「誰の手も借りずに、死にたいんだよね」
メイはそう言った。
部室で、文化祭に出す部誌を作っている時のことだった。コンビニにお菓子を買いに行こうよ、くらいのノリで、メイは確かに『死にたい』と言った。
「いきなりどうした?」
私は、できるだけ平静を装って尋ねた。
いじめ? いや、そんな話は聞いたことがない。みんな、普通に仲良くしてる。家族の不仲? でも、夕食は一緒に食べてるってこの前話してたばかりだ。不治の病? いや、メイの長い髪は今日もツヤツヤで、顔色も元気そうだ。
「あ、病んでるわけじゃないよ?」
顔を上げ、メイは微笑む。
「五月にお祖母ちゃんが死んだんだ。病気で」
「あー……そうなんだ」
曖昧に相槌を打つ。ごめん、ぜんっぜん覚えてない。五月。大体三ヶ月前か。五月、五月……あれ、私、何してたっけ。
「火葬場の煙突の煙を見ながら、思ったんだよね。こういうの、嫌だなあって」
「こういうの? お葬式がってこと?」
「お葬式もだし、お祖母ちゃんの姿もそう。お祖母ちゃん、痩せてシワシワで、それにボケちゃってたんだ。私も家族のことも忘れてた。ただ、写真を見ながら『洞窟に行かなくちゃ』とか『夫はどこ』とか『霧の中に夫がいるの』とか、そればかり繰り返し言っててさ。もうずっと、何年も。病院から脱走騒ぎもあったんだよ」
隣のクラスの噂話をするみたいな調子で話すメイ。
「お祖父さんはどうしてるの?」
「いないよ。そもそも、私にお祖父ちゃんはいないし」
初耳だ。
「お祖母ちゃん、今で言うところのシングルマザーなんだ。女手一人でお母さんと叔母さんを育てたんだって。お祖父ちゃんのことは何の手がかりもないし、そもそもボケるまで探そうともしなかったんだよ。今更、夫がどうのか言われてもどうしようもない。ましてや霧なんて、意味不明だし」
「へ、へえ……」
そんな家庭の事情があるとは知らなかった。
「まあ、とにかくね。そんなお祖母ちゃんを見て、思ったの。私は静かに、安らかに、誰も知らない間に、綺麗なまま、死にたいなあって」
ああ、なるほど。
「別に長生きしないと思わない。長く苦しむよりも、短くても元気な人生にしたい。それで、煙のように、ふわっと死んでいなくなりたいなって」
「んー、まあ、それが一番楽だよね」
分かる。痛いのや苦しいのが嫌なのは、私だってそうだ。
「でしょ?」
「でも、どうしてそれを今言うわけ?」
「これ、見てよ」
メイは、私に部誌を手渡した。
上下二段組のページで、上段に白黒の写真が印刷されている。
「これがどうかしたの?」
私は部誌をひっくり返した。背表紙の号数を確認する。この部誌は五年前に刷られたものだ。
「そこのページの写真ね、お祖母ちゃんが持ってた写真と同じなんだ」
「え?」
ページを二度見する。
古い写真だ。立派な大きなお社と、蔦が巻きついた鳥居が写っている。地面は雑草が生え放題で、遠くはぼやけてよく見えない。写真の下にあるキャプションには、『校舎裏の山で撮影』と書かれている。
「あの藪のところか」
学校の裏には山がある。竹藪が生い茂る山だ。名前は知らない。みんな、ただ『山』と呼んでいる。当然、近づく人はいない。
「何でこんなの読んでたの?」
「タケヤンの方のネタ探しだよ。先輩のをパクろうと思って漁ってたの。そしたら見つけてさ」
顧問のタケヤンは、私達が自由気ままに小説を書くことをよしとしない。部活である以上、趣味の作品だけではなく、ちゃんと実績になるものを用意しろ、と言う。だから文化祭の部誌では、研究発表として、地域について調べたレポートを載せなければならない。
幸い、ネタには事欠かない。この町は神隠し伝説が多いことで有名だ。地主の一族が消失した、農家の何とかという娘が忽然といなくなった、といった昔からの伝承の数々に、科学技術の時代になっても囁かれる都市伝説。
そういうちょっと怖いお話を、歴代の先輩が部誌に書いている。私達はそれらの記事を再利用すればいい。適当な古い記事を焼き直すのだ。部活動してますという体裁が整えば、中身はなんだっていいのだ。
「このレポート、誰が書いたんだろう」
私はレポートのページを遡った。
「あれ? これ、落丁かな」
「どうしたの?」
「このレポート、作者名がない」
文芸部のルールでは、一行目に大文字でタイトル、二行目に名前があるのが普通だ。
この山のレポートのタイトルは『校舎裏の山について』。その次の行は、空っぽだ。作者の名前が欠落している。
巻頭の目次を開く。『校舎裏の山について』というタイトルはあるけど、作者名がない。奥付にも名前がない。
「どういうこと?」
部室のパソコンのフォルダを開く。歴代の部誌の電子データを遡る。
五年前の、印刷用完成データと、当時の部員が提出した生データを見つける。しかし、完成データにも、『校舎裏の山について』というタイトルの生データにも、名前は見つからない。
「うーん、何でだろう。この人だけ名前がないってのが変な感じ」
「その時の編集がサボってたんじゃないの? ま、そんなことはどーでもいーじゃん」
メイは私の手から部誌を奪い取ると、椅子から立ち上がった。そのまま出口まで歩いていく。
「え、ちょっと、どこへ行くの?」
「山だよ。ちょっと行ってくる。取材だよ、取材」
「は?」
この八月の炎天下に、道があるかどうかも分からない竹藪の山に、入る?
「待て待て待て、熱中症で死ぬよ! 山とか、虫とか蛇とかわんさかいるし、危ないよ! それに私、今日は早く帰らないといけないし」
「え、何で?」
「家の片付けがあるんだ」
「家の片付け?」
「私の家、三人家族なのに、何故かやたらと家具が多くて手狭なんだ。だから大掃除をしようということになって、それが夕方からなんだよ。今の時間から山に入ったら、帰る頃には真っ暗だよ!」
「ふーん。でも私は行くよ、気になるもん。一緒に行こうよ。ちょっと見に行くだけだからさ。時間がなくなったら、君だけ先に帰ったらいいじゃん」
「え?」
私の返事を待たずに、メイは部屋の外へ飛び出していった。
……しょうがない。私も少しだけ気になるし。一人じゃ原稿書く気にはなれないし。とりあえず、親には遅くなるって連絡しておこう。
パソコンの電源を落とし、エコバッグに財布とスマホとモバイルバッテリーを入れて、部室を出た。廊下の曲がり角で、メイがニコニコ笑顔で待っていた。
「いい? 写真の場所を見たらすぐ帰るからね」
「分かった分かった」
十分後。
私達は山の横の道を歩いていた。
アスファルトの道路の端に、枯れた側溝がある。その側溝を挟んだ反対側は、竹林だ。竹が密集して生えている。足を踏み入れることは無理だ。
メイは、私の少し前を歩いていた。部誌を読みながら歩いている。転んでも知らんぞ。
「そういやさ、そのレポート、何が書いてあるの?」
「昔、あの山の上には、死期が近い病人や老人が暮らすための屋敷があったんだって」
「え、あの山に? 場所は分かってないんじゃなかった?」
重病人や老人だけが暮らす屋敷の伝説は、昔からこの町にある。だけど、どこにあるのか、誰が屋敷を運営していたのか、とか、そういう証拠が全くない。だから、ただのおとぎ話でしかない。以前読んだある本には、姥捨山の変種だという説が載っていた。
「でも、ここにはそう書いてる。お祖母ちゃんがこの場所に行きたがってたのも、そのことを知ってたからかもしれない。とにかく行こう」
山のふもとを半周くらいした頃。ようやく、竹林の切れ目を見つけた。
細い石の階段が、山の奥へ続いている。先は暗く、見通しが非常に悪い。まともな人間なら絶対に入らない。嫌な感じがする。
「本当にここ?」
「うん」
メイは何の躊躇もなく、階段を登り始めた。
ああ。もう仕方ない。私も、彼女の後ろに続く。
山の中に入った瞬間、むわっとした空気が私の顔にまとわりつく。草か土か何かが腐った臭いがする。虫が大量に飛んでくる。来る途中にコンビニで買って、全身に吹き付けた虫除けスプレーは、何の役にもたたない。
「あ、キョウチクトウだ」
メイが階段の脇の木に顔を近づけた。この山に入って初めて見る、竹以外の植物だ。真緑の葉っぱで、背が高い。
「キョウチクトウ? よく知ってるね」
「この前、ネットで読んだんだ。毒があるんだってさ。食べると吐き気やめまいがして、最悪の場合、死ぬんだって」
楽しそうに話しているけど、このメイの話し方……面白半分の冗談じゃない。
「他にも、彼岸花とか、ソテツとか。学校に生えている草や木に、毒があるんだって。面白いよね。いつだって死ぬことができるんだ」
「あー、まさか、食べる気?」
「食べるわけないでしょ。苦しい死に方は嫌だもん」
小馬鹿にした目で私を見るメイ。何だろう、ビミョーに腹立つ。
「痛いことはしないで、眠るように死にたいんだよね」
「えっと、じゃあ、外国で安楽死とか?」
「それは一番ダメでしょ」
何を言ってるんだコイツ、という目を向けるメイ。ムカつく。
「そもそも、安楽死するつもりはないよ、私は。病気でも何でもないのに殺してくれとか、ただの迷惑じゃん。お医者さんに人殺しはさせちゃダメでしょ」
あ、迷惑とかその辺はきちんと考えてるんだ。
「私が目指すのはね、完全犯罪ならぬ完全自殺。誰かの手を煩わせることなく、誰にも見つかることなく、怪しまれることも止められることもなく、一人で死ぬことなんだ」
笑顔でガッツポーズするメイ。その背中がナゾに頼もしく見える。
階段を登りきる。
竹藪で囲まれた、草ぼうぼうの空き地。そして、古ぼけた神社。
メイがあの部誌のページを開く。私は横から覗く。白黒の写真と目の前の景色を比べる。全く同じだ。
鳥居をくぐる。蝉の鳴き声が、遠くなった気がした。
石畳の道が、まっすぐお社まで続いている。
道の両側の草っ原には小屋が建っている。崩れかけてボロボロのものもあれば、古ぼけた石の小屋に、ごく普通の現代的なテントまである。でも、人の気配はない。
お社の前に来る。写真や鳥居の前で見た時の印象よりも、大きく見える。普通のお社と違うのは、賽銭箱やガラガラ鳴らす鈴が無いことだ。
「……まあ、何というか、ただの古い神社って感じだね」
私はカバンからスマホを取り出し、撮影しようと構える。
その時、メイが不意に前へ歩きだした。お社の戸を押して中に入っていった。彼女の姿が社の中へ消えるのを、私はスマホのカメラ越しに見ていた。
──ん? え、は? 入った? 中に?
お社の戸が開き、メイがひょこっと顔を出す。
「ねえ、来てよ! 面白そうだよ」
「勝手に入ったらマズいって!」
「でも面白いそうだよ。ここ、ただの神社じゃなさそう」
メイはまた顔を引っ込めた。
……マジか。
私は、色褪せて灰色になった戸に触れた。軽く押すと開く。中は──暗い。真っ暗だ。戸から差し込む光が、うっすらと中を照らしている。石の階段が下へ下へと続いている。奥に白い光が見える。あれはスマホのライトだ。
「危ないって! 見つかったらどうするの!」
「ここまで来たのに帰るなんてやだよ!」
メイの声が反響する。
ったく。
とりあえず、万が一、戸が閉じられないよう、戸の溝に枝葉を差し込んで動かなくしておこう。
「はあ、行くかあ」
スマホのライトを頼りに、中へ一歩入る。外の暑さが嘘のように涼しい。ブルリ、と身体が震える。
階段をゆっくり降りる。一段一段が高い。もしも足を滑らせたら──いや、考えるのはやめよう。
一番下まで降りた。冷たい風が私の頬を撫でる。
「ここは……」
広い広い洞窟のようだ。前方にライトを向けると、光を反射するものがある。水だ。
「地底湖?」
「みたいだね」
遠くから、メイの声が聞こえた。
「これ。見て見て」
メイは地底湖の淵に立ち、岩の壁にライトを向けている。
「すごいよ、これ」
ライトの先には、色鮮やかな絵があった。
壁画だ。
上下左右、洞窟の壁一面に、絵が描かれている。
「これは、いつの時代の絵? 平安? 奈良? すっごく昔ってのはわかるけど」
日本史の教科書に載ってそうな絵だ。右から左へ、場面が変わっている。人々が小屋や洞窟の中で寝ている場面、湖の前に集まっている場面、そして、湖に身投げする場面。
……うん。身投げだよね、これ。泳いでるようには見えない。
身投げの後の場面はない。ぷっつりと途切れている。その代わりに、白色のスプレーが塗りたくられている。路地裏なんかで見かける落書きだ。
地上の崩れた小屋とテント。地底の壁画とスプレーの落書き。古いものと新しいものが雑多に入り混じっている。
廃墟には、不審者や犯罪者がいる、と聞いたことがある。ここもそうかもしれない。テントやスプレーの落書きがあるということは、今でも誰かが出入りしているということだ。
「すっごく広いねえ、ここ」
メイは地底湖の周辺をのんびりと歩いてまわっている。無駄だと知りつつ、提案する。
「ねえ、もう帰ろうよ」
「やだよ。もっと探検する」
メイの背中は遠ざかっていく。
しょうがない、彼女を一人残して帰るわけにもいかない。
もしも誰かがやって来た時のために、隠れ場所でも探そうか。
スマホのライトを壁に向けながら、私はメイの方向とは逆向きに歩く。すると、すぐに見つかった。横穴だ。スプレーの落書きの横にある。
中はとても細い。そして、地底湖に比べるととても天井が低い。腕を伸ばしてジャンプすれば届きそうだ。壁がツルツルだから、人が掘ったものに違いない。
左右に等間隔に穴があり、中は石でできた寝台っぽいものがある。すごく狭い寝室だ。寝台以外には何もない部屋もあれば、物が散乱している部屋もある。
まっすぐ歩くと、すぐに行き止まりに着いた。どうやら、左右に五部屋ずつ、合計十部屋あるらしい。人はいない。
横穴の入り口まで戻る。今度は、私から見て右側の部屋から、ひと部屋ずつ見ていく。
一番目の部屋には、丁寧に畳まれた服や靴、アルバムがある。アルバムを開く。古ぼけた写真が並んでいる。
二番目の部屋は通路を挟んだ左側の部屋には何もない。
三番目の部屋は空っぽ。
四番目の部屋は散らかっている。服や靴や知らない漫画、他にも細々した物が色々。小物にプリントされているキャラクターはネットの何かで見たことがある気がする。キャラクターの特徴で検索してみる。出てきた。平成初期に流行したものらしい。
五番目の部屋は、何もな──
「あれ」
知ってる物が見えた気がして、私は半歩後ろに下がり、通り過ぎたばかりの部屋を覗いた。
スマホのライトを奥に向ける。部屋の隅にぽつんと放置されているそれは、私の肩にかかっているものと同じ、高校指定のカバンだ。
私は部屋の中に入り、カバンを開けた。
高校二年の教科書やノートが入っている。ノートの表紙には、名前がある。知らない名前だ。教科書のページをめくり、奥付を見る。五年前に出版されたものだ。
五年前?
カバンを探ると、他にも色々出てくる。電池切れのスマホ、財布、生徒手帳……え、うそでしょ。五年前の文芸部の部誌がある! しかも付箋付きだ。
私は部誌にスマホのライトを向ける。片方の手で、付箋がついたページを捲る。
そこには、あの『校舎裏の山について』のページがあった。私とメイが部室で読んだレポートと同じだ。あの裏山の写真もある。
違うのは、作者の名前があること。ノートや生徒手帳に書かれた名前と同じだ。
どういうことだろう?
スマホをかざし、カメラで名前を撮影する。でも、写真フォルダを確認すると、そこにあるのは真っ暗な画面ばかりだ。ちゃんとフラッシュを焚いているのに。生徒手帳もノートも教科書も、名前を撮ろうとすると真っ黒になる。
は? どういうことだ?
写真が撮れないなら、メモ帳に名前を記録しよう。私はメモ帳アプリを開き、名前を入力する。
すると、突然スマホの電源が落ちた。
一瞬、息をするのを忘れた。突然の真っ暗闇に、思わず声をあげてしまう。すぐに、スマホの電源ボタンを長押しする。画面が明るくなり、再起動した。
もう一度メモ帳に名前を入力しようとする。すると、また落ちた。
変だ。一体、何が起きてるんだ?
電波は普通に届いている。メッセージアプリは動くし、今の天気も見れる。だけど、検索バーにこの作者の名前を入力する気にはなれなかった。
私は先輩のカバンにノート類を戻し、後にした。
さて、次は左側。今度は奥から部屋を見ていく。
六番目の部屋に、人がいた痕跡はない。
七番目の部屋は、ゴミが散乱している。特に目ぼしいものはない。
八番目も同じだ。コンビニのゴミっぽい。ここにいた人につながりそうな物はない。それに、さすがにゴミには触りたくない。
九番目の部屋は何もない。
最後、十番目の部屋を見る。