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言葉が形作るもの-後編-

 この家は、今までいたどの場所とも違っていた。静かで広かった。
 玄関から入ってすぐの部屋で、若い人と年老いた人──つまり、アンナとレースに会った。当時は全然知らない怖い人達、としか思わなかった。名前も分からなかった。
 二人はミアをじっと見て、何か声を発した。また殴られる、あるいは鞭打ちされると思い、ミアはブルブルと震え、うつむいた。
 年取った人が、ミアの手を引き、屋敷の奥へ連れていった。その先の部屋で、服を渡された。これを着ろという意味だと受け取り、ミアは着替えた。
 次に別の部屋へ連れていかれた。そしてまた別の部屋へ。部屋はどれも広い。そしてどの部屋にも、大きな棚や箱があった。そこには薄い、ペラペラしたものがたくさん入っていた。
 最初の部屋に戻ってくると、彼女はまた何か声を発した。よく分からず立っていると、ミアを一人残して出ていった。
 その部屋には戸棚と寝床があった。疲れていたミアは、すぐに寝床で横になった。
 それからしばらくの間は、今までと変わり映えのない日々が続いた。年取った人に手を引かれ、着いた部屋で掃除道具を渡され、掃除をした。食べ物を渡されたら食べて、寝床に連れていかれたら寝た。
 運命が変わったのは、ある晴れの日の午後、掃除中のことだった。
 その時、ミアは薄いペラペラしたものを棚に片づけていた。それには黒い模様があった。
 皿とコップを別々の棚にしまうように、ミアはそれらを模様ごとに分けて棚にしまった。
 すると、後ろから若い人がやってきた。彼女はミアが片づけた棚を見ると、ミアに向かって声を発した。顔を見る限り、怒ってるとかではなさそうだった。
 彼女は、模様がついたペラペラしたものをいくつか、ミアに渡した。ミアは模様を見ながら片づけた。
 それを見た彼女は、机へミアを連れていった。机の上にペラペラしたものを広げ、そこに大きな羽で何か模様を書いた。
 その模様を指して、彼女は言った。
「ミア」
 名前を呼ばれたのは分かった。だが、この行動の意味が分からなかった。
 それから彼女はもっとたくさんの模様を書いた。模様を書いた紙を、机や棚、椅子に貼りつけていった。それを指差し、声を出した。それを何度も繰り返した。
 その意味が分かったのは、しばらく後だった。年老いた人が、模様と一緒に掃除用具を渡してきたのだ。模様がある場所へ行って掃除をすればいいのだ、とミアは理解した。
 若い人はよくミアを呼び、様々な模様を書いてみせ、声を発した。やがてミアは、声と模様が対応していることに気づいた。「ミア」「アンナ」「レース」、これは人の名前。「机」「椅子」「パン」、これは物の名前。今まで模様と思っていたこれは「文字」。文字を書きつける薄いものは「紙」。それを束ねた物が「冊子」や「本」。
 人の声にも意味があることに気づいた。聞こえた声を心の中で文字にする。
「おはよう、ミア」
 これは挨拶。朝にするもの。
「棚を整理して」
 棚の整理だから箒と雑巾はいらない。
「皿を洗って」
 皿を洗うのだから台所に行かなければ。
 ミアはアンナに文字を習った。ある時からは、レースも勉強会に参加した。
 アンナが単語の綴りを見せ、読みあげた。ミアとレースも読み上げ、自分の手で繰り返し書いた。
 言葉を知るたび、ミアの見える世界は明るくなっていた。自分が何をして、相手が何を言ってるのか、分かるようになってきた。
 単語を覚えたら、次は文章だった。昔話が書かれた冊子を渡し、声に出して読むよう指示された。
 最初は時間がかかった。読めない単語ばかり。単語と単語のつながりが分からず、その意味を組み立てられない。文字の羅列に圧倒され、ミアはこんなの出来っこない、と半ベソをかいた。
 だが続けているうちに、段々言葉を噛み砕けるようになってきた。ミアは窮地に陥った主人公を心配した。知恵と工夫で危機を乗り越える主人公に感嘆した。
 一本の物語を読み終えた時。ミアは今までにない喜びと楽しみを覚えた。一度コツを覚えてしまえば、あとは反復練習だ。
 初めての物語は、ミアを夢中にさせた。
 屋敷の外の庭に妖精の家がないかと探して、レースにサボるなと注意された。夜眠る時、窓の外を吹き荒ぶ風が魔物の咆哮に聞こえて、ミアは毛布の中でガタガタと震えた。次の日は寝不足で、レースにそんな魔物はいないと優しく言われた。
 ミアは貪るように読んだ。亡国の、悲喜交々の叙事詩。創世の神々の荒々しい物語……様々な登場人物にミアは出会った。中でも、神話の英雄に夢中になった。寝ても覚めても彼のことばかり考えていた。何故今、現実に存在しないのだろうと、残念な気持ちになった。神話の時代へ行かせてくださいと神々に願った。
 その事をアンナと話すと、彼女も共感してくれた。二人で、勉強そっちのけで英雄のことを話した。仕事も寝食も忘れて彼の魅力を語っていたものだから、レースにこっぴどく叱られた。叱られたところで、ミアもアンナもやめなかったが。
 アンナは、こっそりと、彼女自身が書いた小説をミアに読ませてくれた。昔話や神話のようで、そうではない新しい物語。ミアは彼女の小説にも夢中になった。アンナに感想や意見を伝えたり、議論をした。
 ミアは従者でアンナは主人。しかし物語の感想を話す時に限っては、ミアはほとんど対等な目線で、はっきりと意見を言った。物語の構造の良し悪しや、登場人物の考察。神話や叙事詩から引用することの意味について。時には大喧嘩に発展することもあったが、すぐに仲直りした。
 レースはそんなミアの姿を見て、大きな大きなため息をついた。
 作り話ではなく神官のお話を聞きなさいと、ミアはレースに神殿へ連れていかれた。ミアは、神殿が好きだ。広くて美しい場所だから。しかし神官の話を聞くのは難しい。聞いた言葉がそのまま煙のように消えてしまうからだ。覚えようとすればするほど、かえって混乱した。
 これは日常の会話でもそうだった。単純な会話や指示なら覚えていられるが、長く複雑な会話だと、途端に理解できなくなる。聞いた言葉が心の中でバラバラに崩れてしまうのだ。このせいで数えきれないほどミスをしてしまった。アンナとの読書会で、意見を理解できず悔しい思いをした事もあった。
 すると、ある日、アンナに呼び出された。急いで部屋に向かうと、ミアに手に収まる大きさのメモ帳と、鵞ペン、そしてインク壺を渡した。
 メモ帳の効果はてきめんだった。レースの指示を書き留めることで、仕事の失敗が減った。神官のお話も分かるようになった。
 こうしてミアは、今に至るまで働いている。
 あの瞬間──メモ帳を手渡されたあの時の、アンナの微笑みを、ミアは決して忘れないだろう。


 ミアが話し終える頃には、ウェーファは全部無くなっていた。
「館長が、ミアさんが耳から入ってくる言葉に弱い、とおっしゃっていましたが、そういうことでしたか」
 ベルはそう言った。
「はい。アンナ様は、私が冊子を作者順に分けているところをご覧になり、もしやと思って教えてくださったそうです。私は幸運でした」
 文字を習わなかったら今頃どうなっていたか。ミアには想像できない。言葉を知らないミアはミアではない。
 遠くで、鐘の音が鳴った。昼休憩も終わりだ。
「さあ、皆さん。仕事の時間ですよ。頑張りましょう!」
 皆、真面目に午後の仕事に取り組んだ。
 日が暮れて閉館時間になる。戸締まりをした後、皆でカウンターの横の部屋に集まる。机から配架予定の本をどかし、机の中央に燭台を置く。蝋燭に火を灯す。
 毎日、閉館後に、まだ読み書きが満足にできない職員達に、ミアが文字を教えている。普段はアンナもいるが、彼女は今忙しく、図書館にいない。だからミア一人で教えなければならない。
 ミアは、書架から持ってきた冊子を机に置いた。それは、かつて一生懸命音読した昔話の本だ。
「さて、では昨日の続きからです」
 冊子のページを開いた。

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