王女と乳母-前編-
手をポケットに入れて温めながら、レースは市場を歩いていた。
王都エシューは、すっかり冬だ。雪がちらつき、冷たい風がふいている。しかし、市場は活気付いている。もうすぐ冬至祭があるからだ。
ヨラ神を祭り、新年を祝う。そのための飾りや食べ物を商人達が売っている。夏至祭と負けず劣らずの盛況ぶりだ。
屋台が立ち並び、道はとても狭い。羊や牛を丸々一頭売っている店や、怪しげな呪具の店、異国の布を扱う店……商人達の魂は、夏でも冬でも変わらない。熱く燃えている。
しばらく歩いていると、レースは湯気が上がる屋台を発見した。スープ売り場だ。
スープを一杯買い、近くのベンチに座った。一口啜ると、野菜のほのかな甘みが口の中に広がる。ほっとため息をつく。
(買い物はあらかた済んだわね。パンも肉も野菜も買った。飾り付けの布も買った)
そもそも、食料や必要なものは、屋敷に届けてくれる。外に出る必要はない。
しかしそれでもレースが出かけるのは、エレアに来てからしばらく続いた、屋敷の軟禁生活の影響が大きい。外に出ると、自由になった実感を味わえる。神官の目をうかがわず、好きなように買い物ができる。
(後は……ああ、紙を買わなくちゃ。それから、本屋にも行かないと)
夏の内戦が終わってから、紙屋と本屋は増えた。ものすごく増えた。今では、王都のどこでも買うことができる。
レースの前を、子どもが走っていく。手に冬至祭の本を持っている。庶民向けに作られた、簡素で小さな冊子だ。
ふと、レースは昔を思い出した。
子どもの頃のアンナも、ああやって走っていたものだった。
ティルクス王国第五王女、アンナ・フォレル・ティルクス。
その母親は、第二夫人のソフィだ。第一夫人が病死した後、嫁いだ女性がソフィだった。地方の貴族のお嬢様だ。
そして、彼女が王宮に連れて来た侍女のうちの一人が、レースだ。彼女は下っ端のお針子だった。石工見習いの夫の収入だけでは生活できなかった彼女は、三人の乳飲み子を抱えながら、服を繕い、刺繍を施した。
そうやって一生懸命働いていると、ある日突然呼び出され、乳母に任命された。ソフィが王女──アンナを産んだからだ。当時、レースの他に子どもを産んでいる侍女はいなかった。ただのお針子だったレースは乳母に出世したのだ。
レースは、他の侍女達と一緒に、懸命にアンナの世話をした。世話する子どもが三人から四人に増え、ものすごく大変だった。それでもなんとか、全員無事に育った。
アンナは、幼い頃から、本に興味を持っていた。
三歳になる頃には王宮の書庫を探検していた。五歳になると、王宮の一室で勉強する王子達と混じって、読み書きの練習をしていた。
王子達の筆記用具を借りて、アンナは嬉々として紙に文字を書く。
「アンナ様。ほら、そろそろ行きましょう。皆様の邪魔をしてはいけません」
レースや侍女達が声をかけるが、アンナはいやいやと机にしがみつく。
「まあまあ、レース。大丈夫だよ。可愛いじゃないか」
王子や家庭教師はそう言って笑い、アンナに字を教えた。
しかし、そうやって笑いながら教えてもらえたのは、一年くらいだった。より難しい勉学や、剣術の練習が始まると、アンナはあっさりと追い出された。目と鼻の先でドアをバタンと閉じられて、しょんぼりと肩を落とす彼女を、レースは慰めた。
「忙しいから仕方ありませんよ。ほら、庭でお歌でも歌いましょう」
「やだ」
アンナはレースの手を振り解くと、自室にこもった。自分で物語を書き始めたのだ。
王宮の南東の小部屋。調度品は少なく、質素だが、窓から日光がよく入る良い部屋だ。その部屋で、窓辺の机に紙を広げ、アンナは日の出から日没まで、話を書いた。
王宮の外へ出る許可が降りた時には、必ず本屋と文具屋に行った。本屋で安い冊子を大量に買い、文具屋では紙とインクとペンを買った。王宮の自室で、アンナは毎日、書いて読んだ。彼女が買う冊子は、紙を折って糸でくくっただけの、簡素な装丁のものだった。
アンナの自室には、だんだん紙が増えていった。枕の横や机の脇に、紙の束が積まれていく。壁の小さな棚は、紙で埋まってしまった。
大変なのは、彼女に仕える乳母と侍女達だ。部屋中、紙、紙、紙。掃除が大変だ。
「アンナ様、こちらの紙は捨ててもよろしいでしょうか?」
「ぜったいダメ!」
捨てようとすれば、アンナは癇癪を起こし、手がつけられない。そのため、全然片付けられなかった。
ただ、悪いことばかりでもなかった。
「ねえねえ。新しいお話、作ったの。読んで」
アンナは紙を片手にトコトコと歩いてきて、レースや侍女達に話しかけてくる。
「申し訳ございません。私は字が読めなくて……」
「じゃあ聞いて」
アンナは、自分が書いた物語を朗読する。これが結構面白くて、思わずふふっとなってしまう。小さな可愛い吟遊詩人に、皆が癒された。
町へ行く時は本屋以外にも、乳母達が行きたい店へ行ってくれるし、欲しいものを買ってくれる。王宮に住み込みで働いているレースは、市中に出たついでに、自分の家に帰ったりもした。
「あの建設中の橋が見えますか? あそこで、夫が働いているんです」
ある時、レースは建設中の橋を指差し、そう言ったことがあった。
「そうなの? 会いたい会いたい!」
むさ苦しい作業所に行き、休憩しているレースの夫に会ったこともあった。その時の夫の様子を、レースは今でも覚えている。絵画にしたいくらいだ。夫はその時から、早く独立して自分の工房を持ち、王女様のために働くと、より一層仕事に励むようになった。
風変わりだが、楽しい毎日だった。
しかし、そんなアンナの様子を快く思わない者もいた。
当時の大神官は、神々の言葉を何よりも信じる、規則に厳しい老爺だった。当然、本が好きな王女という変わり者を放っておこうとはしなかった。
週に一度の集会で、大神官はアンナに経典の内容を説いて聞かせた。
「いいですか? 経典にも書いてある通り、調和を保たねばなりません。ましてや、貴女は王女であり──」
王族専用の祈りの間で、大神官の熱意溢れる説教を、アンナはひたすら聞かされた。アンナは仮病を装ったり王宮から逃げようとしたりと、あの手この手で、神殿の説教から逃げようとしたが、無駄だった。レース達に捕まえられ、ふくれっつらで神官の話を聞かされた。
また、アンナのことをよく思っていたかったのは、大神官だけではなかった。
「お母様。お話を書いたの。聞いてくれる?」
ある日のこと、アンナがソフィの部屋に行った時のことだった。
鏡の前に座り、化粧をしていたソフィは、くるりと振り向き、こう言った。
「何をしてるの、アンナ。くだらない。早く部屋に戻りなさい」
静かに部屋を出て、早足で廊下を歩くアンナ。レースはその後ろを、ついていった。
「……ソフィ様も、忙しいんですよ。また時間がある時に、聞いてくださいますよ」
「……うん」
そう頷くアンナの声は、震えていた。ポタポタと、石畳の床に水滴が落ちる。
「アンナ様。殿下や陛下のように、文字を読めるようになる必要はないと、ソフィ様は仰りたいのだと思いますよ」
レースは彼女の背中から、優しい声音でそう言った。
王女の役目は、定められた婚約者と良い夫婦関係を結ぶことだ。そして、ティルクス王家と、婚約者の家の関係を良好で強固なものにすることなのだ。嫁ぎ先の夫の助けとなれるように知識は必要だが、本の虫になる必要はない。
「もっと別のことをしてはいかがです? お歌とか」
「私、歌えない」
「では、経典を読むのは?」
「絶対やだ」
アンナはぷいと横を向いた。涙で赤く腫れた顔に、きかん気な性格がありありと出ていた。
(これは……いくら言い聞かせても無駄そうね)
レースが諦めた瞬間だった。
それからも、アンナの部屋には紙が増えていった。成長するにつれ、書いた話を朗読することはなくなったが、話を書くことはやめなかった。すっかり、王宮の中で有名人になっていた。
しかしアンナは気にしなかった。十歳になっても、本を読んでいた。普通の令嬢なら、婚約者に思いを馳せたりするものだが、彼女は全然考えていなかった。
「そろそろ次の本が入荷する頃だね」
そう言って、市民の格好に着替えるアンナ。必然的に、侍女や護衛達も同行することになった。
馬車が走る大通りを歩き、馴染みの本屋へ行く。交差点の角にある、黒い門柱が目印の店だ。
中に入ると、樽やワゴンが客をお出迎えしてくれる。それらの中は紙の海だ。流行りの民謡や経典の部分翻訳、果ては誰かの伝言まで、色々な本や冊子、紙束が売りだされていた。
「こんにちは、お嬢さん。この前頼まれていた本、入荷してるよ」
顔馴染みの店長がやってくる。
「こんにちは。ありがとう。楽しみにしてました」
アンナはカウンターで本を受け取る。
この店長には、アンナの身分を教えてはいなかった。もちろん、ある程度は察しているとは思うが、向こうからは一度もアンナの家について、聞かれたことはなかった。
「ねえねえ、店長さん。病気とか薬の本ってないですか?」
「もちろん、あるぞ。どうした? 誰か病気なのか?」
「お母様の体調が良くないんですよ」
ああ、とレースは心の中でため息をついた。
このところ、ソフィの体調は悪くなっていた。食欲が落ちたり、酷く気分が落ちこんだり、眠れなかったりと、とても辛そうな様子だった。仲が悪く、普段は母と会おうとしないアンナも、流石に心配していた。
「病気の本なら、そこの棚にあるぞ。最近、南方連合の本も仕入れたんだ」
アンナは長い時間をかけて吟味し、最後に一冊の本を選んだ。もともと予約していたもう一冊と合わせて二冊買い、本屋を出た。歩きながら、渋い顔でページを捲っていた。
「どうですか? 良い治療法は載っていますか?」
「まあ、身体を休めるあれこれについて書いてあるね。あまり役に立ちそうにはないかなあ」
「お店には色々本がありましたが、それはどうだったんですか?」
「おまじないばかりで、とても役に立ちそうにはなかった。もっとしっかりした、病に詳しい本はないかなあ」
その時、レースは他の侍女から聞いた話を思い出した。
「それなら、神殿に行くのはいかがですか? 最近、新しい本が神殿の書庫に入ったらしいですよ」
アンナは汚物を踏んでしまった時のような顔になった。相変わらず、彼女は神殿が嫌いだった。
「絶対嫌だよ。どうせ神様の本しかないよ」
「それがそうでもないらしいです。様々な異国の本を集めたのだとか。最近、大神官が交代したのはご存知でしょう? その方が、本に関心があるらしく、たくさん集めているらしいのですよ。一度お会いしてみては?」
「んー……しょうがない。母のためだ。行ってみようか」
ものすごく嫌そうな顔で、アンナはそう言った。