね。じゃあ、行こうか」
一行は、敵から逃げ惑いつつ、王宮へ帰り着いた。
帰った王は、演説を行った。周りに迷惑をかけたことへの謝罪、神殿が裏切ったことへの怒り。そして報復のために立ち上がる時だと、貴族と軍を鼓舞した。なお、この演説は、アンナとディーアが即席で考えたものだ。
帰ってきた王を見て、ローゼとマイトは不機嫌になった。ディーアは、兵士の士気を上げるために王は必要だと言い、何とか彼らを宥めた。
とにかく、軍は一つになった。市民と王宮の兵士が一丸となり、神官兵と戦った。
そして、数日後。
予想よりも早く、そしてあっけなく、戦争は終わった。
ティルクスからの知らせを受けた総本山の神官兵が、エレアに到着したのである。彼らは、堕落した神官を捕らえるという名目の元、王家と市民に協力を申し出た。
王家、市民、そして外から来た神官兵の連合軍。これにより、エレアの神殿は圧倒的不利に立たされ、程なくして負けた。