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外伝-1 巣立ち

 そばで物音がした。
 ソラは寝床から起き上がった。
 暗い。濃い朝露の臭いと、濡れた土の臭い。畑の臭い。
 そして、人の臭い。二人いる。
「おはよう」
 アサヒがそう言って、ソラの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「今ご飯を用意するね」
 ヨモギは、戸棚からお椀を二つ、出した。お釜から米をすくうと、お椀に盛る。それから、床のすみにある、ソラ専用の皿におむすびが置かれた。隣の皿には水が注がれる。ソラはぴちゃぴちゃと水をなめ、おむすびを食べた。
 人間二人は農具を持って外へ出る。畑仕事だ。ソラもあとをついていく。
 ちょうど日が昇ったばかりで、東の空が明るい。眩い陽光が、ソラの白い毛をぬくめる。
 二人は元気なかけ声をあげて、鋤を振り下ろす。真新しい土の臭いが立ち上る。
 他の畑からも、声が聞こえてくる。最初は全員バラバラだったのが、だんだん揃ってくる。やがて、一つの大きなかけ声になった。
 ソラは声を聞きながら、のそのそと歩き出した。
 ソラの仕事は見回りである。もしも、凶暴な野犬や森から飛び出してきたら、噛みついて追い払って、村の人間を守るのだ。
 ソラは畦道を歩いた。日を浴びて目を覚ます草花、石の影で動く虫。小川のせせらぎ。鼻先をくすぐる風は、今日の天気が晴れだと教えてくれる。
「あさだ! あさだ!」
 近所に住む犬が走ってくる。ソラは「おはよう」と言った。
「むしだ!」
「のどかわいた!」
「あそぼ、あそぼ!」
 駆けていく犬の背を、ソラは見送る。
 昔はあの犬達とも遊んでいたが、いつの間にか離れていった。というのも、彼らは今しか見えていない。目の前のことしか興味がない。『過去』や『未来』という概念も無いことはないが、ソラの様にはっきり認識できない。
 人間も、そのことは分かっているらしい。「ソラは賢い犬だ」「今まで見た中で一番賢い」「人の言葉、全部分かってるんじゃないか?」と言われた。
 その通りだ。ソラは人間の言葉が分かる。完璧に理解できる。ただ、ソラは人間の言葉を話せない。だから意思疎通が取れず、ソラは何度も歯痒い思いをしてきた。
 田畑の間を走る水路を飛び越え、しばらく進む。濃い水の臭いがする。やがて、世ノ河のほとりに出た。
 朝日を浴びて輝く水面。どこまでもどこまでも、水が広がっている。遥か遠くに、対岸がうっすらと見える。今日は良い天気になりそうだ。
 舟が出ている。村の男達が漁に出ていて、かけ声や歌が聞こえてくる。
 今日の夕飯に魚が出てくる事を期待しながら、ソラは村の外周を見てまわる。適当な虫やネズミがいたら、おやつ代わりに食べる。
 森の入り口までやってくる。土と木々、水の臭いが混じり合った風が、ふいてくる。この先はソラの縄張りではない。ソラは里に戻ろうと、尾を森に向けた。
 里で、人の子達と遊ぶ。彼らは身体が弱いくせに、すぐにどこか遠くへ走っていこうとしたり、高い場所に登ろうとする。馬鹿だな、とソラはいつも思う。そんな彼らを守るのも、ソラの仕事だ。
 夕方になると、人間は家に帰る。ソラも、ヨモギとアサヒの家に帰る。
「ソラ、夕飯だよ」
 皿に握り飯が置かれる。ソラはあっという間に平らげた。
 夕食を食べたら、寝る時間だ。アサヒとヨモギは布団に潜りこむ。ソラは藁の寝床で丸くなった。あくびを一つして、目を閉じる。
「──おい、どこだ──どこに、いる……」
 ふと、声が聞こえた。
 知らない声だ。耳からではなく、頭の中へ直接聞こえてくる。
(何だ? 誰だ?)
 辺りをキョロキョロと見まわすと、知らない臭いが鼻をついた。
 獣の臭いだ。それも、人間でも犬でも鳥でもない、ソラと似た臭い。
 ソラは家の外へ出た。臭いは森から風に乗ってくる。少しためらった後、今まで一度も入ったことがない森に入る。
 足元から立ち上る土の臭い、眠りを妨げられ不機嫌な草木の香り、木々の隙間に満ち満ちる水の臭い。見えない水が、空気の中を流れている。その流れの中に、獣の臭いが混じっている。
 臭いを辿り、ソラは森の奥へ入っていく。
 やがて、木々が少ない岩場に出た。岩と岩の間を、水がチョロチョロと流れている。
 一際高い岩の上に、巨大な狼が立っている。
 狼はソラよりもずっと、ずっと大きい。まるで牛のよう。人を乗せて走れそうなほどの巨躯だ。
 ソラは自然と平伏の姿勢をとった。相手はとても、ソラの敵う存在ではない。恐ろしい。
「来たか。お前が、そうか」
 狼は鋭い目で睥睨する。一体どうやって頭の中に話しかけているのだろうか。ソラには分からない。
「誰だ、お前は」
 心の中で、そう問いかける。それが相手に伝わったらしく、狼は「私はお前の同胞だ」と言った。
「人間の里に我々と同じ種族がいると聞いて、会いに来たのだ」
「同じ種族? どういう意味だ?」
「何も知らないのだな。若き同胞よ」
 明らかに馬鹿にされているが、ソラは言いかえせない。
「我々は霊獣。森の奥に住むものだ。下等な獣ではない。風と鳥の囁きで、人間の地にいると聞いて、迎えに来た。お前はこのような地にいるべきではない。共に来い」
「はあ?」
 いきなりそう言われても。ソラにはヨモギとアサヒがいる。
「人間が恋しいか? だが、いずれ奴らも気づく。お前が犬でも狼でもないと。人間どもの巣よりも大きく、言葉を理解する獣に、奴らは恐怖するだろう。お前は人間の里では生きていけない。さあ、来るんだ」
 来る以外の選択肢はないぞ。
 言葉にはしないが、そう言っている。
 ソラは里のことを考えた。ヨモギもアサヒも好きだ。他の人間も。だが人間はソラを犬だと思っている。そして、その犬とは話が通じない。
(この狼……じゃなかった、霊獣の言うとおり、里を出ていくべきなのかもしれないな。それに、仲間だって? 俺と同じ奴ら……会いたいな)
 ソラは背後を振り返ったあと、「行く」と言った。
 霊獣は森の奥へ走っていく。ソラはあとを追った。
 暗闇の中に、白く輝く光が見えた。蛍でも焚き火でもない。見たことがない、不思議な光だ。
 霊獣はその光へ飛びこんだ。姿が光の中に消える。
 ソラは見たものが理解できず立ち止まる。だが森の中のどこにも霊獣の姿はない。意を決して、光の中に入る。
「な、何だ、ここは」
 そこは緑の光に満たされた空間だった。足元には金色の帯のような道があり、遥か遠くへ続いている。
 霊獣は金色の帯の道に立っていて、小馬鹿にした目でソラを見ていた。
「何だ。霊道も初めて通るのか? ほら、こっちだ。早く来い」
 金色の道を走りだした。ソラも後に続く。
 やがて、また白い光が見えてきた。霊獣はそこに入った。ソラも入る。
 光の先はまた森の中だったが、先ほどとは明らかに違う場所だ。
 苔むした古い古い森。霊獣の臭いと気配がする。
 空気の臭いもどこか違う。澄んでいる。
「ようこそ。ここがお前の住処だ」
 ソラは感じたことのない安らぎを味わった。
 臭いが教えてくれる。ここが自分の故郷なのだと。


 霊獣達は、ソラに様々なことを教えてくれた。
 水飲み場の位置、狩りの仕方、縄張りの維持の仕方。霊道の通り方。
 新しい暮らしには、すぐに馴染んだ。仲間の霊獣と共に、獲物を追い詰め、柔らかい血肉を味わう。風が運ぶ臭いを嗅ぎ、水のそばにいる霊の声を聞く。
 霊とは、死後の世界に行く途中で迷った者のことだ。霊を見つけると、霊獣は彼らを背中に乗せ、霊道を通って世ノ河まで連れていく。
「迷子を安息の地へ送り届けることも、我々の責務だ」
 初めて霊道を通って世ノ河に向かっている時、年長の霊獣がそう言った。
「……届けること『も』? どういうことだ?」
「もう一つの我々の責務は、悪霊を滅ぼすことだ」
「悪霊?」
「邪悪な霊だ。この辺りにはいない。見たらお前もすぐに分かるだろう」
 霊道を出ると、そこは世ノ河。霊は喜んで青い水に消えていく。水の流れの先は安息の地だ。今度は迷わないだろう。
(アサヒとヨモギは元気だろうか)
 煌めく川面を見ると、ソラは里を思いだす。少しだけ心が苦しくなる。
「おい、どうした? 帰るぞ」
「あ、ああ」
 霊獣に呼ばれ、ソラは霊道に戻る。
 昔を懐かしむ一方で、今の群れの暮らしも、ソラは気にいっている。同じ仲間がいる。孤独ではない。
 深い森の中を駆ける日々が続く。
 ソラの体躯はみるみるうちに大きくなっていった。牙は伸び、どんなものでも切り裂くことができる。毛並みは群れの誰よりも美しい銀色になった。
 ある夜。泉で水を飲んでいると、木にとまっていた霊鳥が甲高い声で鳴いた。
「森で人の子が入ってきたぞ、入ってきたぞ」
 ソラは泉から顔をあげた。
「何? どこだ、案内してくれ」
「おい、待て。人間を助けにいく気か?」
 隣にいた霊獣が剣呑な目つきでソラを見る。
「やめろ。放っておけ」
「何故だ? 霊は助けるだろ?」
「幽霊は時に、悪霊と化す恐れがあるからな。生きた人間は放っておけ。森で死ぬのもまた運命だ」
「だが……」
「我々は低俗な人間共には関わらない。そうだろう? だから、行くな」
 里での暮らしが、心の中に蘇る。
 ヨモギとアサヒの微笑み、ソラの頭を撫でる手の温もり、里に広がる田畑。話は合わなかったが友達だった犬ころ、一緒に遊んだ子ども達。
 ソラ、と名前を呼んでくれた人間の声。
 ソラはもう一度霊鳥を見た。
「頼む。連れていってくれ」
「おい! 待て!」
 霊鳥は枝から飛び立った。青白い尾羽をはためかせて、ゆっくりと飛んでいく。ソラはあとを追う。
 いくつかの獣道と霊道を通り抜け、ソラはようやく人の臭いを嗅ぎとった。泣き声もする。
 鳥がとまった枝の下で、子どもがうずくまって泣いている。
「おい、大丈夫か」
 子どもはソラの姿を見るなり、凍りついた。
「殺したりしない、安心してくれ。お前はどこから来たんだ? 家まで帰してやる」
 子どもは目に涙を浮かべてソラを凝視している。ソラが「大丈夫、大丈夫だ」と何度も言いきかせると、少し落ち着いたのか、表情が和らいだ。
「どこから来た? 道は分かるか?」
「……分からない」
「そうか。まあとにかく近くに来い。人のいる場所まで送り届けてやるから。ほら、来い。俺の背中に乗れ」
 ソラは子どもが背中に乗りやすいよう、足をかがめた。子どもは、ゆっくりそろそろとソラに近づく。恐る恐る手を伸ばし、毛を触る。
 その時、子どもの衣の袖から、知っている臭いがぷんと漂った。ヨモギとアサヒの臭いだ。
「お前、ヨモギとアサヒを知ってるか?」
「あ、うん……同じ里に住んでるよ。僕、田んぼを手伝ってるんだ」
 里の場所は分かる。ソラは途端に力がみなぎってくるのを感じた。
「二人のこと、知ってるの?」
「ああ。すぐに連れていってやる。さあ乗れ。振り落としたりしない」
 子どもが背中に乗ると、ズシリと重くなる。立ち上がると、若干ふらついたが、すぐに落ち着いた。少し歩く。ちゃんと足が動く。
「俺の胴に腕を回せ。そうだ。お前の身体を俺の背中にピッタリくっつけろ。よし、いくぞ」
 霊鳥に礼を言って、ソラは駆けだした。
 月光が届かない森の中。真っ暗だが、ソラには方角が分かる。子どもの足跡の臭いを逆に辿ればよいのだ。
 進むにつれ、徐々に、森の様子が変わっていく。人を寄せつけない森から、人の手が入った森へ。木々がまばらになり、平らで太い道がある。
 ソラは道を走る。すると、風に乗って知らない臭いが飛んできた。
 その瞬間、ソラの毛がゾワリと逆立つ。
(これはなんだ? 肉か魚かが腐った時の臭いのような……いや、この悪臭はそんなもんじゃない。普通じゃない)
 背中にいる子どもに問いかける。
「なあ、里で何かあったのか? 嫌な臭いがするんだが」
「森に怖いのがいる」
「怖いの?」
「うん。昼は出てこないけど、夜になると里に出てきて、畑を荒らしていくんだ」
「そいつに会ったのか?」
「うん。夕方、森にいたらやってきて、怖くて逃げた」
「森にいた? 何故だ?」
 子どもは答えない。
「他に一緒だった子どもはいないのか? もしいたら、その子も探さなければ」
「う、ううん、いないよ。一人だった」
「じゃあ何故一人なんだ? 父ちゃんとケンカしたか?」
 子どもは答えない。
「……僕悪くないもん」
「そうか。早く帰って、仲直りしないとな」
 ソラは道を急いだ。臭いはどんどん強くなっている。
 ようやく、森を出た。
 悲鳴や怒号が聞こえる。松明を持った人間達が、畦道を歩いている。
 人間達の視線の先には、黒いモヤのようなものがいる。人のような形をしているが、人ではない。生きているものでも、ただの霊でもない。
「──悪霊」
 霊獣から聞いた言葉を呟く。この禍々しさ、悪霊でなくて何だというのだろう。
「おい、すぐそこの茂みに隠れてろ。早く」
 子どもが背中から下りたのを見ると、ソラは飛びだした。田畑の泥を跳ね飛ばしながら走り、人々の前に出る。悪霊と対峙する。酷い悪臭で鼻が痛む。
 悪霊は突然の乱入者に、一瞬驚く様子を見せた。だがすぐに敵対心をむき出しにする。黒いモヤの中から、どす黒い血のような赤い炎が噴き上がる。
 ソラは悪霊に飛びかかった。炎めがけて牙を突き立てる。手応えはあった。柔らかいものに突き刺さる感触がある。同時に、口の中にドロドロとした何かが入りこみ、吐きそうになる。
 悪霊はもがき、ソラの牙から逃れた。森へ逃げようとするが、その先には松明を持った人間がいる。彼らは大声を上げ、松明を突き出して威嚇する。一瞬、悪霊が怯む。
 そこへ、背後からソラが襲いかかる。脚の根元に深く牙を突き立て、引き裂く。
 悪霊が悲鳴をあげた。不快な声だ。聞いた瞬間、耳を引きちぎりたくなる。ソラは何とか理性で耐え、また飛びかかる。次は腕をちぎる。そして胴に風穴をあける。
 悪霊は悶え苦しみ、絶叫した。かろうじて人の形を保っていたモヤが崩れ、炎が消えた。ボロボロの骨のかけらだけ残して、悪霊は消えた。
 ソラは口を洗おうと、水路に近づいた。その時、
「ソラ? ソラなのか?」
 アサヒとヨモギが、松明片手に歩いてきた。記憶の中の二人と比べて、少し老けている。
「帰ってきてくれたんだね。心配したよ。大きくなったなあ。森で拾った時は、あんなに小さかったのに」
 アサヒは腕を伸ばし、ソラの首を撫でる。ソラは人間よりも大きくなってしまった。もう以前のように、頭を撫でてもらうことはないのだ。
 遠くで、子どもの泣き声が聞こえた。ソラが連れて来た子どもが、親と再会し、涙を流して抱きあっている。
「育てていると、ソラは犬ではなく狼なんじゃないかと思ってたが、こんな立派になるとはねえ」
 ヨモギは目を細めて、ソラを見上げる。以前はソラを見下ろしていたのに、今ではソラの方が彼女よりも背が高い。
 ソラは里を見まわした。人も家畜も、ちっぽけに見える。人は遠巻きにソラを見つめ、ヒソヒソと囁いている。
 かつて住んでいた家を見つけた。とても小さい。もう中には入れない。
 ソラは二人に背を向けた。
「もう行っちまうのか? 元気でやれよ」
「たまには帰ってくるんだよ」
 振り返り、アサヒとヨモギの姿を、そして里の景色を目に焼きつける。そして走りだした。
 森に入ると、霊獣がいた。
「愚かものめ。人間は自分が一番だと自惚れる連中だ。奴らの見方をするとは、霊獣の誇りを忘れたか?」
「そんな誇りは知らん。そもそも、霊獣って何なんだ? 俺はただの狼だ」
 ソラは、走り去った。

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