ここには小さなリュックサックがポツンと置かれている。何だろう、どこか見覚えがある。それに、他の部屋の物と比べると、まだ新しい。
リュックサックを開ける。教科書は中学校のもの。ノートの表紙はどうだろう? あ、苗字が私と同じだ。
リュックサックのポケットを探ると、スマホが出てきた。充電は切れてるけど、私と機種が同じだ。これなら私のモバイルバッテリーで充電できる。
私のカバンからバッテリーを出して接続する。待つ間に、リュックサックをもっと探り、生徒手帳を見つけた。
五番目の部屋で見つけたのは高校生の生徒手帳だったけど、これは中学生の生徒手帳だ。顔写真は見覚えがない……でも、どこかで見たことがある気もする。
数分後、画面が明るくなり、パスワードを問われた。生徒手帳に書かれていた誕生日を打ち込むと、開いた。よかった。
早速、メッセージアプリを開く。
連絡欄を見た瞬間、スマホを落としそうになる。
瞬きし、目を擦り、暗い天井を見上げる。それからもう一度画面を見る。
画面には……私の名前とアイコンが映っている。
私だけじゃない。私の父や母の名前もある。私達に、メッセージを送っている。『いつ帰る?』『五時ごろ』『今日の弁当美味しかった?』『うん』──たわいもないメッセージが、ずっと並んでいる。こんなの、私は知らない。
自分のスマホを確認する。そんなメッセージはどこにもない。この正体不明の、苗字が同じ人間のスマホのメッセージアプリの中にだけ、私と家族へのメッセージが存在している。
震える指で、写真アプリを開く。たくさんの写真がある。
私の写真もある。写真の中の私は大抵、笑っている。このスマホの持ち主とのツーショットもある。何枚もある。
最新の写真は、ゴールデンウィークの時に撮られたものだ。背景は大都会。ここは知ってる。県外の賑やかな町に遊びにいった時のものだ。
私のスマホにも、その時の写真がある。同じ場所、同じアングルの写真がいくつもある。ただ、どの写真にも、私と両親の顔しか映っていない。どこにも、この中学生はいない。
この子は、一体どこへ行ったんだろう?
SNSアプリを開く。
フォロー数ゼロ。フォロワー数もゼロ。非公開アカウントの設定になっている。ひたすら独り言をここに投稿していたみたいだ。
最後に投稿されたのはゴールデンウィーク最終日。『もう嫌だ。さよなら』とだけある。
背筋がぞくりとする。呼吸が早くなる。
何故? 私はこの子のことを知らない。全くの赤の他人だ。そもそもゴールデンウィークは親と都会の町に旅行に行って、普通に家に買ってきて、それから──。
それから、どうしたんだっけ?
頭が痛い。冷や汗が流れる。思い出そうとするな、と本能が告げる。
私は素早く画面をスクロールする。投稿を遡る。
この子は、部活で悩みを抱えていたようだ。所属は陸上部。厳しい先輩と顧問の指導、それに反発する後輩と同級生。その間で板挟みになっていたようだ。
『姉に言ったら、部活なんか適当でいいって感じで笑われた。いつも困ったことがあったら相談してって言ってるくせに』
知らない誰かと話をしている光景が、脳裏によぎる。
家の、私の部屋。そこに私と誰かがいて、その誰かが私に話しかけている。顔も声も全く分からない。でも、ちょっと躊躇うような、でも何でもない日常のような雰囲気で、私に話しているのが分かる。
私はその機微に気づかなかった。そもそも、部活にマジになるなんてことが、私には理解できなかった。
「ごめんよ」
存在しないはずの誰かに向かって、気がつけば謝っていた。
何故、こんなに罪悪感で胸が張り裂けそうになっているのだろう。
分からない。
思い出せない。
目尻に浮かぶ涙を拭い、画面をスクロールする。ある日の放課後、部内の最悪な空気から逃れるため、自主練という名目で、一人きりで学校の外を走っていたようだ。サボりたくて、普段のコースを外れて走っていたら、ふらりとこの山までやってきた。そして、何となく階段を登って、ここまで来たようだ。
この時は、他にも人がいたらしい。何人かが地上のテントやこの洞窟に住んでいたそうだ。
『私の話を優しく聞いてくれた。またここに来よう』
『ここは落ち着く。ずっとここにいたい。帰りたくないな』
『あれ、あの人がいない。どこへ行ったんだろう』
穏やかな投稿が続く。
『ここ、自殺スポットなんだって』
一瞬、指を止める。それから、ゆっくりと指を動かす。
『誰にも知られずに死ねるんだって。見つからないし、怪しまれないし、誰も探しに来ないんだって』
『あれ? 湖面に霧が出てる。洞窟なのに、不思議』
『今日も霧が漂っている。何かが水の中に落ちる音がした。霧が晴れると人が一人、消えていた』
『警察も誰も来ない。ニュースにもなってない。本当にここには邪魔な人が来ない』
『また一人、霧の向こうに消えた』
『私だけになった。私も消えたい。でも、今日は帰らなきゃ』
この投稿が四月末。そして次の投稿が、ゴールデンウィーク最終日だ。
霧。水音。人が消えた。
メイのお祖母さんは、霧の中に夫が消えた、とか言ってたらしい。
不意に、目の前が霞んだ。
ライトで周囲を照らす。いつの間にか、白い煙のようなモヤが、漂っている。
「──そうだ、メイ」
メイは今、何をしてる?
このスマホと、生徒手帳、他にも細々した物を私のカバンに入れる。持って帰れるかどうかは分からないけど、やってみるしかない。とにかくここを出ないと。
通路から広い空間へ飛びだす。駄目だ、前がほとんど見えない。これはモヤじゃない。濃霧だ。
「メイ! 返事して!」
叫んでみる。返事はない。
私はメイのスマホに電話をかける。どこからか着信音が聞こえるけど、メイは電話に出ない。
「メイ、聞こえてるでしょ?」
ここは、洞窟で音が反響しやすい。そのうえ、深い霧が立ち込めていて、音の聞こえ方が普段と違う。どこでスマホが鳴っているか、全然分からない。
岩の壁に片手をつき、ゆっくり歩きだす。走りたいけど、こんな霧の中、足元が見えない保証はない。慎重にいかないと。
「悪ふざけはよして!」
声を出しながら、考える。
ここは、多分、自殺スポットってやつなんだろう。たくさんの人が死んでるんだと思う。
ただ、普通の自殺スポットじゃない。ここで死ぬと、存在そのものが世界から消える。スマホからも学校の書類からも、家族の記憶からも、その人物は消えてしまう。
五月初めまで実在したに違いない、私の妹。だけどどれだけ記憶をさかのぼっても、そんな人、私は知らない。
でも、胸は痛む。辛い。しんどい。涙が頬を伝う。あの子は本当に、いたんだと思う。きっと、私は無意識下で覚えている。
メイの祖母は、ボケてから祖父のことを思い出したという。健康な脳では思い出せないということなんだろうか。病気でなければ思い出せない、というのは、『重病人や老人だけが暮らす屋敷の伝説』と関係があるんだろうか。分からない。
分かるのは、メイの『誰の手も借りずに死にたい』という願望とこの場所は、相性が良い。良すぎる。
「メイ、電話に出て! ねえってば!」
着信音が大きくなってきた。すぐ近くまで来た感じがする。
「ここにいるよ」
背後で、声がした。文字通り私は飛び上がった。
振り返ると、メイがいた。彼女の制服のスカートから、スマホの着信音が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと。驚かさないでよ」
「ごめんごめん、さあ、行こ」
メイは私の手を取ると、迷いのない足取りで歩き出す。
「ちょっと、こんなに煙が出てるのに、危ないよ。そっちが出口?」
「うん、そうだよ」
手が痛い。メイが私の手を、強く強く、握りしめている。
「手が痛いんだけど」
メイは何も言わない。手を握りしめたままだ。
「こっちの方に進んだら、湖に落ちるんじゃないの?」
「湖には入らないよ。霧の中に入るんだ」
私は足を止めた。だけど、メイはそのまま歩き続け、私は引っ張られて転びそうになる。それでも何とか踏みとどまって、私はもう片方の手で、メイの肩を掴んだ。
「メイ! 止まって! ふざけてんなら、本当に怒るよ?」
「どうしたの? こっちの方向であってるって」
キョトンとした顔でこっちを見るメイ。
「霧の中に入ってどうすんの! 学校に帰って、原稿を書くんでしょ!」
「そんなの、どうでもいいじゃん」
「どうでもよくない! ここにいると本当にマズいって! 湖に落ちたら、誰も助けてくれないよ! 死ぬの! アンタも私も!」
メイはヘラヘラと笑う。
「完全自殺達成じゃん。イイね」
「あんたの完全自殺は、一人で死ぬことでしょ? 今は私も一緒だよ!」
「じゃあ、私と一緒に来たらいいじゃん。一緒に逝こうよ」
一緒にトイレ行こうよ、くらいのノリで、メイはそう言った。
心臓が早鐘を打つ。耳元で血がドクドクと鳴っている。
これはもう、いよいよヤバい。本当の本当に、マズい。
「……この先には進ませない。メイを死なせたりしない。私と一緒に帰るんだ」
「えー? 自分勝手だなあ。私が私の命をどうしようが、私の勝手でしょ? それよりほら、一緒に逝こうよ」
私はメイのこめかみを、スマホの角で思い切りぶん殴った。
メイがよろめき、手が自由になる。
私はメイの背中にまわり、後ろからつかみかかった。
「離せ!」
「帰るよ! 二人でね!」
このメイは、私が知ってるメイじゃない。山を出たら、きっと正気に戻る。戻るはずだ。
スマホはポケットにしまった。ライトはない。真っ暗で方向が分からない。
でも大丈夫。方向感覚はいい方だ。横穴からそんなに離れていないはず。自分の感覚を信じよう。
こっちから来たはずだ。
「やめて、離して! そっちは出口じゃない!」
メイが腕の中で暴れる。私は両腕に力を込めて、メイを逃さないようにする。
つま先で足元を確かめながら進むと、壁に行き着いた。洞窟の壁だ。よし、この壁を伝っていけば、階段まで戻れる。
「ね、ねえ、ごめんって。私が悪かったよ。君はもう一人で帰っていいよ。私だけいくからさ」
メイがしおらしい声を出しながら、モゾモゾと腕の中で動く。
「うるさいクソバカ」
メイが死ねば、『メイという友達がいた私』も死ぬ。
全てなくなる。残るのは、無意識下に積もる思い出の遺灰だけだ。
すでに『妹がいた私』は死んでいる。何度も死んでたまるか。
見覚えのある横穴を通り過ぎる。落書きされた壁画を通り過ぎる。
汗が頬と首を伝う。息が苦しい。でも、もう少しのはずだ。
「離して、離して。嫌だ」
「黙れ」
涼しい風が、私の頬を撫でた。
……ああ、ようやく、ようやく、辿り着いた。地上へ続く階段だ。上から風が吹いてくる。
動くメイを抱えて階段を登る。メイの足が石の段差にガツガツと当たる音がする。痛そう。靴が脱げるかもしれない。だけど、どうしようもない。
階段が終わる。開けっぱにしておいた戸をくぐり、外へ出る。
空が赤紫色だ。もう夜が近い。山の中はほぼ真っ暗だ。
大丈夫。私達は入口の鳥居から、まっすぐこの社まで来た。ここを真っ直ぐ歩けばいいだけだ。道は石でできてる。歩けるはずだ。
息を整え、力を振り絞って道を歩く。メイのうわごとには耳を貸さない。黙って進む。
ようやく、鳥居を抜けた。
「え? あれ、私、あれ? ちょっと、何してんの? 歩けるよ!」
メイが急に動いた。疲労で限界だった私の両腕から、するりと逃げる。
「う、何か足が痛い。靴紐解けかかってるし。あれ? 地底湖は?」
キョロキョロと周りを見回すメイ。
「戻ってきたんだよ。あそこは本当にヤバい」
「そうなの? 全然覚えてないや。あ、部誌がない! 置いてきちゃったかも」
「どうでもいい。帰ろう。もう夜なんだし、帰らないとまずいって」
「え? あ、いつの間にこんな時間に……うん、帰ろっか」
二人で階段を降りる。メイが先、私が後だ。
日が沈んでも、ここはとても蒸し暑い。スマホのライトめがけて虫が飛んでくる。鬱陶しい。
「ねえ、洞窟で何かあったの? 私、途中からよく覚えてない。死ぬにはすごくいい場所だと思ったのは確かなんだけど」
「……有毒ガスが立ち込めてたんだよ」
「はあ?」
本当のことは、話さないことにする。とてもじゃないけど、話す気になれない。
地底湖から霧のような有毒ガスが噴き出していたという私の作り話を、メイはうんうんと頷きながら、素直に聞いている。
ああ、そうか。
この町には、神隠しの伝承や都市伝説が多い。その理由がわかった気がする。
あの地底湖を知った人達が、何とかしてこの事を伝えようとしたからだ。
地底湖で人が死ぬと、その存在は消滅する。でもその消滅は完璧じゃない。痕跡は残る。民話、おとぎ話、伝承、都市伝説。事実を記した記録は消えるけど、架空の物語の形式だと残るんだ。
私みたいに湖から帰ってきた人が、この場所と消えた人々の存在を、物語の中に残そうとした。そしてこの場所を警告しようとした。だからこの町には神隠し伝説が多いんだ。
「そっかー。じゃあ、後で立ち入り禁止の看板でも立てとく?」
「そうだね。図工室を借りれるか、今度聞いてみるよ」
ようやく山を降りる。もう下校時刻だ。学校はもう閉まってるだろう。
「学校に荷物、いっぱい残してるのに」
「明日取ればいいじゃん」
メイは首を横に振る。
「水筒があるんだよ。飲みかけの」
「……大丈夫だよ、一日くらい。ほら、帰ろう。明日は原稿を書くのと、看板作りだよ」
「うん。また明日」
メイは、足の痛みに顔をしかめながら、駅の方へ向かっていった。少しだけ尾行する。良かった。ちゃんと電車に乗った。家に帰るつもりのようだ。
私も帰ろう。着替えて、ご飯を食べて、お風呂に入って、部屋に戻ろう。
それから、遺書を残そう。
メイは長生きする。してほしい。完全自殺なんて馬鹿げた夢を忘れて生きる。そう、信じたい。
でも、そんなの分からない。今夜、メイはまたあの地底湖に戻るかもしれない。あるいは明後日、それか明明後日。もしかすると、数ヶ月後かもしれないし、十年後か二十年後かもしれない。
その時に備えて、今日の出来事を、しっかり残しておく。重要でない箇所に嘘を混ぜた、フィクションの物語を書いておく。
いつか、私が死んだ時。私という存在が消滅した時。
この物語を見返した次の『私』は、いつどこで書いたんだっけと、首を傾げるに違いない。そして、なんか変なものが見つかったと喜び、部誌だか雑誌だかネットだかに公開するだろう。
私の存在は、フィクションの中だけになる。
物語の中なら、私は消滅しない。
そして、いつか、これを読んだ誰かが、あの山の地底湖から逃げるための手助けになることを願う。
死は避けられなくても、あの山の殺意には抗える。私はそう信じている。
(完)
※この作品はフィクションです。作中の舞台・登場人物は全て架空のものです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。