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瑞木の森、と呼ばれる場所があった。里の人間は誰も近づかない、小さな森だ。
その奥深くにある、小さな滝。
滝壺の底に、一人の少女がいた。
顔立ちはまだ幼い。額は広く、目は大きい。肌は日焼けしている。二つ結びにしたこげ茶の髪と、簡素な白い衣がゆらゆらと揺れている。
少女の名前は、リエという。リエは滝壺の底で仰向けになり、そこから水面を見ていた。
流れ落ちる水が立てる白波、黄金にきらめく日の光。口を開くと小さな泡がコポコポと漏れ出て、水面へ昇っては消えていく。その様を、ぼうっとした表情で見つめる。
突然、水面が不自然に大きく揺れた。
同時にドボン、と大きなものが落ちた音がする。リエは目を見開くと、すぐに水面へ上り、顔を出した。
緑の木々、透明な水、黒々とした岩、そして──水辺に倒れた血まみれの獣。
リエは大急ぎで獣の元まで泳いだ。
(これは……狼? 狼、だよね。絵巻物で見たのと同じだもん)
狼は、かなり大きい。背中に二、三人乗れそうだ。
しかし、何よりも目をひくのは、狼の腹や足に、巨大な爪で引っ掻かれた……というより、肉を削りとられたような傷だ。早く手当てをしなければ、命が危ない。
リエは岩場に置いてあったカゴの中から、布を取り出した。瓶の中にはさっき採ったばかりの血止めの薬草が入っている。草を岩で叩いて汁を出し、それを傷口に擦りつけ、布で止血する。狼はピクリとも動かない。命は風前の灯火だ。
「待ってて。他にも薬を取ってくるから」
リエは全速力でその場から駆けだした。しばらくして、大きな背負子と一緒に戻ってきた。背負子には、大小様々な大きさの木箱と大量の包帯が乗っている。
木箱の蓋を開け、どろりとした液体を傷口にたっぷりと塗り、包帯を巻く。その時、リエは気づいた。血で分からなかったが、狼の毛の色は赤ではなく白だ。
「ウウ……」
弱々しく唸る狼。リエははそっと背中を撫でる。
「落ちついて、大丈夫だから」
一つずつ、全ての怪我に包帯を巻いていく。
全ての傷を手当てしおえると、リエは疲れた顔で近くの切り株に座った。狼の尻尾をぼんやり見つめながら、これからどうするかを考える。
(とりあえず止血したけど、狼の世話の仕方なんか私、知らないよ。うーん……まずは何か食べさせた方がいいよね?)
リエは背負子から笹の包みを取りだした。中には冷えたおむすびが入っている。
「これ、食べる?」
「一つ、もらおう」
突然声が聞こえた。とても低い声だ。少女は辺りを見回すが、誰もいない。
「どこを向いてる……お前の前にいるだろ」
リエは狼の顔に視線を落とした。狼は緑色の目で真っすぐこちらを見ている。
「え、ええ?」
パチクリと瞬きする。
「狼が喋った!」
「喋ったら変か? それより、腹が減った。そのおむすび、一つくれないか」
リエはそろそろと包みを解く。狼が口を少しだけ開く。鋭い歯と真っ赤な舌が見える。リエは恐る恐る、おむすびを口の中に入れた。狼は、ゆっくり噛んで、飲みこむ。
「助かった」
そう呟くと、狼は目を閉じた。ゆっくり寝息を立てている。
リエは狼を起こさないよう、そっと立ちあがり、狼から離れた。そして森の小道を走る。やがて、開けた場所に出る。
百歩足らずで一周できる、小さな広場だ。真ん中に井戸があり、その横にリエが住む小屋がたっている。奥には、鉄でできた頑丈な門がある。ちょうど門が開き、バア様が入ってきた。
「バア様!」
「おや? リエ、どうしたんだい?」
バア様は皺だらけの顔をほころばせる。
「バア様、狼よ! 狼がいる!」
「狼?」
バア様の声が裏返る。
「本当かい? 大丈夫だったかい?」
「うん、大怪我してたから手当てしたよ。それに喋ったの!」
「喋った?」
リエはバア様と一緒にもう一度森に戻り、狼の元へ連れていく。狼は、まだ眠っている。
「……これは、霊獣様ではないのか?」
「レイジュウ?」
「神様の遣いだよ。言葉を話す、特別な獣だ。しかし、なんと痛ましいお姿……」
リエは神様の遣い、と繰り返す。
「オボロ様の遣いってこと?」
「かもしれないね。今までこんなことは無かった。リエは特別な子なんだね」
バア様はそう言って、しわだらけの顔をますますしわくちゃにして笑う。
「リエ、ちゃんと手当するんだよ」
リエは神妙な顔で頷いた。
「分かった」