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王女と乳母-後編-

 王宮に帰ると手紙を書き、新しい大神官の元へ送った。すぐに返事が来て、その内容はとても好意的なものだった。特別に書庫に入れてもらえることになったのだ。
 週に一度の説教日。アンナは珍しく、文句を言わずに祈りの間へ向かった。レースは、彼女の部屋を掃除しながら帰りを待った。
 しかし、普段なら帰ってくる時間になっても、アンナは帰ってこなかった。いつもなら、部屋の掃除が終わった頃に仏頂面で帰ってきて、
「あのジジイの言うことはおかしいよ。先々週と反対のことを言ってる! それに経典の中身も意味のないことばっかり! 何を伝えいんだか。神だか何だか知らないけど、書いたやつは文章が下手くそよ!」
 外に漏れたら大事件になるであろう、罵詈雑言の数々を喋りまくったものだった。レースは、自慢の忍耐力を発揮し、辛抱強く聞いたのだった。
 だが、それは、この日は帰りが遅かった。レースはそわそわしながら待った。すると、他の侍女がやって来て、応接間へ行くよう言われた。その部屋でアンナがレースを呼んでいるらしい。
 応接間は王宮の中央にある。バラの装飾が施されたドアをノックし、レースは中に入った。
 応接間は広い部屋だ。床には毛の長い薄茶色のラグが敷かれ、中央に立派な作りの丸テーブルと、革の長椅子がある。
 長椅子には、男が座っていた。大神官だ。服装ですぐに分かった。白地に金の刺繍が入った長衣を着ていた。刺繍は太陽と風の模様で、非常に細かく、見事なものだった。
 大神官の向かいに、アンナが座っていた。その周りには、数人の侍女が立っていた。
 アンナが振り返った。
「レース。来てくれたんだね。こちらはクロニト大神官。お母様の様子を診てくださるそうだ」
 大神官が、レースの方へ顔を向けた。
 新しい大神官の顔を見るのは、レースは初めてだった。アンナが小さい頃は、彼女をあやすためにレースも説教に付き添っていたから、以前、神殿にいた大神官も知っていた。その彼と比べると、新しい大神官は少し若かった。
 新しい大神官、クロニトは、初めまして、と言った。聞く者をうっとりさせる声だった。レースは深々と一礼した。
「お母様のことをよく知りたいんだって。今、侍女や護衛の者達に聞いてまわっているところなんだ。レース、知ってることを教えて」
「多くのことを知っているわけではありませんが、それでも良ければ、お話します」
 昔はただのお針子だったし、アンナの乳母になってからは、彼女につきっきりだった。ソフィと直接話をしたことは、それほど多くなかった。だがそれでも、知っていることを話した。
「女性のお手本のような、素晴らしいお方です。大輪の百合や薔薇のような気品に溢れ、それでいて我々のような者にも優しくしてくださいました。また、神殿にも足繁く通ってらっしゃいました」
 アンナの母ほど、神々の言葉を深く胸に刻んでいた人はいないだろう。彼女は、経典の文言を暗誦することもできた。王宮の聖堂にも、毎日のように通い、神々に祈りを捧げていた。何かあれば、当時の大神官にすぐ相談していた。体調が悪い時は、彼に処方された薬を飲んでいた。
「……ふむ、そうですか。ありがとうございます」
 クロニトは手元の紙を見ながら、そう言った。すでに似たような話を他の侍女から聞いていたのだろう、特に鵞ペンを動かす様子もない。
「以前の大神官から薬を貰った、とのことですが、一体それは何という名前の薬ですか?」
「えっと、確か、メヤキと言ったような──」
「え?」
 クロニトは弾かれたように顔を上げた。今聴いたことが信じられない、という表情をしていた。
「今、何と?」
 その時、侍女が入ってきた。ソフィ付きの侍女の一人だ。
「間もなく、妃殿下がいらっしゃいます」
 応接間に緊張が走る。アンナは席を立つと、部屋の隅の、目立たない場所に立った。侍女達も端により、長椅子までの道を作った。
 少し待つと、外から控えめなノックの音がして、ドアが開いた。
 ソフィが入ってきた。
 茜色の立派な上衣を着ていた。裾は花びらのように広がり、袖はゆったりと長い。胸元には銀糸の細かい刺繍が入っている。あの刺繍は、レースが縫ったものだ。
 肌には白粉を塗り、豊かな黒い髪を高く結い上げ、金の髪飾りで留めていた。とても美しいが、体調の悪さを隠せてはいなかった。明らかに痩せているし、白粉を塗った顔は、病人の青白い肌にしか見えなかった。
「大神官殿、本日はお越しくださり、ありがとうございます」
 ソフィはスカートの裾を持ち上げて挨拶した。クロニトも長椅子から立ち上がり、一礼した。
「妃殿下の体調がすぐれないとお聞きし、急いで参りました。是非とも、お力になりたいのです」
「まあ……何と嬉しいお言葉でしょう」
 ソフィは声を振るわせる。
 二人は長椅子に腰掛け、談笑を始めた。アンナはソフィ付きの侍女を一人残し、他の家来達を伴って応接間を出た。彼らに仕事に戻るよう伝えた後、隣の小さな部屋で、アンナは二人を待った。
「朝の説教はどうでしたか?」
 レースはハーブティーを用意しながら尋ねた。
「うん、良かったよ。あの大神官は、前の人とは全然違うね。書庫も見せてくれたよ。知らない本がたくさんあった。薬草や人体の本もあったよ。良いね、あれは。次の説教日にも読ませてくれるってさ」
 アンナの笑顔を浮かべて、ハーブティーを飲む。その姿を見て、レースも安堵した。神殿嫌いの彼女が、久々に神殿に行くことを喜んだのだ。
(これからは、アンナ様も真面目に経典を読まれるだろう。ああ、本当に良かった)
 部屋に満ちるハーブの香りを、レースは楽しんだ。
 しばらくすると、ソフィ付きの侍女がアンナを呼びに来た。アンナは笑顔で部屋を出ていった。
 戻って来た時、アンナは固い表情だった。
「どうされましたか?」
「お母様と大神官が二人で色々話をして、それで分かったことがあるんだけど」
「何ですか?」
「お母様が飲んでる薬、あったでしょ。前の大神官に勧められて、商人から買ってたやつ。メヤキっていう名前の。あれが駄目らしいよ」
「え? どういうことですか?」
「メヤキは少量なら、気分を良くする薬だ。色々な病によく効く。だけど、飲みすぎると目を悪くするらしいんだよ。そして、かえって心が沈むそうだ。そうなると、もう駄目らしい。心を高揚させようとメヤキを飲み、一時的に気分が高揚するけどまた悪くなり、またメヤキを飲んで……この繰り返しになり、最後は魂が壊れて死ぬそうだ」
「で、でも、何か方法があるのでは? ありますよね?」
 レースは無理に明るい声を出して尋ねた。
「メヤキを飲んだ後、すぐに大量の水を飲ませれば、尿と一緒に毒を出すことができるそうだ。だけど、一度壊れた魂は戻らない。大神官の見立てでは、お母様はもう手遅れだそうだ。今、大神官はお父様の所にも話をしにいってる。国内でメヤキの売買は禁止になるだろうね」
「で、で、ですが……どうして先代の大神官様は、そんなものを妃殿下にお薦めしたのですか? まさか暗殺をしようと?」
「多分違う。メヤキは、少し前まで神殿でも普通に使われたらしいんだよ。だけど、毒ということが分かって、その話が広まり、使わなくなってきているらしい。総本山ではもう禁止だそうだ。先代は知らなかったんだと思う」
「それは……知らなかったでは済まされないのでは?」
「そうだね。だけど、もうどうしようもない。とにかく、これからはお母様にメヤキを飲ませないようにしないと」
 すぐに、ティルクス国内でメヤキの所持、生産、売買が禁止になった。違反者は見つかり次第、厳しい処罰が下された。
 しかし、ソフィはそう簡単に薬を手放そうとしなかった。
「あの薬が必要なの! 持って来なさい!」
 彼女は周りの侍女に強くあたった。頬を打ち、物を投げ、昼夜を問わず叫び、怒鳴った。
 ソフィがおかしくなったことが、王宮に知れ渡るのに時間はかからなかった。
 王は、ソフィを王宮から遠ざけることを決めた。
 母親が馬車に乗せられ、王宮を出ていく所を、アンナは正門の影から見送った。
「おいたわしや……」
 涙ぐむレースの背中を、アンナはポンポンと叩いた。
「神殿で看病してもらえるから、これから良くなるよ、きっと」
 彼女の病は神殿が原因でもあるため、神殿で静養することが決まったのだ。王都の外にある小さな神殿で、彼女は終生を過ごすのだ。
「ですが……」
 レースは、ソフィの実家で働き始めた頃を思いだした。初めて刺繍を褒めてくれたのが、ソフィだった。その白い手で、刺繍を撫でてくれた事を、レースは昨日のように覚えている。
「二度と会えないと決まったわけじゃないし」
 レースは、仕える主人に慰められて恥ずかしくなり、顔を背けた。
 少し広くなった王宮で、アンナは相変わらず、本を読んだり書いたりしていた。神殿には真面目に通うようになったが、目当ては書庫の本だ。アンナの帰りは夕方になってしまった。
「アンナ様。何か他の事にも興味をお持ちになりませんか? 先日、婚約者様からお手紙が届いたと伺いましたが」
 婚約者個人からアンナに手紙が届いたのは、この時が初めてだった。二、三年すればアンナも十五歳で、結婚する歳だ。
「ああ、あの婚約ね。なかったことになったよ」
 アンナは手元の紙から顔をあげずに、そう言った。
「私の書いた手紙が難しすぎて読めなかったそうだ」
 レースは一瞬、息をするのを忘れた。
「は、はあ? そんな馬鹿な! アンナ様は王家の姫ですよ? こ、婚約が取り消しになるなんてこと──」
「冗談だよ」
「じょ、冗談? ああもう、心臓に悪い冗談はよしてください」
「冗談なのは理由の方ね。婚約者の家の当主が、お母様の事を悪く言っていたのが、お父様の耳に入ったんだってさ」
 目を白黒させるレース。言葉が耳に入ってこない。
「兄様達は、私が神殿と仲良くしている方が利があるとか何とか言ってたけど。どうなんだろうね?」
 昼下がりの噂話と同じ調子で、アンナは言った。
「どうするんですか? 早く新しい婚約者を探さないと!」
「そのうち決まるでしょ」
 生返事のアンナ。右手を止めず、小説を書き続ける彼女の姿を見て、レースは頭を抱えた。
 年頃の娘なら、好きな男の一人でもできそうなものだが、アンナは本に夢中だった。月に一度、お付きの者を連れて、欠かさず市に行っていた。
「アンナ様。読み物を買われるのはどうかお控えください。また妃殿下に叱られますよ」
「いつものことじゃん。気にしやしないよ」
 彼女はニコニコ笑顔で、台車に並ぶ冊子をまとめて手に取り、店主に値引き交渉をし始めた。レースはもう、ため息すら出なかった。
「ほらほら、そんな顔しないでよ。これ買ったら、レースのお家に行こう」
「そうやって機嫌を取ろうとしたって無駄ですよ」
 レースはそう言い返したが、実際無駄ではなかった。レースは、アンナと他の侍女達と別れて、家族が住む家に喜んで帰った。
 四人の子どもは大きくなり、もう奉公先が決まっていた。夫は、橋の建設事業がようやく終わり、多額の成功報酬を受け取ったばかりだった。
 休憩しに仕事場から帰ってきた夫と、近況を話し合った。
「最近な、新しい仕事が来たんだ。彫刻の依頼だ。依頼主は、遠くの町の市長の息子……らしい」
 夫は、珍しくうかない顔をしていた。
「新しい仕事? 良いじゃない」
「なんか胡散臭いんだよ。話し方は丁寧なんだが、服が妙にボロいんだ。それに、これを見てくれ」
 夫は戸棚から、一枚の紙を取り出し、机に置いた。
 細かい字が書かれているが、レースには読めない。
「これは契約書なんだが、この辺の組合で使っている契約書と違う。こんなの見た事が無い。依頼主にそう言ったら、うちの町で使っている契約書だ、彫刻を完成させたら、うちの町で親方になれるよう取り計らってやる、と言われてな」
 話を聞くうちに、レースの胸の内に不安の雲が広がっていった。
「それは怪しいわね」
「ああ。俺の親方や他の連中に契約書を見せても、読めないって言われたんだ。俺もこの町の契約書は読めるが、それ以外はさっぱりだ。なあ、レースがお仕えする王女様、文字が読めるんだろう? 町に来てるよな?」
「え、ええ? そりゃあ、来てるけど。近所にいるわ」
「じゃあ、これをちょっと読んでもらえたりしないか?」
「ああ……そうね。アンナ様はお優しいから、多分、お読みになると思うけど」
 近くの広場で、アンナは侍女や護衛達と一緒に石に腰掛けて、芋団子を頬張っていた。
「あ、レースの旦那さん。こんにちは。そんなに慌てて、どうしたんです?」
 夫は契約書を渡し、アンナに懇願した。彼女は快諾し、契約書に目を通す。
「読めるけど、専門用語が多すぎて、意味がよく……とりあえず、読みあげますね」
 その声を聞く夫の顔は、みるみるうちに険しくなっていった。
「──ありがとうございます。あいつ、とんでもねえ嘘つきのクソ野郎だと分かりました。危うく騙されて、大損するところでした」
「また何かあったら遠慮なく見せてくださいね」
 夫は深々と礼をすると、肩を怒らせながら去っていった。
「アンナ様、本当に、ありがとうございます。もう二度と、本を読むななどといったことは、申し上げません」
「えー? 小言を言わないレースなんて、もはや別人でしょ。別に気にしなくていいよ」
 アンナは笑っていたが、レースは本気だった。この日から、アンナの読書について、否定的な事を言ったことは一度もない。
 書物に囲まれる日々は続いた。毎日本を読んで書き、週に一度、神殿の書庫に行き、夏至祭と冬至祭の前には、様子を見てこいという王の命令で、母がいる神殿に行った。
 レースが考えているうちに、悲劇は起きた。
 ソフィが崩御されたのだ。
 発見した神官は、最初、ソフィがただ静かに眠っていると思ったそうだ。だが声をかけても返事がなく、そしてようやく、気がついたらしい。
 厳粛で、盛大な、葬送の儀式が執り行われた。病に臥す前は素晴らしい王妃だった。そのことを覚えている多くの人々が涙を流した。
 喪が明けた後、何人かの侍女達の配置換えが行われた。ソフィが実家から連れてきた侍女は実家に雇われているので、彼女らの処遇はソフィの実家が決定する。
 アンナに付いていた侍女も、数人が辞めた。実家から雇われていた者達だった。
「レースはどうする?」
 狭い部屋で、冊子を読みながらアンナは言った。
 壁には冊子が高く積み上がり、書物の塔が立っていた。床も歩く場所がほとんど無かった。ベッドと机とドアを結ぶ、細い道ができていた。
「どうせ、お母様の実家から、辞めるように言われているんでしょう?」
 レースは否定しなかった。
「結局、最後までお母様と和解できなかったし。そりゃあ、実家も私を嫌うよね」
「……今からでも、服装や髪型を他の王女のようにするのはいかがです? 少し変わるかもしれませんよ?」
「やだよ、面倒くさい」
「アンナ様ならそうおっしゃると思っていました」
 レースはふふっと笑った。
「で、どうするの?」
「そうですね。まずは最後の給金を受け取りに参ります。それから、王宮の求人を探します」
 アンナは冊子から顔を上げた。
「王宮の求人? 何で?」
「新しい仕事先を見つけなければなりませんから。改めて王宮で雇われ、引き続き同じ仕事をする者もいますよ」
「ふうん。ま、勝手にしたら?」
 冊子に視線を落とすアンナ。ページをめくる手が、先ほどと違い全然動いていない。
 レースは、一礼し、部屋を出た。


(あれから随分長い間、アンナ様に仕えてきたものね。こんな遠くまで来てしまった)
 レースは、スープの最後の一口を飲みこむ。
 休憩は終わりだ。屋台に皿を返すと、再び市場を歩く。
 エレア王国の冬は、故郷ほどではないが、寒さが厳しいことに変わりはない。
(夕方から、雪が強くなりそうね。早く用事を終わらせて、帰らないと)
 紙屋を見つけた。アンナの小説用の紙と、ミアのメモ用紙、そしてレースが家族に手紙を書くための便箋を買う。
(皆、元気かしら。夏に会った時には、職人になったらエレアに遍歴の旅に出る、とか言ってたけど。早く来ないかしら)
 本屋に着く。
「店主さん、刺繍の図面集はありますか?」
「あるよ。そこの棚だ。最新のやつだ」
 店主が指さした先には、刺繍の図案が表紙になっている冊子がある。中には、流行の図案や、新しい縫い方が載っている。レースはこの本を買った。
(ああ、買えて良かった。何を刺繍しましょうか……)
 買い物かごを背中に背負い、冊子を胸に抱き、レースは家路についた。

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